白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(239)巡業ものがたり

2017-05-26 16:35:08 | 思い出
巡業ものがたり

 久しぶりに九州地区だけでも一緒に回ったおかげで昔舞台監督時代巡業を廻った時のことを思い出した そのころ九州地区は山形屋などの百貨店のご招待が盛んで我々みたいな駆け出しでもミヤコ蝶々 藤田まこと かしまし娘など多く仕事が回って来ていくつかの思い出がある 

鹿児島公演

そのころは夜行で西鹿児島駅まで行って早朝に着くのが大阪からのコースで一度何かは桜島の噴火の灰で一面が積もってまるで銀世界のようだった キュキュと踏みしめる灰の雪はまた違った趣があった
今回公演をやった市民文化ホールが出来たばかりで桜島を望む埋立地にポツンと立っていて近くにはホテルのほか何もないという有様だった パチンコに凝っていた中村玉緒はパチンコ屋のある天文館近くのホテルにサッサと引っ越す始末だった それ以前は看板さんは城山観光ホテルで下っ端とスタッフは古い大きな旅館で泊りだった ある日関西演劇界の大御所Nが山から下りてきて「あんな高い朝食はよう食べん」と我々の旅館に合流した 僕も女中さんに気に入って貰って苦手な納豆以外の一品をいつも貰っていた
鹿児島公演での思い出は台風が鹿児島沖で2日間ストップしたことがあった 前日の川内公演は仕込んでいる最中に避難民が押し寄せ(川の方が高い町でいつも水没していた)我々の仕込みを見ていた 川内は中止となったが翌日の鹿児島公演も仕込みだけやって台風が去るのを待ったがその日中にはビクとも動かず結局中止となった 会場から海をみるとはるかかなたに台風らしきものが渦まいているのが見えるようだった
最近も同じように鹿児島沖で台風が止まって何十年振りかの出来事だと言っていたがその時のことだ

台風
台風で思い出したが制作助手として金沢から高松に移動する旅の前乗りをしたとき 宇部で台風に会い急遽一行を大阪で降ろして泊まらせ翌日台風一過宇高連絡船に乗せたことがあった 今のように携帯もない時代によくやったものだ
東芝日曜劇場2000回記念公演の時である

唄啓劇団
僕が梅コマに入った頃は日本香堂唄啓劇団公演に梅コマのミュージカルチームが何人か連れて行ってもらっていた そして必ず「やられて」帰ってきた 一度は妊娠騒ぎにまでなってその相手の中堅男優はコマ差し止めを食らった そのころ鳳啓助のワンマンだった劇団は入れ食い状態で チーム一可愛かったAもその後の大物男優や有名演歌歌手の弟を手玉に取る片鱗を見せ座長の傍にべったりの状態だったらしい


幕を掛ける

前年度の公演費の回収旅をやったことがある 会場に着くと我々はまず仕込みに掛かりいつでも開演できる状態にしておく 
やがて客が集まりだすとその売り上げを幾らか取り上げ客が騒ぎ出したら出し渋った昨年度の借金をもふんだくり おもむろに幕を開けるという離れ業を毎日繰り返した

九州ソープ制覇
現在みたいに一人一部屋なんて夢の又夢であった旅館の大部屋で全スタッフ雑魚寝という あの頃は「あっちの処理」にも苦労した 福岡 宮崎 鹿児島 大分 長崎 夕飯のあとは夜の街に繰り出してソープ通い 貰った祝儀は全てソープに使った 土地土地の方言が快く聞こえそれはそれで中々いいものである 結局九州全県制覇してしまった 現代の若い奴らはそんな「そぶり」も見せないがどうしているのだろう

おさせ
 
何の公演だったかいわゆる「おさせ」(公衆トイレ)が話題になり ある漫才師に「あれ、先生は知らなかったんですか? てっきり知ってて入れてくれてると思ってました」とこともげもなしに言われ ある男優に真偽を尋ねたところ「おれも聞いてびっくりして試してみたら本間に好きものやったで あんたやってまへんのか」という 某スター男優のお付きであった彼女はそんなそぶりも微塵とも見せず芝居に精出していると思ったが・・・「おさせ」の一人や二人入れ込むのが巡業の頭取の腕だという

