白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(251)お山の杉の子

2017-07-29 14:08:47 | うた物語
お山の杉の子

「歌のおばさん」 安西愛子が亡くなった 100歳の老衰だった
その安西愛子が東京音楽学校声楽科を出てコロンビアの専属としてデビューして2年目の昭和19年こんな歌を吹き込んだ 
「お山の杉の子」である

1 昔 昔 その昔 椎の木林のすぐそばに
小さなお山が あったとさ あったとさ
丸々坊主の 禿山は いつでもみんなの笑いもの
「これkれ杉の子 起きなさい」
お日様ニコニコ声かけた 声かけた

2 一二三四五六七 八日 九日 十日たち
にょっきり目が出る 丘の上 丘の上
小さな杉の子顔出して 「はいはいお陽さま コンニチワ」
これを眺めた椎の木は
アッハのアッハと 大笑い 大笑い

3「こんなチビ助 何になる」
びっくり仰天 杉の子は
思わずお首を ひっこめた ひっこめた
「何の負けるか 今に見ろ」
大きくなって 国の為(皆のため)
お役に立って みせまする みせまする

4 ラジオ体操 一二三(ほがらかに)
子供は元気に 伸びていく
昔むかしの禿山は 禿山は
今では 立派な 杉山だ
誉の家の 子のように(誰でも感心するような)
強く大きく 逞しく 
椎の木見下ろす 大杉だ 大杉だ

5 大きな杉は 何になる
兵隊さんの 運ぶ船(お舟の帆柱、梯子段)
傷痍の兵士の 寝るお家 寝るお家(トントン大工さん 建てる家)
本箱 お机 下駄 足駄
おいしい弁当 食べる箸
鉛筆 筆入れ その他に
嬉しや(たのしや) まだまだ 役に立つ 役に立つ

6 さあさ負けるな 杉の木に
勇者の遺児なら なお強い(スクスク伸びろよ みな伸びろ)
身体を鍛えて(スポーツ忘れず) 頑張って 頑張って
今に立派な 兵隊さん(すべてに立派な人となり)
忠義孝行 ひとすじに(正しい生活 ひとすじに)
お日様出る国 神の国(明るく楽しいこの国を)
この日本を 守りましょう 守りましょう(我が日本を作りましょう、作りましょう)

まだ出征が出来ない軍国少年たちは年少が故にお国のお役の立てない悶々とした気持ちをこの応援歌が満たしてくれた 
やっと戦争に行ける年になって敗戦 涙を飲んだ少年も多かったろう
この歌はやがてサトー・ハチローが苦労して歌詞を変えて敗戦国少年の前に登場する
特に3,4,5,6番がその対象になった 一応元歌詞の横に( )で書いておく
補作者の苦労の跡が目に見えるようだ 
この戦後版の歌もNHKラジオ番組「歌のおばさん」安西愛子が歌った

 僕の祖父もそうだったが農業の合間に山の木を間引きして切っては炭を作っていた
木の間引きは山を守るためには必要だったからである
(その祖父がくれた僕の小学校入学祝は手作りの机と椅子だった)
その炭も今や使うこともなくなり やれ紙はリサイクルだし やれ箸もMY箸運動などで木の需要も減って来た 
家も鉄筋が増え木を使うことは少なくなった

この前の大水の時大量の木材が流され 橋や家を破壊して土手を決壊した
この歌のようにじっくり育った杉の木である
その映像を見ていたら「我が日本を作りましょう」という言葉が「我が日本を壊しましょう」に聞こえて来た

安西愛子は1949~1984まで「歌のおばさん」を勤め その後1971年自民党全国区から立候補して当選以後三期18年を務めた

白鷺だより(250)平尾昌晃「恋の片道切符」

2017-07-23 11:59:56 | うた物語
   平尾昌晃「恋の片道切符」

7月22日 あの平尾昌晃が死んだ 79歳だった

ミッキー・カーチスや山下敬二郎と組んで「ロカビリー三人男」として日劇ウエスタンカーニバルのトップスターとして名を馳せ 一方 田舎の歌謡曲少年だった僕らには「星はなんでも知っている」や「ミヨチャン」の路線の歌手としてよく聞いていた(当時は昌章)

星はなんでも知っている
 ゆうべあの娘が 泣いたのも
 かわいいあの娘の つぶらな
 その目に光る 露の跡
 生まれて初めての 甘いキッスに
 胸が震えて 泣いたのも

