白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(315)芦屋小雁著「笑劇の人生」その(2)

2018-04-27 08:26:31 | 読書
その2
巻き

僕の初めての商業演劇の舞台は昭和49年5月の中日劇場での中日喜劇「どんこな子」「花のお江戸の悪太郎」という芝居で前者が雁之助の作演出で もう一本は小野田勇作 津村健二演出だった 貸し切り公演の日 何かテンポが速いなあと思っていたら1時間チョットの芝居が40分ほどで終わってしまった 製作や営業にはこっぴどく叱られたけど小雁ちゃんに文句を言う前に「判ってる、けどセリフ抜いたか カットは一切してないはずや」と言われた よくよく考えてみると一つのセリフのカットもない 
これについて小雁さんはこのように書いている
「今日の客は食いつきが悪いなと思ったらセリフの数は同じでも30分も巻いて早く終わることもあった どうも全体に笑いが少ない セリフに対するノリが悪いと判断したら芝居中でも指をクルクル回して「巻き」のサインを出す 芝居のテンポを早くしろという合図です 笑いが少ないときはテンポよくパッパッというてあげた方がええんです」

芦屋雁之助のこと


僕と違って雁ちゃんは堅い芝居が好きなんです 基本的に人前では面白いこと言うのに根は居たってマジメ 強いものへの反発心みたいのがあって「お客にも媚びない 使う側にも媚びない」とよう言うてました 
そういうわけで三本立てやったら 一本目は雁平ちゃんら若手の芝居 二本目は僕と雁ちゃんがやる堅い芝居 三本目はお笑いの芝居というふうに構成していました
その二本目の芝居の為にわざわざ自分で池波正太郎さんや司馬遼太郎さんを訪ねて「芝居をやらせてください」とお願いしてましたね 看板は喜劇と出しているけど僕らがやっていたのは真面目な人情喜劇 人間悲喜劇でした この他に当時の喜劇座の台本を書いていた作家の中から藤本義一、茂木草介など後に名を成す作家たちがいました
雁ちゃんも脚本を書くのですがこれが早いこと早いこと そやけど僕の役にあてて ややこしい長いセリフを書いてくるのには困った 稽古で僕がちょっとでもセリフ間違えたら
皆の前でボロクソに怒鳴り散らすんやから困った
雁ちゃんはどっちかいうと「社会派」やった 一度赤旗の時集記事の取材が来た時 そんなのの広告塔になったらあかんと引き留めました でもお客さんとしたらお笑い路線を期待してたのに僕らがやっていたのは真面目なシリアスな劇で 期待外れ
「どうにも北海道やと思たら九州でした」と言うたのをよく覚えています

ブログ(46)芦屋雁之助のこと ブログ(94)優しい目をした戦士の休日 参照

芦屋雁平のこと

雁平は僕と6歳年が離れているし芸能界へ入ったのも遅かった 僕に直接言わなかったけど僕の嫁はんには「芦屋三兄弟の中で上の二人は看板が大きいけど 自分はいつも小っちゃいなあ」とよく言っていたらしい ずっとコンプレックスを持っていたみたいやね
雁ちゃんは本人の前では「何やってんねん」と強いこと言うけど おらんとこでは「雁平はどこへ行っても好かれる ちゃんと仕事をしてる 偉いやつや」と褒めていた そやけど雁平は自分が褒められてるとは知らなかったみたいやね 「ふつうのオヤジさんになりたい 芸能界には定年がない 自分で決めようと思っていた」
そういうて65歳で芸能界を引退したんやけど 平成27年 76歳で兄の僕より先に亡くなった

ブログ(19)思い出カバン 参照

藤田まことのこと

売れっ子になってから雁ちゃんに自分の舞台の演出してほしいとか 脚本を書いて欲しいとか出演してほしいとか僕を通じてよう言うてきたけど雁ちゃんは「そんなもん出られるかい」となかなか首を縦に降らへん デビュー前から雁ちゃんを「オッキイ兄ちゃん」僕を「小っちゃい兄ちゃん」と呼んでた そんな時代を知ってるから自分の方が先輩やというライバル意識があったんやろな そやから僕だけ出ることがようありました(昭和53年7月中座の「必殺仕置き人」が最後の共演である)