愛のシンフォニー
松本伊代のミュージカルで鹿児島が本州最後で次の沖縄公演の道具をフェリーで送り出したあと 飛行機での出発まで2日空いた時 制作に(アイエスにあらず)「吉村さん 大阪に(抜きに)帰ってきませんか」と飛行機の切符を渡された 今回参加してなかった小道具の人の名前の切符だった 「いや大丈夫ですよ」と言って夜部屋に帰ると若い女が居て○○さんに来いと言われましてという 電話が掛かり「例の切符キャンセルしたお金で呼びました 気にいらなかったらチェンジOKですんで」という 伊代サイドの人間たちが「アイエス」を食い物にしている まだ梅沢や舟木を扱う前のアイエスであった
次の日飛行機で僕は生まれて初めて沖縄に渡った
那覇市民会館では沖縄舞台さんが協力してくれてお礼に本土から持って行った道具類を全て差し上げた

不入り
巡業はどこへ行っても満員とは限らない 今は大女優となっている仮にSという女優が人気絶頂のころ 彼女の兄さんが一座を作り巡業に打ったことがある 人気の過信か宣伝不足かどこへ行っても入らない その移動中のバスの中はお通夜のよう そんな雰囲気を打ち崩すのが喜劇人の役目だと思うが大看板のOはこともあろうかそのSにギャラは貰えるのかと詰め寄り泣かせてしまった 僕はこの役者がどんないい芝居をしょうが許さない

吉村旅館

僕の実家がある三重県の名張市で梅沢公演を打った時 ホテルがないので僕の実家をスタッフの泊まる場所として解放した 夏だったので男性は居間で雑魚寝 照明の女の子は僕の母と寝た シャレで予定表に「吉村旅館」と書いてあったらしく とある興行社の人が問い合わせて来た その日は付き合ったが会場の近くはホタルで一杯飛んでいて綺麗だった

白鷺だより(238)NHK京唄子追悼番組顛末記

2017-05-23 12:31:13 | 思い出
      NHK京唄子追悼番組 顛末記

5月19日7時30分より放送のNHKかんさい熱視線「芸ひとすじに生きた女 なにわの大女優 京唄子」を複雑な思いで見た
 
先月の唄子さんの身内だけの葬儀の様子から始まり 色々な人が思い出を語り(鳳キング・西川きよし・モモコ・谷光典 衣裳の宮川ちゃん 大原ゆう 見高光義)そのあと彼女の89年間の人生を振り返る 
「彼女の遺したもの」ということで大原・見高の舞台を流す 最後は大村崑が締めて番組は終わる 
驚いたことに主演者紹介や担当デレクターなどのクレジットは一切ない
「京唄子さん、改めて凄い人だったのだと感じました」(NHK)「今日の放送、唄子さんは喜んでくれてるよ!」(大村崑)「唄子さんにとっていい供養になったのでは・・・・」(某元プロデューサー)なる評価を得て終了した

しかし僕の電話の着信記録はある番号がズラリと並ぶ NHKBKの某デレクターの番号だ そこには5月4日1件(稽古中)5月5日3件(この日大阪稽古が終わった)5月6日2件(鹿児島移動日)5月11日長崎収録下見 ㋄12日佐世保収録
5月17日4件(大阪帰阪翌日)5月18日5件(放送前日)ざっとこんな感じである
17日には若き男性デレクターKに変わり「浪花のれん」の出演者が判らなくて困っている 聞いているメールアドレスで映像を送るから教えてくれといわれバカ正直に届くのを待っていたら別件でAから電話が入り 話が終わって例の映像はどうなっているか聞いてくれと言ったらその男性Dが著作権の話が付きましたから大丈夫になりましたと言っているとのこと あきれ果て「これは社会的にもルール違反だ」と教えたら「ふーん そうですか」との返事 聞くところによるとこのデレクターは18日も松竹所蔵の映像の権利問題で関西演劇部のA女史をも怒らせていたらしい A女史ならさもありなん
(芸能界のことの)無知は許すとして こんな社会的常識すらない人間に番組作りをさせているNHKは何を考えているのか

