白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(113)色事師・天外~遊びは芸の肥やしになるか~

2016-07-30 07:50:54 | 人物
 色事師 天外~遊びは芸の肥やしになるか~

<長い前説>

 僕が淀橋太郎なるケッタイな劇作家に会ったのは北島公演の芝居の作者としてであった
もちろん新宿コマでは森川信や由利さんの芝居などの作者として名前は伺っていたが
本当に変なお方で稽古が始まったら必ず寝るのである しかも大量にヨダレを流してである 
北島も苦笑いするしかなかったが 決して嫌がらず最後まで先生として大切に扱った
さてこの先生は実家が女郎屋で奥さんに商いさせていて友人を呼んでは無料であそばせるのである 
そして相方につける女は決まってベテランのヤエ子という女で
男の品定めをさせて報告させるという極めて悪趣味な人間でもあった 
早漏、遅漏 あそこの大小 テクニック、こと細かく聞いて次その男にあったとき かるくニャッと笑う 
それだけで優位に立てるという嫌な男である
高屋朗 坂口安吾 小沢不二夫 八木隆一郎などが犠牲者だった

あるとき大阪から渋谷天外がやってきたので早速女郎屋に招待してヤエ子を付けた 
いつものように翌日聞いてみるとその女がいうことには
「うまい人、 あんな床上手な人はいない、今度はこちらから金出してお相手したい」
と夢見心地で言われて「まいりました」と彼の書いた何かの本で読んだことがある

この話には後日談がある 後年天外が倒れた時 奥さんがポツンと言った
「心配していたけどヤッパリね 天外さんきっと助からないよ」
「どうして?」
「だってヤエちゃんに上がった人 みんな死んじまったよ」
夫婦はそれ以来天外にもしものことがあったらと気を揉んでいた
天外はすぐに元気になって舞台に復帰した
「天外さんてよくよく運が強い人なのね」女房が感心して言った 

その女を泣かせるテクニックがどのように培われたか探ってみたい


天外が書いたものに「笑うとくなはれ」という本がある 
おそらく雑誌のコラム蘭に連載された雑文を集めたものであろう 
出版時期は松竹新喜劇が会社組織になり劇団歌を発表したりして「新喜劇のこの世の春を謳歌」している頃に出された本である
(注・この年の南座で天外は倒れ すぐあとには寛美が首になるという新喜劇としては波乱万丈の年であった)
この中に「女性遍歴」という章がありそこに「弧剣を磨く」という「オール読物」(37・5)から転載された文章から
主なものを抜粋する

<その(1)>

楽天会を主宰していた父天外の長男として8歳でいやいやながら子役で初舞台 
10歳の時父が死んで芝居茶屋「岡島」の旦那に引き取られたが 
役者になるのを嫌がり十郎先生に相談すると脚本(ホン)書くこっちゃ、何か書けと言われ書いた
「わたしは時計であります」は十郎先生の演出で評判を取り 志賀廼家淡海一座に引っ張られる
 その旅の間15歳の春に女浪曲師に童貞を奪われ以来 性に目覚めやり放題あそび放題の彼が
関東大震災に会って戻ってきた大阪で当時46歳の女性に囲われる 
相手は小さな旅館の女主人 最初はそこの娘が目的で通っていたが
「お母アはんがあんたのこと好きや言うてはるし」と申し渡されその娘はサッサと自分の好きな男のもとへ走っていった 
この超年上の姉さん女房<とても優しくて親切で おまけに衣類や金の心配もなく 其の上テクニックも十二分に教えて頂いた 
いわば私に女性開眼をさせてくれた大先達でもある>
<年齢に似合わぬ豊かな肉体 弾力のある小麦色のポチャポチャした肌 夜毎日毎(生卵を飲まされ)
その下敷きになっ(女上位?)>て <ついに一年後喀血 医師から結核と診断され>るまで尽くしに尽くして
とうとう医者から二年間女体から遠ざけられる