そしてポット出の人気歌手に「よくあるように」拳銃不法所持で逮捕され いつの間にか歌の世界から消えて行った

再び我々の前に出て来た彼は布施明の「霧の摩周湖」の作曲者としてであった
作曲者になったきっかけは「ミヨチャン」の大ヒットの陰に隠れていた1961年の「おもいで」がジワジワとヒットしはじめ その曲をナベプロの新人布施明のために譲ったのが切っ掛けだった それが「霧の摩周湖」の作曲に繋がった

あなたと歩いたあの道に
夜霧が冷たく 流れてた
何にも言わずに うつむいて
涙で濡れてた あの人よ
サヨナラ 初恋 もう二度とは
帰らぬ あなたの おもいでを
淋しく切なく 今日もまた
呼んでみたのさ 霧の中

その後「よこはま・たそがれ」「私の城下町」「カナダからの手紙」「二人でお酒を」「銀河鉄道999」などのヒット曲や必殺シリーズの劇伴などで活躍

しかし作曲家先生になっても彼のことがどこか「胡散臭く」「女たらし」に思われるのは僕が子供の頃彼が出演した映画を見たせいである


 その頃の松竹の監督第一作目は今村昌平が「西銀座駅前」を 山田洋次が倍賞千恵子で「下町の太陽」を撮ったように歌謡曲映画を撮るのが慣習だった まあそのほうが興行的にも失敗が少ないとの会社の親心だったのだろう さて早稲田で陸上部出身だった篠田正浩が第一作に選んだのは会社から提案された「黄色いサクランボ」を蹴って(ちなみにこの曲は同年山田洋次脚本で野村芳太郎が映画化した)歌謡曲ではなく当時平尾昌晃が日本語カバーをしてヒットしていたニール・セダカの「恋の片道切符」であった その脚本の出来栄えも良く当時篠田と同棲していた詩人白石かよこに書いてもらったのであろうと皆の評判だった

 僕はこの映画を12歳の時(1960)に封切で見ている と言っても松竹系の映画館に回ってくるのは1週間ほど遅かった 
僕はこの映画で東京で評判のロカビリーというものを初めて映像で見た
主演は小坂一也で恋人が牧紀子 渡辺美佐らしいマネージャーに鳳八千代 歌手役に平尾昌晃がそのまま出ている 
撮影所内での試写は評判は上々だった新人監督の第一作目 しかし興行的には振るわず 篠田はすぐ助監督に戻されてしまう 当時の大アイドル歌手平尾を女を騙す悪役にして最後には主題歌を歌っている最中に小坂に拳銃で撃たれて死んでいくという今でも考えられない使い方(よく事務所が黙っていたと思う)やロカビリーブームの裏側(サクラなど)の実態を描いて 僕も子供心に大丈夫かなと思うほどだった
アイドル歌手の裏側はリアルだが本人(平尾)は乗りの乗って演じており(いつも通り?) ラスト歌っている途中に小坂に撃たれたあと 一拍間をおいて再び歌いだすところは鳥肌ものだ 殆ど新宿歌舞伎町でロケを敢行して出来たばかりの新コマも映っていたらしいが記憶にない

Choo Choo train a chuggin down the track.
Gotta trabel on never coiner back..............


助監督に降格した篠田がその間に準備したのが寺山修司の脚本の「乾いた花」(岩下志麻、加賀まりこ)を二作目として発表(1960)
 この作品で篠田は一躍 松竹ヌーベルバーグの旗手に祭り上げられてしまう  

白鷺だより(249)「盟三五大切」

2017-07-21 08:57:43 | 観劇
盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)

七月恒例の上方歌舞伎の会 七月大歌舞伎夜の部を見た

仁左衛門久しぶりの通し狂言「盟三五大切」が目的だ

盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)
 四代目鶴屋南北の作と言われる世話物歌舞伎狂言
南北が「四谷怪談」に続いて書いた「忠臣蔵外伝」
当時の人気演目並木五瓶作「五大力恋幟」と自作「東海道四谷怪談」を合わせた作品
「五大力」からは主人公の名前薩摩源五兵衛や三五兵衛 小万 八右衛門 どて平などはそのまま使っている 三味線の裏に「堅い心の誓の五大力」と書く 五人斬りの場面もある 小万の首を前誰につつんで雨の中傘をさして去っていく場面 「四谷怪談」からは主人公は塩谷家の浪士 四谷の長屋は田宮伊右衛門がかってお岩と住んでいた長屋の設定となっている
 