事の始まりは4日の朝の大原ゆうからの一本の電話からだった(ゆう ごめんな・名前を出して)その日のインタビューの中で今稽古中の芝居はずーっと京さんの舞台の演出をしていた僕だという話をしたら是非会って話を伺いたいと言っている 本人に代わって翌日のインタビューとなったがそこへラビットから横やりが入り一旦流れた こちらも芝居の稽古の大詰めを迎えていて 助かったと思った ところがお話だけでもということになり 難波で会うことになった 巡業出発の前日であった その日は午前中に松竹衣裳で宮川ちゃんのインタビューを撮って来たと言った 案の定 唄子の舞台も唄啓の漫才も何も知らない若い女デレクターだったが唄啓劇団の成り立ちや京唄子劇団の成り立ち 複雑な人間関係などをレクチャーして 前日から用意をしていた僕しか知らない「とっておき」のネタを教えた それはこのブログで書いた(白鷺だより22 ミヤコ蝶々のこと)平成10年中座の京さん公演の初日の話だ
 
「石松道中双六」公演の初日に京さんを中座の事務所の呼び「中座を頼む」と指に指してたエメラルドの指輪を抜き恐縮する手を押さえ「頼んだで」とその指に指輪をはめた
(僕はたまたま付いていっただけである) 
しかしながら中座は閉館が決定し唄子さんにとってもこれが最後の中座公演となった


稽古で疲れているのでインタビューは一時間でという約束でそこで終わったら翌日鹿児島に移動した僕を電話で追っかけてきて「詳しく教えて欲しい」という 放送を見るとこの場面は巧く綺麗に使われていて「うまくいった」と思う
 
あんまり意味ないよと言ってやんわりと批判した九州巡業ロケを敢行して長崎・佐世保にやってきた 大原も仲川蝶史もンタビューしたことを知っていたので一幕のラスト二人の名舞台を推奨すると口を濁らせた 蝶史さんのインタビューは使われなくなったそうな
わざわざクルーまで動員して撮った舞台は大原中心のアップだけであった
そして「大原の舞台でどのあたりの芝居が唄子師匠の影響を受けているとお思いですか?」とバカな質問をするので怒鳴ったら拗ねて一切何も言わなくなった

ずーっと一緒に居たかった巡業も九州地区だけで終わり 大阪に戻って来た(15日)
そして放送前日(久しぶりの難波で映画)朝からの電話攻勢でイヤイヤ出たら(この日は松竹で作業していることはKのメールで知っていた) 何でも当時のスポーツ新聞でも指輪のエピソードを報じているが それは蝶々さんの中座最後の舞台「あんたもわたしも失楽園」を唄子が見に行った時に「あと頼むで」と渡されたとありますが・・・と僕の記憶の信ぴょう性を問う質問であったので 僕たちを呼びに来た当時中座支配人の上田の名前をあげ あの唄子さんがわざわざ蝶々さんの舞台を見に行くとは思えませんがとだけ言って電話を切った この辺りはうまく胡麻化して放送していた 

そんな付け焼刃で番組を作っているのか 唄子さんへの供養のために協力してやろうと思った自分がバカに見えて来た 
放送を見るとそんな苦労をさせた跡はミジンもなく結構見られた

 大村崑を使ったことも大正解で 彼ほど追悼番組に似合う役者はいないと言っていい
大きい口 大きな帽子=大女優 偉大なる役者だって! 芝居の話はしない うまい!
噂では主演は渋っていたと聞いたが・・・もっとも彼の追悼番組に出てくれる役者はいるのだろうか?