世のヒモを気取っている若き役者諸君!
いくら生きる為といえどこの命を懸けた奮闘ぶりを見習い給え 


この年上女性が後年の「銀のかんざし」のモデルかといえばそうではない

<その(2)>

モデルはまた別の女性である それは天外が25歳の時である
<小遣い欲しさにある料亭のおかみさん(38)の若いつばめになった>
<不景気の中で客筋が良くいくつかの狭い座敷がいつも塞がっている店で喜劇ファンの旦那が死んで二年足らず>
<カラッケツの私にとって大きな福音である 若きつばめは献身的にサービスに努めて五円十円と頂いたものである>
約一年経った頃十吾さんと一緒にやっていた松竹家庭劇に上昇機運が見えてきて入りが良くなってきた
<もうこの辺でよかろうとつばめ辞退を申し出たら「殺したろか」と盃洗の水を頭からぶっかけられた>
それでも<若いつばめでは劇団の信用も薄らぐ>ので<別れて下さいと畳に両手をついて頼んだ>ら
<おかみさんは死んだ旦那の一粒種の娘の寝顔を見ながら
「仕様があらへん、判れてあげる」
とポツンといわれこっちの方が涙ぐんだ>とある こちらの女性の方が「銀かん」に近いと言えよう
 
(この話は後日談がある)<中座公演の度にかぶりつきの席にそのおかみさんがあらわれるのである 
私が58(当時)だから71である 刈り込んだ真っ白な頭でお孫さんに手を引かれての観劇である 
私が出るとニヤニヤ セリフを言うとニヤニヤ><中座公演の月に一度は苦難の日が>訪れる

<その(3)>

天外は同時期にもっと大きな失敗を犯す 
それは「白鷺だより(5)実録はるかなり道頓堀」に詳しく書いたように 
その娘をお腹の子ともども殺してしまう
これはどう考えても<その(2)>と同時並行であるのは明白だ


<20代青年俳優で有りし頃 金は女が出してくれるものと思っていた>渋谷天外は25歳の時 
後年の二本の名作の元になる女性体験をする

それは「銀のかんざし」と「はるかなり道頓堀」の二本である

白鷺だより(112)引き抜き(8)

2016-07-28 10:42:48 | 引き抜き物語
引き抜き(8)

[ヨシモトの芸人を全員引っこ抜け」

バッグ一杯の大金と共にこう命令されたのは
売れない役者、バンジュンザブロー
手伝ったのはこれまた売れない女優 モリミツコ


<事件以降の動向>(あるいは戦前吉本の最期)

かくして新興キネマ芸能部が誕生した
6月1日道頓堀角座で改めて旗揚げ公演をした
吉本では200人程度の客席に比べ1000~2000の劇場での公演であった

また6月28日新興キネマのスター雷門光三郎を主役に伴淳 ワカナ・一郎らで映画「金毘羅船」を作った 
これには森光子は讃岐屋の娘お美代で出ている(監督は例の森一生)

松竹は京都新京極、戎座 大阪 浪花座 神戸新開地 松竹劇場などを実演劇場として
10日づつ出し物を変えて回した
他は映画のアトラクションとして芸人たちは走り廻った


そして11月新興演芸株式会社が誕生する



看板の芸人を抜かれた吉本は
ワカナのかわりに東京からミヤコ蝶々をスカウトし柳枝とコンビを組ませる 柳枝劇団の始まりである
また浅草で人気絶頂だった中野弘子劇団を大阪に呼び チビッ子スターの南風カオルなども大阪入りする

また新興でも旧吉本系だけでは足りずチビッ子漫才歌江、照江(600円)、
今喜多代(巴家寅の子・1000円)も大金でスカウトする

だがこうした芸人たちの思惑とは別に 時代は本物の戦争に突入していく

芸人たちの仕事も徐々に減りまた徴兵に取られる者も多く興行界は衰退の一途をたどる

この頃松竹VS吉本の事件として廣澤寅造の映画出演を巡る篭寅事件があった
この抗争で二代目の山口登が斬られ山口組は三代目田岡一雄の時代に入る

かくて日本国民は「紀元は2600年」と歌わされ
[ぜいたくは敵だ」「一億一心」「生めよ増やせよ」「大政翼賛」と唱えさせられながら破滅の道を進んで行く

昭和18年 吉本は折角手に入れた通天閣を鉄不足の国に献納させられる・・そして
全盛を誇った戦前の吉本は事実上 崩壊した

                                























白鷺だより(111)引き抜き(7)

2016-07-27 08:07:03 | 引き抜き物語
引き抜き(7)