中座 貼り紙事件の真相

昭和38年のこと 「笑いの王国」で「土性っ骨」という芝居をやったときのこと
花登筺が初めて書いた根性もの(のちに「あかんたれ」としてテレビドラマ化)
主役は大村崑、雁之助は「阿保ぼん」と言われる憎まれ役で 初日が開いてしばらくした頃 雁ちゃんがスッピンで舞台に出た 
それを聞いた花登さんは怒ってこんな貼り紙をした
「舞台稽古通りに芝居するように 誰とは言わないが舞台化粧もせずに出演している不心得者がいる 絶対に許せん」
そういった内容でした 僕は花登さんのところへすっ飛んで行って「お前、表に出え、話つけよ」と楽屋の外まで引っ張り出して怒鳴り上げた 貼り紙なんて卑怯なことするより
直接本人を呼んではっきり口に出して注意すりゃええやないか そう思ったんです 彼はこの時の僕を「私にとっては小雁君のその時の抗議は狂っているんではないかと思うほど激しかったのだ」と書いているが それほどに僕は怒ってた
花登さんは僕とは仲が良かったから僕に雁之助との仲を取り持ってもらおうと思っていたみたいですね 彼が僕を可愛がってくれたことは間違いないし 劇団の中で一番可愛がってくれていたかも知れない 
 翌年「笑いの王国」は解散する

小雁さんの女のこと

最初の結婚は昭和35年 雁之助や大村崑との合同結婚式の相手で東京から連れて来たデユット歌手で 二人の間には年子の息子も出来た 因みに雁之助の相手はOSミュージックのダンサーの中山某 中山喜久郎、現在の芦屋雁三郎の母親である 雁之助のペンネームの一つに中山十戒がある おそらくここからきている 大村崑は橘瑤子
小雁夫婦は五年ほどで事実上破綻 別居するが離婚が成立したのは昭和61年 その間ディスクジョッキーのAと同棲 半ば夫婦と言ってもいい関係だったが昭和58年 小雁が御園座の舞台で骨折して三か月ほど入院している間に逃げられてしまいました・・とある
この時は僕も傍にいて小雁さんの名古屋のマンションにお見舞いに行くと そのマンションの女性と某日活ポルノ女優とAさん(いかにも本妻というふうに見えた)が仲良く三人で看病しているように見えて驚くやら羨ましいやら思っていたのだが・・・
その後は「娘よ」の巡業で斎藤とも子と出来たことを写真週刊誌にスッパ抜かれて翌年前妻との離婚が成立してすぐ結婚した 小雁さん53歳 斎藤とも子25歳 歳の差28歳の結婚で話題になった 二人の間には一男一女をもうけるが平成7年 離婚 
それから一年後30歳年下の勇家寛子と再再婚 

昭和49年5月僕が初めて中日劇場で芦屋兄弟と仕事をした前の月 芦屋雁之助は梅田コマミュージカルチームのダンサー大島久里子と結婚した


白鷺だより(314)芦屋小雁著「笑劇の人生」その(1)

2018-04-23 17:40:07 | 読書
芦屋小雁「笑劇の人生」その1



小雁さんが本を出した

「僕らが日夜走り回っていた上方芸能の世界を知る人は今となっては殆ど見当たらなくなってしまいました そこで今回上方芸能の歴史の一コマとして残しておきたいというささやかな望みもあり 僕が今まで見聞きしてきたことを一冊にまとめておくことにしました
よう その歳までスカタンやってきたなあ どうぞ そう笑ってやってください」


そのタイトルは「笑劇の人生」という

僕は小雁さんのことは何でも知っていると自負していたが この本を読むと初めて知ることが多い まさに衝撃の人生だ

師匠のこと 芸名のこと

二人の師匠は漫才の芦乃家雁玉 当時ちゃんとした弟子筋でないと一流の寄席(戎橋松竹、富貴)には出られなかったのでツテを頼って弟子入りした 当時「上方演芸会」の司会で人気絶頂だった 雁玉は笑福亭門下の噺家出身 相方の林田十郎は仁輪加の女形出身 二人のしゃべくりが微妙に食い違うという面白さで人気だった(二人の肉声が残っているが聞いたことのある喋り方だと思っていたら雁玉師匠は芦屋凡々そっくりだった) 二人は弟子入りして「芦乃家雁之助 小雁」の芸名を貰う 後にOSミュージックに出るとき古くさ過ぎると勝手に乃の字を取ってしまって破門されるが有名になって許してもらえた

小雁ギャグ


・・・さらに「笑いの王国」を結成してからは舞台もやるようになった それも昼夜6本立 それにテレビのレギュラーが週に8本もある 芝居の合間にテレビ局に駆け付け生放送をやってまた舞台に戻る もう滅茶苦茶もいいところであった どうやったらそない仰山セリフ覚えられます その頃僕がよくやったギャグがあります 両手をねじり合わせて突然「おかーちゃん おかーちゃん」と奇声を上げて叫ぶんです このギャグはセリフを忘れた時によくやったもので・・・とある
僕もデビュー作「星の砂」でこれをやられた しかも人気絶頂の小柳ルミ子が踊りながら全盆で上がってきて踊りが決まって 満員のお客が万雷の拍手 次の第一声が小雁さんの父親の酋長のセリフを詰まり それをこのギャグで胡麻化された