結局京さんは弟子がいない女優だった 鳳キングは啓助の弟子 大原ゆうもミヤコ蝶々の弟子 谷やんも茶川一郎の弟子 やはり僕は古い人間だろうか「二夫にまみえず」という言葉はあるが「二師にまみえず」という言葉があるならば 今回のインタビューはあんまり気持ちはいいものではない しかしこの若いデレクターはそんなことにはお構いなしに自分たちが書いた台本通りのインタビューと映像を使ってドキュメントを創り上げるのだ

 5月23日18時現在 あれほど執拗に質問でかかって来た例の女デレクターからのお礼(お詫び)の言葉は一切ない

             (5月19日7時30分~放送)

白鷺だより(237)シネマ歌舞伎「らくだ」「連獅子」

2017-05-20 15:13:52 | 映画
シネマ歌舞伎 「らくだ」「連獅子」

 今月の月イチ歌舞伎は「らくだ」と「連獅子」の短編二本立てだ
2012年12月に亡くなった勘三郎と2015年2月に亡くなった三津五郎の追悼上映とでもいうべき組み合わせだ

その一本は2008年8月納涼歌舞伎 歌舞伎座で上演された「らくだ」
作・岡鬼太郎 改訂・演出 榎本滋民
江戸落語に詳しいジミン先生ならではの落語芝居
勘三郎の紙屑屋の久六 三津五郎の手斧目の半次のコンビが河豚に当たって死んだ長屋一嫌われ者の「らくだ」の馬太郎(亀蔵)の弔い金を家主夫婦(市蔵・弥十郎)からふんだくろうと使いを出す 通夜の酒肴を出さないと死人を担いで「カンカンノウ」を躍らせるとと脅す 負けていない家主は「らくだ」が死んだとあればこんな目出たいことはない、その上死人のカンカンノウは見たことがないので是非見て見たいといいだす それを聞いた半次は馬太郎の遺体を引き起こし 嫌がる久六に負ぶわせて二人で家主のもとへ向かう・・・
見舞客に小山三が元気に芸達者なところを見せる(この年87歳) 
勘三郎が「世界一」と評する亀蔵のらくだが絶品 一言のセリフもない 自分の意志で動くことの出来ない(一か所を覗いて)死体の役でこんなにも笑わせられる この三人の息がぴったし、この狂言はよほど気が知れた三人でしか出来ない
弥十郎の家主の女房もあの大きな体で逃げ回る姿が可笑しい

萬ちゃんの芝居「てん・てこ・まい」にもこのカンカンノウ踊りが出て来るが死んだ老芸人を演じた久井さんとは比較する方が失礼である

ちなみにカンカンノウはこんな歌である

カンカンノウ キウレンス
キュウハ キュウレンス
サンショナラエ サアイホウ
ニイカンサンインピンタイ
ヤメアンロ
・・・・・・(変な歌)

三津五郎は先代の祖父が河豚に当たって他界したことから一生食しなかった


「連獅子」2007年10月 新橋演舞場
昭和9年小津安二郎が監督して撮った六代目菊五郎の「鏡獅子」の向こうを張ったのか当代の「名監督」山田洋次が演舞場で撮影した作品

河竹黙阿弥作詞による松羽目ものの歌舞伎舞踊
親獅子に勘三郎 子獅子に勘九郎 七之助と実の親子共演
親獅子が子獅子を千尋の谷に突き落とし 這い上がって来た子獅子だけを育てるという故実を実際の親子が演じることによってより感動が増す
胡蝶に導かれて親子が花道に入ってたあと「宋論(しゅうろん)」という場面となる 法華僧と浄土宗の僧の掛け合いがあって やがて山嵐となり二人は逃げ去り いよいよ獅子の登場となる 悠然と出る親獅子 のちに子獅子が従います  クライマックスの白い毛の親獅子と赤い毛の子獅子との息の合った豪快且つ華麗な「毛ぶり」は見ものである
特に勘三郎が亡くなった今 「歌舞伎の芸というものはこうやって伝承していくんだ」ということが感動的によくわかるのである