「ヨシモトの芸人を全員引っこ抜け」

バッグ一杯の大金と共にこう命令されたのは
売れない役者、バンジュンザブロー
手伝ったのはこれまた売れない女優 モリミツコ


<引き抜かれた方の証言>(坊屋三郎の書き残したもの)

それでは一方の引き抜かれた方はどうだったのか
後年CMで売れた坊屋三郎がその著作「これはマジメな喜劇です」にその件が書いているので紹介しよう
 
浅草花月のオーディションで吉本入りしたボードビリアンたちを集めて
昭和12年結成された「あきれたぼういず」は瞬く間に人気者になった
メンバーは川田義雄 坊屋三郎 益田喜頓(バスター・キートンのもじり)
芝莉英(モーリス・シヴァリエのもじり、坊屋三郎の弟)の四人

「あきれたダイナ」などで売れていた彼らの元へ密使として
伴淳三郎がやってきたのは昭和14年2月のことであった 
話をきいて「あきれた」側が出した条件は

① 独立した「あきれたぼういず」ショウを作ること
② 一流のバンドをつける
③ ダンサーを揃える
④ 専属作家をつけて同じネタで一か月続ける(京都で10日大阪で10日神戸で10日)
⑤ ギャラは今まで月90円(一人)を300円にする
(注 このギャラは伴淳が書いているものによると今迄月1000円(4人で)だったのを
契約金一万円 月600円(一人)を提示したとある)
また淀橋太郎の記憶によると付500円 契約金一人2500円となっている

口利きは伴淳、契約は鈴木吉之助で成立したが
リーダーの川田があることでバレて首根っこを押さえられる 
川田は吉本ショーのダンサー桜文子と結婚したのだが
媒酌人の吉本東京支社長林弘嵩にペロッとしゃべったため
問い詰められ吉本側の「その筋の人」が動き出す

危険を感じた坊屋三郎は向島の待合に隠れ 芝もどこかに姿を隠し
益田喜頓なんかは故郷の函館に潜伏して「京都集結の日」を待つ

そこへ永田雅一から電話、「東京駅はやばいから 北陸回りでダラ(鈍行)でこい」
米原で出迎えたのは大きなマスクをした伴淳と松竹が雇った「その筋の人」
京都行きに乗り換えて着いたのが木屋町三条の「国の家」という旅館 

キレイな娘が世話してくれてまるで勤王の志士を匿う芸者のようだった・・それが森光子 

川田がぬけた穴をロッパ一座の香川久を入れ「山茶花究」と名乗らせた

月一本の新作の作者として呼ばれたのが淀橋太郎と竹田新太郎だった
「私は旧友の竹田新太郎が新興で「あきれたぼういず」の作者をしているのを頼って
大阪に行き 彼の売り込みで新興に入社した 共同で脚本を書き演出することになった
月給は月150円だった」

かくして京都戎座で旗揚げ公演の日 抗争を恐れて一番前は私服警官がズラリ 
先頭で出る坊屋三郎はピストルが飛んでこないかと相当ビビったらしい
まず戎座で大成功 次は浪花座(大阪)神戸の八千代座ち順調に滑り出した

内容は吉本時代よりスケールアップして
ダンサーが踊ったり寸劇がはいったり 四人が得意ネタをやるといった具合

一方残った川田もこの年の9月ミルクブラザーズを結成した
メンバーは他に岡村龍雄 頭山光 菅井太郎(のちに有木三太)の四人組
おもに浅草花月をホームグランドにして活躍
東西ボードビル時代に入る

やがて戦時色が濃くなりあきれたぼういずは「新興快速部隊」と名を改めさせれる

芝莉英に赤紙が来て
「お国ために行ってまいります」
と日の丸の小旗に送られて伏見の連隊に送られて
そしてそのまま帰らぬ人となった

やがて益田喜頓が抜け 穴に音楽男を入れるが昭和18年「新興快速部隊」は
解散となり おのおの個人での活躍となる


         









白鷺だより(110)懐かしい写真(1)

2016-07-26 14:18:57 | 思い出



懐かしい写真が出てきた(1)



