白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(112)引き抜き(8)

2016-07-28 10:42:48 | 引き抜き物語
引き抜き(8)

[ヨシモトの芸人を全員引っこ抜け」

バッグ一杯の大金と共にこう命令されたのは
売れない役者、バンジュンザブロー
手伝ったのはこれまた売れない女優 モリミツコ


<事件以降の動向>(あるいは戦前吉本の最期)

かくして新興キネマ芸能部が誕生した
6月1日道頓堀角座で改めて旗揚げ公演をした
吉本では200人程度の客席に比べ1000~2000の劇場での公演であった

また6月28日新興キネマのスター雷門光三郎を主役に伴淳 ワカナ・一郎らで映画「金毘羅船」を作った 
これには森光子は讃岐屋の娘お美代で出ている(監督は例の森一生)

松竹は京都新京極、戎座 大阪 浪花座 神戸新開地 松竹劇場などを実演劇場として
10日づつ出し物を変えて回した
他は映画のアトラクションとして芸人たちは走り廻った


そして11月新興演芸株式会社が誕生する



看板の芸人を抜かれた吉本は
ワカナのかわりに東京からミヤコ蝶々をスカウトし柳枝とコンビを組ませる 柳枝劇団の始まりである
また浅草で人気絶頂だった中野弘子劇団を大阪に呼び チビッ子スターの南風カオルなども大阪入りする

また新興でも旧吉本系だけでは足りずチビッ子漫才歌江、照江(600円)、
今喜多代(巴家寅の子・1000円)も大金でスカウトする

だがこうした芸人たちの思惑とは別に 時代は本物の戦争に突入していく

芸人たちの仕事も徐々に減りまた徴兵に取られる者も多く興行界は衰退の一途をたどる

この頃松竹VS吉本の事件として廣澤寅造の映画出演を巡る篭寅事件があった
この抗争で二代目の山口登が斬られ山口組は三代目田岡一雄の時代に入る

かくて日本国民は「紀元は2600年」と歌わされ
[ぜいたくは敵だ」「一億一心」「生めよ増やせよ」「大政翼賛」と唱えさせられながら破滅の道を進んで行く

昭和18年 吉本は折角手に入れた通天閣を鉄不足の国に献納させられる・・そして
全盛を誇った戦前の吉本は事実上 崩壊した

                                























白鷺だより(111)引き抜き(7)

2016-07-27 08:07:03 | 引き抜き物語
引き抜き(7)

「ヨシモトの芸人を全員引っこ抜け」

バッグ一杯の大金と共にこう命令されたのは
売れない役者、バンジュンザブロー
手伝ったのはこれまた売れない女優 モリミツコ


<引き抜かれた方の証言>(坊屋三郎の書き残したもの)

それでは一方の引き抜かれた方はどうだったのか
後年CMで売れた坊屋三郎がその著作「これはマジメな喜劇です」にその件が書いているので紹介しよう
 
浅草花月のオーディションで吉本入りしたボードビリアンたちを集めて
昭和12年結成された「あきれたぼういず」は瞬く間に人気者になった
メンバーは川田義雄 坊屋三郎 益田喜頓(バスター・キートンのもじり)
芝莉英(モーリス・シヴァリエのもじり、坊屋三郎の弟)の四人

「あきれたダイナ」などで売れていた彼らの元へ密使として
伴淳三郎がやってきたのは昭和14年2月のことであった 
話をきいて「あきれた」側が出した条件は

① 独立した「あきれたぼういず」ショウを作ること
② 一流のバンドをつける
③ ダンサーを揃える
④ 専属作家をつけて同じネタで一か月続ける(京都で10日大阪で10日神戸で10日)
⑤ ギャラは今まで月90円(一人)を300円にする
(注 このギャラは伴淳が書いているものによると今迄月1000円(4人で)だったのを
契約金一万円 月600円(一人)を提示したとある)
また淀橋太郎の記憶によると付500円 契約金一人2500円となっている

口利きは伴淳、契約は鈴木吉之助で成立したが
リーダーの川田があることでバレて首根っこを押さえられる 
川田は吉本ショーのダンサー桜文子と結婚したのだが
媒酌人の吉本東京支社長林弘嵩にペロッとしゃべったため
問い詰められ吉本側の「その筋の人」が動き出す