文政8年(1825)江戸 中村座にて初演 源五兵衛と家主の二役を5代目松本幸四郎
三五郎を7代目中村団十郎 小万を2代目岩井粂三郎
初演のあと天保11年(1840)に一度再演されたがその後上演は途絶えていた
 
僕がこの「盟三五大切」のタイトルを知ったのは1971年松本俊夫がATGで「修羅」という映画の原作としてだ 主演は中村嘉葎雄 三五郎に唐十郎 小万は民芸の三条泰子  松本はこの作品を1969年国立劇場で青年座の公演で見て知ったという
元禄のあとの文化文政の頽廃の時代と昭和元禄のあとの退廃した時代と似ているという視点で描いた
この後幾つかのアングラと言われる小劇団が争そって劇化した 
最近では流山寺☆事務所が山元清多の脚本で劇化したことがある

 仁左衛門はそれ以前に新劇でこの芝居を上演されているのを見て(青年座の芝居と思われる)「新しいお芝居をなさっている方々がこれを上演されている 歌舞伎の作品もこんなに面白いのかと思っていただける」と感動したらしい

1976年8月国立劇場小劇場で初代尾上辰之助が郡司正勝の脚本で136年ぶりに復活上演した時当時孝夫だった仁左衛門は三五郎 小万には玉三郎
この時は初演の配役通りに辰之助は源五兵衛と家主との二役をやっている
1992年 12代目団十郎が源五兵衛役を国立劇場小劇場で

 そして仁左衛門が満を持して自ら源五兵衛役で復刻劇化したのが2006年8月歌舞伎座である 続いて2008年歌舞伎座11月顔見世にて上演
その後2011年の松竹座 愛之助の三五郎 芝雀の小万 新車の八右衛門で上演 
その年にはコクーン歌舞伎として橋之助 菊之助 勘太郎で上演された(串田和美演出)

そして今月の松竹座夜の部で三度目の上演である なるほど面白い芝居である

序幕 佃沖新地鼻の場
   深川大和町の場
二幕目 二軒茶屋の場
   五人切りの場
大詰め 四谷鬼横町の場
   愛染院門前の場


薩摩源五兵衛 実は不破数右衛門      仁左衛門
芸者姐妃の小万 実は神谷召使お六     時蔵
船頭笹野屋三五郎 実は徳右衛門倅千太郎  染五郎
若党六七八右衛門             松也
賤ヶ谷伴右衛門 実はごろつき勘九郎    橘三郎(弱い)
船頭お先の伊之助             (弱い)
芸者菊野                 壱太郎
徳右エ門同心了心             松之助(弱い)
家主くり廻しの弥助 実は神谷下郎土手平  鴈治郎

仁左衛門、染五郎、松也 時蔵 それぞれよくやっている
欲をいえば周りの脇役 ごろつき勘九郎 伊之助はもっと悪役らしい人物を(例えば亀蔵)
源五郎の叔父役 三五郎の父役にもそれらしい役者が欲しかった (例えば弥十郎など)今の役者では弱すぎる
仁左衛門の弱さは家主との二役が出来ないところにある 明るい悪の家主と苦悩の悪の源五兵衛 演じ分ければいいのだが 
あまりにもリアルに舞台が暗すぎる 
例えば殺しの場 僕だったら真っ赤な舞台にして次々と殺していく 

先に書いたように歌舞伎が新劇に影響した例が多い中 この作品は新劇の影響で歌舞伎が復活した稀有な例である

                                        (7月19日松竹座夜の部を観劇)

白鷺だより(248)「秋の扇」

2017-07-09 13:32:03 | 松竹新喜劇
      「秋の扇」  館直志 作

 小学校の時 学校の近くの小さな土地に小さな家が建った 当時の市長Kが自分の妾(我々大阪圏ではテカケという)を住まわすために建てたと言われた 市長は大きな料理旅館の主人でもあったとき(なにせ大相撲の巡業の勧進元やお花見の時に大阪から漫才を呼んだりするほど景気が良かった)従業員に手を付けて子ともが出来て認知して子供が学校に上がるようになり そこに住まわした なぜか僕はその子供と同級生になりなぜか好意を寄せられ その女の子の家に遊びに行くこととなった 僕はそこで初めて紅茶というものを飲むこととなる しばらく通っていたが教育者の親に知れることとになり 遊びに行くこと「あいならぬ」となり 次第に遠ざかっていった