昭和49年中日劇場 中日喜劇公演
「花のお江戸の悪太郎」「どんごな子」

前列 左から 平井昌一 伊藤亮英 三角八重 後ろ 水上千湧子 立原博 
   前 今宮エビス
   ど真ん中 芦屋小雁 スポンサーさん 前 芦屋雁之助 鈴木淳
    雁さんの後ろ 梅香ふみ子 芦屋凡凡
後列 左から 司みのり ボク(若干26歳) 近江さん(近江敏郎の娘さん)
   石見栄 神原さん 失念 失念  清郷流号 芦屋雁平

僕にとっては初めての舞台監督 初めての商業演劇 
何人かトップホットの仲間はいるが初めての役者さんばかり

泊まりはちかくの「中藤旅館」だった

白鷺だより(109)引き抜き(6)

2016-07-26 13:18:51 | 引き抜き物語
引き抜き(6)

「ヨシモトの芸人を全員引っこ抜け」
バッグ一杯の大金と共にこう命令されたのは
売れない役者、バンジュンザブロー
手伝ったのはこれまた売れない女優 モリミツコ


<森光子は何をやったのか>

その旅館は三條木屋町にあった貸席「国の家」で新興キネマの女優森光子(当時19歳)の生家であった 
彼女を産んだ母親は村上艶といってこの貸席を始めるまでは美代菊という自前の芸者だった 
父親の名は宮川之輔という京大法学部の学生で大阪の紡績会社の御曹司だった 
光子の他に四人の子をもうけるが艶は決して本妻の地位を求めなかった 
「国の家」の商売だけで子供を育てた 
ところが光子が京都第一高女の入った年母親が「労咳」で死んでしまう
同年父親も後を追うように胃がんで死ぬ
 
高女を退学して彼女は従兄の鞍馬天狗で今売り出しのアラカンこと嵐寛寿郎プロに入れて貰う 
15歳であった 月給は何本出ても20円 なりひら小僧八百八町の茶屋の娘役で女優デヴューする 
そして昭和12年新興キネマに月給100円で移籍した彼女は 
しかし前と同じような役しか回ってこない
曰く***の娘 、腰元**、**の妹** 舞妓**といった役ばかりであった
 
その上この頃父と同じ京大卒の気鋭の監督の森一生に執拗に求婚されるが 
「うちはまだその時やない」とやんわりと断る

そんな時に伴淳から話が来て 親戚に任せていた「国の家」を
伴から貰った金で綺麗にして引き抜き芸人を受け入れるべく準備をする 
そこで彼女は母がそうしたように若女将として挨拶に廻る 「ようこそきょうとへお越しやす」
あきれたぼういずの坊屋三郎はまるで勤王の志士を匿う芸者のようだったと述懐している

伴から出た僅かな金と二本の映画「お伊勢詣り』「金毘羅船」でのいい役とのみかえりだったが 
そこで彼女は映画人以外の人々(漫才芸人)と付き合い 
戦後「びっくり捕物帳」で漫才師ダイマル・ラケットと平気で共演出来たのもその経験があったからであろう 
そして自らがその半生を演じることになるワカナとの付き合いは神様のイタズラとしか言いようがない

いよいよ旗揚げの日 
伴は血と血を洗う抗争を恐れプロボクサーを用心棒にして劇場いりした・・と面白おかしく書いているが疑問が残る 
いかに恩ある永田の命令でも相手は吉本=山口組である 命まで危うい指令である 
なぜそこまでやったのか新興キネマの白井伸次郎から成功したらダットサンを買ってやるといわれたとあるが結局はもらっていない 
同じように引き抜きに動いた鈴木吉之助は新興芸能部の部長の地位を得たというのに伴には映画で優遇された形跡もない 
同じく森も映画では優遇を受けた形跡がない

ただこの年伴は永田から資金援助を受けて「VAN」という店を三條河原町にオープンしている 
これが条件だったかも知れぬ 
喫茶店、汁粉屋、化粧品といった女性をターゲットにした店であったから大いに当たり客で溢れる 
そしてその絶頂期に誰かに「チンコロ」されて 
この店を舞台に売春容疑がかけられ伴と女が太秦警察に逮捕され店を潰してしまう
 
女の名前は森光子という新興キネマの女優であった・・・

そして2年後彼女は京都太秦から消え
やれ「東京に行って歌の勉強をしている」だの
「満州で慰問団にいた」だのと噂され 
ついには「もりみっちゃんは死んだ」との噂が流れた