危険を感じた坊屋三郎は向島の待合に隠れ 芝もどこかに姿を隠し
益田喜頓なんかは故郷の函館に潜伏して「京都集結の日」を待つ

そこへ永田雅一から電話、「東京駅はやばいから 北陸回りでダラ(鈍行)でこい」
米原で出迎えたのは大きなマスクをした伴淳と松竹が雇った「その筋の人」
京都行きに乗り換えて着いたのが木屋町三条の「国の家」という旅館 

キレイな娘が世話してくれてまるで勤王の志士を匿う芸者のようだった・・それが森光子 

川田がぬけた穴をロッパ一座の香川久を入れ「山茶花究」と名乗らせた

月一本の新作の作者として呼ばれたのが淀橋太郎と竹田新太郎だった
「私は旧友の竹田新太郎が新興で「あきれたぼういず」の作者をしているのを頼って
大阪に行き 彼の売り込みで新興に入社した 共同で脚本を書き演出することになった
月給は月150円だった」

かくして京都戎座で旗揚げ公演の日 抗争を恐れて一番前は私服警官がズラリ 
先頭で出る坊屋三郎はピストルが飛んでこないかと相当ビビったらしい
まず戎座で大成功 次は浪花座(大阪)神戸の八千代座ち順調に滑り出した

内容は吉本時代よりスケールアップして
ダンサーが踊ったり寸劇がはいったり 四人が得意ネタをやるといった具合

一方残った川田もこの年の9月ミルクブラザーズを結成した
メンバーは他に岡村龍雄 頭山光 菅井太郎(のちに有木三太)の四人組
おもに浅草花月をホームグランドにして活躍
東西ボードビル時代に入る

やがて戦時色が濃くなりあきれたぼういずは「新興快速部隊」と名を改めさせれる

芝莉英に赤紙が来て
「お国ために行ってまいります」
と日の丸の小旗に送られて伏見の連隊に送られて
そしてそのまま帰らぬ人となった

やがて益田喜頓が抜け 穴に音楽男を入れるが昭和18年「新興快速部隊」は
解散となり おのおの個人での活躍となる


         









白鷺だより(109)引き抜き(6)

2016-07-26 13:18:51 | 引き抜き物語
引き抜き(6)

「ヨシモトの芸人を全員引っこ抜け」
バッグ一杯の大金と共にこう命令されたのは
売れない役者、バンジュンザブロー
手伝ったのはこれまた売れない女優 モリミツコ


<森光子は何をやったのか>

その旅館は三條木屋町にあった貸席「国の家」で新興キネマの女優森光子(当時19歳)の生家であった 
彼女を産んだ母親は村上艶といってこの貸席を始めるまでは美代菊という自前の芸者だった 
父親の名は宮川之輔という京大法学部の学生で大阪の紡績会社の御曹司だった 
光子の他に四人の子をもうけるが艶は決して本妻の地位を求めなかった 
「国の家」の商売だけで子供を育てた 
ところが光子が京都第一高女の入った年母親が「労咳」で死んでしまう
同年父親も後を追うように胃がんで死ぬ
 
高女を退学して彼女は従兄の鞍馬天狗で今売り出しのアラカンこと嵐寛寿郎プロに入れて貰う 
15歳であった 月給は何本出ても20円 なりひら小僧八百八町の茶屋の娘役で女優デヴューする 
そして昭和12年新興キネマに月給100円で移籍した彼女は 
しかし前と同じような役しか回ってこない
曰く***の娘 、腰元**、**の妹** 舞妓**といった役ばかりであった
 
その上この頃父と同じ京大卒の気鋭の監督の森一生に執拗に求婚されるが 
「うちはまだその時やない」とやんわりと断る

そんな時に伴淳から話が来て 親戚に任せていた「国の家」を
伴から貰った金で綺麗にして引き抜き芸人を受け入れるべく準備をする 
そこで彼女は母がそうしたように若女将として挨拶に廻る 「ようこそきょうとへお越しやす」
あきれたぼういずの坊屋三郎はまるで勤王の志士を匿う芸者のようだったと述懐している