この「妾」という風習は先に書いたように江戸では「めかけ」というが上方では「てかけ」という極めて直接的でいやらしい響きを持つ言葉で表される 特に船場においてはその存在が社会的に認知されているのが非常な特色であり 大きな理由のは万一本妻に子供がない場合の対策として あるいはより多くの子孫を保つためで船場では妾の数が多いことが富の尺度とさえされる 山崎豊子の「ぼんち」によると妾が社会的に、また家族制度の中でも認知されるために「本宅伺い」のセレモニーを行わなければならないという その上子供が生まれた場合 男の子なら大正8年頃「おのこ料5万円」 女の子なら「めのこ料1万円を渡して その子供の「へその緒」を受け取る風習になっている これは生後一週間でへその緒を切ったあと奉書紙に包んで そこに子供の生年月日と名前 両親の名前を明記して保存した これはその家の相続問題で揉めることがないための処置であった 
おのこ料5万円は現在では4千5百万円にも相当する額で船場の財力がもたらすが故の風習である

さて平成7年僕は松竹新喜劇で「秋の扇」という作品を演出した これは大阪船場の商家(現在は会社組織)で前社長が亡くなりこの家に同居していたお妾をどう対処しょうかと家族会議でもめる話で 亡き前妻の妹などは「追い出す」ことを主張し そのお妾さんに育てられた次男などは残すことを主張する 悩んだ現社長の長男が残ってもらうことを決心したとき その女は静かに姿を消す たしかそんな話だった 
この主役の妾井上はつを演じたのは淡島千景で 演舞場での再演の時見に来た岩谷時子がその抑えた演技を絶賛した時 「わたし、こんな女大嫌い」と言い放った淡島の顔を忘れなれない

この作品が「刈萱道心」伝説によることは予想され 演出者の言葉に新喜劇恒例の夏のお休み(毎年8月は新喜劇はお休みだった)を利用して高野山に行き(渋谷家の伝統行事だった) 宿坊で子供にせがまれ「いしどうまる」の絵本を読んでいるときに思いついたに違いないというようなことを書いたら高田次郎がやってきて「あれ、おもろいなあ、ええ文章やった」と褒めてくれた

さてその「刈萱道心と石童丸」を知らない人の為にちょっとふれておく
西国(博多)の武将加藤左衛門は普段は仲良く暮らしている嫁と妾がうわべは仲良く振舞いながら髪の毛が蛇と化して醜く絡み合う様子を障子の影で見て 世の無常を感じ領地と家族を捨てて出家して法然上人の元で修行し「刈萱道心」と号して高野山に籠った
その息子である石童丸は母と二人で父探しの旅に出る 高野山に父らしき人がいると聞き高野山に向かうがそこは女人禁制の山 宿に残して一人で登る そこで出会った父親等阿法師に「あなたの尋ねるその人はすでに亡くなった」と聞き失意のまま宿に帰ったら母親は病で死んでいた 身内を失くした石童丸は再び高野山に登り 等阿法師の弟子となり 互いに親子と名乗ることもせず仏に仕えたという

この作品は南座で公演してすぐ同年 新橋演舞場でも再演が決まった
これが僕の新橋演舞場での初仕事となった

なんでもたまたまこの作品を見た当時の松竹会長の永山武臣さんが二階の客席で隠れて泣きながら見ていたらしい 
彼の自伝を読むと永山家は代々サムライの家で代々嫁妾が同居していた環境で育って 彼はことさらお妾さんの方に可愛がられたそうである 身につまされた話で泣いたのであって それゆえいい作品だからとの評価には繋がらない
それにしても永山会長のようにこの話と自らの体験と重ねてみる人が日に日にいなくなったと思われる

なお「秋の扇」とは夏には大切に使われていた扇も涼しくなった秋には見向きもされず見捨てられてしまう 「夏炉冬扇」と同じ
前漢の成帝の官女 はんしょうふが帝の愛情を失った時 わが身を不要になった秋の扇に例えて秋扇賦を歌ったという故事による