尚 この月に上演された「人情話文七元結」も山田洋次が演出 撮影してシネマ歌舞伎に残っている


   
                                  (5月18日 なんばパークスシネマにて)


白鷺だより(236)「味の家(ケチのや)の人びと」 ア・ラ・カルト

2017-05-16 16:27:31 | 思い出
「 味の家(けちのや)の人びと」ア・ラ・カルト 

 鹿児島で初日を開け宮崎 大分 長崎 佐世保 福岡と毎回観終わってお帰りになるお客様の評判も良くスポンサーサイドも喜んでいただけている 受けが良いから座長の左とん平さん以下出演者も気持ちよく演じて貰えている 商業演劇の演出家としてはこの上もない喜びだ 
こんな嬉しいことはない

今まで初日を開けてすぐ帰って来ていたので今回のように九州地区全域を廻ることによって違う見方が出来 大変面白い経験が出来た 五分前には全員がキチンと座って待っている県、オープニングMが流れてから多勢が慌てて入って来る県(そのためにオープニングMを長くしている)笑う箇所も県によって違いこんな箇所で笑うかと思われるところでドッと笑いが来る(計算外の笑いは嬉しい)相続者が判った時点で帰る人 本編の緞帳が下りてすぐ帰る人 お香の贈呈が終わって帰る人 カーテンコールの緞帳が下りても余韻に浸る人 人さまざまである

今回のタイトル「味の家(ケチのや)の人びと」には悩みに悩んだ結果である
原作の「お初天神」はいかにも大阪文芸もののようでよくできたタイトルである 
これに因んだら今回は「水天宮」「水天宮前」とでも付けたらいいのだがゴロが悪い
内容的に言ったら「相続人は誰だ?」だがこれは昨年の日本香堂「愛のお荷物」で主人公の娘の婚約者の両親が上京してきて歌舞伎座で見た新派劇のタイトル(これが主役現水谷八重子のデビュー作だったというしゃれ)だったので辞めた 結局「味の家」と書いて「ケチの家」と読むということとすべての人々が主役であるという意味を込めて「味(ケチ)の家の人びと」とした

今回のテーマ音楽にも悩んだ アパートで流れる「愛の歌」はギリギリまで実は「内山田洋とクールファイブ」の「逢わずに愛して」だった 
僕の演出の南座では梅沢冨美男の「あいそづかし」というヒットしなかった曲だった
 
 たとえば「曽根崎心中」の あれは男がだらしない
 それでも女はついていく あんたと私によく似てるわ
 出てってよ 出てってよ
 今夜限りにしておいて
 出てってよ 出てってよ
 あいそづかしの言葉の前に
 噛んだ唇 横一文字 
 あーあ あーあ あいそづかしの言葉の前に


という曲だ 「お初天神」の謂れの曽根崎心中をテーマにした曲だ
そういえばこの舞台は幕開きが「お初徳兵衛」の道行の踊りから始まったんだっけ

ようやくベッド・ミドラーの「ザ・ローズ」に決まって音楽の小野さんに色々アレンジを変えて貰って出の音やBGとして使った 対して新しい考えの社長側のBGには某ヒット映画の音楽をアレンジして使った 判るかな?
ザ・ローズの映画が1979年(昭和54年)であることが判り 芝居の時代が昭和45年などと言わなくなったのを判ったであろうか 時代はもっと広くにバブル前夜のある時ということにしておこう

女将のケチぶりを表現するのに落語ねたを使った 「始末の極意」の1エピソードである うなぎの煙にはお金の音という笑いだが意外と狙いが通じて受けている ここまで古新聞 くぎ 椅子とウナギの匂いまで一気に演じて戴いてケチぶりが表せたかどうか

何の公演だったか明治座の三月公演の時 前の明治座公園の片隅に建てられた鎮魂碑の前で大勢のお坊さんによる法要を見た 
空襲を受けて明治座で犠牲になった人々をお祀りをしていた 明治座主催であった 

皆さんのお陰で九州地区の公演は無事終わった
出演者全員が主役という狙いは何とか果たせたと思っている