伴から出た僅かな金と二本の映画「お伊勢詣り』「金毘羅船」でのいい役とのみかえりだったが 
そこで彼女は映画人以外の人々(漫才芸人)と付き合い 
戦後「びっくり捕物帳」で漫才師ダイマル・ラケットと平気で共演出来たのもその経験があったからであろう 
そして自らがその半生を演じることになるワカナとの付き合いは神様のイタズラとしか言いようがない

いよいよ旗揚げの日 
伴は血と血を洗う抗争を恐れプロボクサーを用心棒にして劇場いりした・・と面白おかしく書いているが疑問が残る 
いかに恩ある永田の命令でも相手は吉本=山口組である 命まで危うい指令である 
なぜそこまでやったのか新興キネマの白井伸次郎から成功したらダットサンを買ってやるといわれたとあるが結局はもらっていない 
同じように引き抜きに動いた鈴木吉之助は新興芸能部の部長の地位を得たというのに伴には映画で優遇された形跡もない 
同じく森も映画では優遇を受けた形跡がない

ただこの年伴は永田から資金援助を受けて「VAN」という店を三條河原町にオープンしている 
これが条件だったかも知れぬ 
喫茶店、汁粉屋、化粧品といった女性をターゲットにした店であったから大いに当たり客で溢れる 
そしてその絶頂期に誰かに「チンコロ」されて 
この店を舞台に売春容疑がかけられ伴と女が太秦警察に逮捕され店を潰してしまう
 
女の名前は森光子という新興キネマの女優であった・・・

そして2年後彼女は京都太秦から消え
やれ「東京に行って歌の勉強をしている」だの
「満州で慰問団にいた」だのと噂され 
ついには「もりみっちゃんは死んだ」との噂が流れた
   








白鷺だより(108)引き抜き(5)

2016-07-24 08:34:09 | 引き抜き物語
引き抜き(5)

ヨシモトの芸人を全員引っこ抜け」

バッグ一杯の大金と共にこう命令されたのは
売れない役者、バンジュンザブロー
手伝ったのはこれまた売れない女優 モリミツコ


<伴淳は何をやったのか?>


大都、日活、極東映画と渡り歩いてきた伴淳が
友人の月田一郎(山田五十鈴の亭主)に誘われ新興キネマに入ったのは
昭和12年29歳の時である
そこには日活時代世話になった永田雅一が撮影所長でいて監督には牛原虚彦や森一生などがいた 
当時の新興には雷門光三郎 大谷秀男 大友柳太郎 市川右太衛門 浅香新八郎 月田一郎、
女優には山田五十鈴 鈴木澄子 森赫子ら綺羅星の如きスターがいて いくら永田の引きがあってもおいそれと役が貰えない
 たまたま頭に皿を乗せて当たってシリーズ化した「西遊記の沙悟浄」が仇となってなかなか人間の役が回ってこない 
来るのは狸御殿の狸とか分福茶釜の釜の役だった 

腐っていたときに永田から秘密指令が飛ぶ
「地下に潜れ」と・・・
彼がその役に選ばれた理由には彼が浅草あたりの芸人に知り合いが多いこと 
寄席以外にもレヴュー 軽演劇、ヴァラエテイなどにも強いこと 
そしてそれらの作家、演出家、振付家なども精通していることなどが考えられるが 
何よりの理由は彼がそれほど売れていないことだった
 
そして30何万円の大金を渡され東京日比谷にある松旭斎天勝が経営する旅館「水明館」を根城にして
東京、名古屋、京都、大阪を股にかけ札束で面を張り吉本の芸人を中心に芸人を引き抜く作戦を実行する 
金と一緒に渡されたものに一冊のメモ帳があった 
引き抜く芸人の名前の上には競馬の予想のように◎ ▲ △ ✖の印が打ってあり値段まで書いてあった 

現在と同じで吉本の芸人たちは忙しい割にはギャラが安く 
殆どがバンス(前借)地獄に落ちているので伴淳の実弾攻勢は面白いように釣れた 

調子づいていた彼は あるとき大失敗をやらかしてしまう 
そのメモ帳をタクシーの中に忘れて来てしまったのだ 気が付いてあちこち連絡するが判らない 
万事窮すと思った時そのメモ帳が送られてくる 
送り主は歌手の灰田勝彦、黙っていますとの添え書きとともに・・・
まことに運が良かった

アチャコは一旦金を受け取ったがあまりの大金に肝を潰し
名古屋の劇場で風呂に入るときも胴巻きに包んで頭の上に乗せて入ったらしい・・
一緒に入ったエンタツに「徳やん、それなんやねん」と聞かれシドロモドロになったり 
東海道線で吉本せいと一緒に乗っていて伴と出会って
小声で「わいに物いわんといてな」と囁いたり・・結局怖くなって金を送り返す
(事情を知ったアチャコの父親が御恩ある吉本を裏切るなんて俺と一緒に死ぬんやと泣き落されたという説もある)

伴淳はかっての同僚清川虹子にも声を掛けるが
清川に「東宝専務の弟で関西財閥大沢商会の御曹司大沢清治との恋」を打ち明けられショックを受ける 
清川はこの引き抜き話は吉本と関係がある恋人には黙っていてくれた
(清川と大沢の恋の結末はいい話なので別に機会に記す)

アチャコ、エンタツ、石田一松はダメだったが殆どの看板芸人から踊り子、作家たちまで金に明かして引き抜きまくり 
いよいよ芸人たちが京都に集まる日が近づく 全員が集まる場所が必要だった

共演した新興の女優が旅館の経営者の娘だと知った伴はその女優に声を掛ける

それが森光子という女優だった
   











白鷺だより(107)引き抜き(4)

2016-07-23 06:27:59 | 引き抜き物語
引き抜き(4)

「ヨシモトの芸人全員引っこ抜け」

バッグ一杯の大金と共にそう命令されたのは
売れない役者、バンジュンザブロー
手伝ったのは同じく売れない女優 モリミツコ


<その前史>(2)

この事件を契機に吉本はいくら儲けても一介の寄席興行者では社会的地位は築けないと
昭和13年株式会社吉本興業(資本金48万円)を誕生させる
さらに通天閣を25万円で買い取り会社のイメージアップを図る
さらに国家に迎合した皇軍支援「わらわし隊」を結成して戦地の慰問を始める
その一方で東宝にすり寄り資金提供や映画のタイアップなどの協力で 
ついには林正之助が東京の宝塚劇場の取締役になる話が具体化いていた

話は少し前に飛ぶ 
吉本が落語から漫才に路線を変更したことに反発した春団治の一番弟子小春団治(初代)が
昭和8年吉本を退社して米團治(4代目)と共に「桃源座」を結成 
化粧品会社をスポンサーにつけ中国大陸などを巡業していたが解散となる
 当時の上方興行界は吉本が支配していたため大阪での活動が出来なくなって 単身上京、
神田立花亭に出演していたが何者かに「襲撃」される 
おりしも師匠春団治が危篤の報を受け急ぎ帰阪 死後二代目襲名を勧められるが吉本から拒否 
その上小春団治の名前も返せと言われる
この事件が引き抜かれた吉本芸人の頭の中にあったのでビビったのである
(この小春団治が僕らが知ってる踊りの師匠、花柳芳兵衛である)

戦後になっても白木みのるが藤田まことの誘いで渡辺プロに入るはずだったが 
梅田花月の地下でヤクザに囲まれて林正之助に脅され慌てて撤回したと彼本人から聞いた

林長二郎が顔を斬られたのは昭和12年11月12日 
9月に東宝に移籍(報奨金15万)したばかりの林は
「主家(成駒屋)の恩義を忘れた不道義漢」なるキャンペーンが貼られる中 
移籍第1作作品「源九郎義経」の撮影に入るとき暴漢に襲われ左の頬を12センチ、
しかも二重刃で斬られた 
この後長二郎は名前まで松竹に返還させられ芸名を以後長谷川一夫と名乗ることになるのだが 
この事件で松竹と東宝の対立が一般にも知られることになる

戦争が泥沼化する中 映画興行界も映画上映時間制限や外国映画の輸入制限
(人気のアメリカ フランス映画が買いにくくなった 同盟国のイタリア、ドイツ映画は人気がなかった)
フィルムの使用制限などにより時間を埋めるために何らかのアトラクションが必要となってきた 
東宝は吉本と手を組んでその穴埋めに吉本の芸人を使うことで解決を図る
いわゆる映画と実演の始まりである

一方 演芸芸人を持たない松竹は急いで芸人を集める必要に迫られたのである
その役目を引き受けたのが かの林長二郎事件でも暗躍したと言われる
新興キネマ撮影所長、永田雅一である