大宝芸能

僕が不思議だったのは「笑いの王国」以降「喜劇座」でも松竹に籍を置いていた芦屋三兄弟が 僕が入った時は何故 同じ東宝芸能関西に所属していたかということである
これについてはこういう文章がある
「実はその頃 東宝から梅田コマ劇場の裏に劇場を造る計画がある そこで専属に芝居をやってもらいたいという話があった アチャラカとは違う真面目なシリアスな芝居をしたいと思っていたぼくらはこの話に飛びついて松竹を辞め東宝に移った ところがなかなか劇場を造ってくれない 僕らは本拠地もなく大阪、名古屋、東京の劇場を廻っていました」 とある
要するにこの新劇場をエサに東宝に呼び戻したということである
この予定の劇場はボーリング場跡に出来た阪急ファイブ(昭和53年)の中のオレンジルームのことだと推測されるが結局商業劇場は出来ず しかし大阪小劇場運動の拠点となって「そとばこまち」や「新感線」を育てた
   
浪花千栄子さんのこと

あんまり芝居には出ない人なんですが 僕と雁ちゃんが話し合って出て貰った
浪花さんは暴走するんです 舞台の上でセリフを言いながら乗ってきたら早口の京都弁で
客の喜ぶようなことをどんどん言い続ける こうなったらもう止まりません 僕は彼女の表情を見てて まだやというサインやったら黙ってる OKのサインが出たらやっと自分のセリフをいう そんな感じやったね

松竹新喜劇のこと


新しい役者が欲しかったんでしょうね 僕と雁ちゃんに松竹新喜劇に入らへんかという話があった もし僕らが入っていたら松竹新喜劇はどないなってたかな 雁ちゃんは「芸風」が違うと言って寛美とは一緒に芝居をせんかった

吉本新喜劇について


毎日放送は昭和34年3月に放送を開始を控えていた すでに大阪では読売TV 関西TVが放送を開始していて 毎日は後発組になっていた それに放送会社は毎日新聞の社屋を改造した建物だったのでスタジオが狭かった そこで開局記念番組を吉本と組んでうめだ花月杮落し公演として上演したのが吉本バラエティー「アチャコの迷月赤城山」を放送した これが吉本新喜劇の始まりです
(ずっと後昭和55年12月に梅田コマで上演した「雁之助主演」「僕の脚本」・「むちゃくちゃでござります物語」のラストシーンはこの芝居がモデルになっている)

実は僕ら兄弟は吉本に在籍していたことがある そやけど僕らの芸は吉本とは肌合いが違っていた 僕らはミュージックホールから出て来たいわばコメディアンです コメディアンと芸人の間には少し違いがある というか座長がいて台本があり それに合わせてやっていくのが基本的なスタイルだった吉本は僕らにとって古かった 売れていたので僕らを呼んだんでしょうが 特に雁ちゃんが吉本の芸風が嫌いやったこともあって わずか一年で辞めてしまった 「今の若いもんは辛抱たらん」なんて言われたけど僕らには別の思いがあった 花登さんも同じ考えやったね 要するに戦前までの関西の笑い 吉本とは違ったものをやろう ということで僕らもそれについて行った 

以下 その(2)へ











白鷺だより(313)梅コマ版「ベルばら」

2018-04-21 08:54:54 | 思い出
梅コマ版 「ベルばら」

宝塚「第一期ベルばら世代」を代表する順みつきさんが胃がんで亡くなった 70歳だった
この世代のスターは初演から順に榛名由梨 安奈淳 汀夏子 順みつき 麻美れい 瀬戸内美八 田島久美 などがいるが病気の安奈淳は別として皆お元気である
当時何をやっても閑古鳥が鳴いていた宝塚 それを救った「ベルばら」
男装の麗人オスカルなどはいかにも宝塚的(リボンの騎士)で長谷川一夫演出は関係なくヒットする要素は多々あったので ショウを外して一本建てにして 同じ狂言を各組が競演するという公演スタイルも成功し 落ち目の宝塚の救世主となったのは必然といえよう

僕は宝塚の「ベルばら」は全く未見だが 北島公演の美術を担当していた渡辺正男さんが「ベルばら」の美術も担当していていつも大枚(ン十枚)の道具帖を風呂敷包みに入れて持ち歩いていたのを思い出す なにせ30場もあるので下書きも入れたら100枚ほどあった 

実は本場の「ベルばら」は未見だが初演の翌年梅田コマで上演された「ベルばら」は見ている コマの記録によると 

昭和50年4月3日より16日
ミュージカル・ロマン「ベルサイユのバラ」
原作・池田理代子 脚本・演出 竹内伸光
装置・唐見 博 音楽・中村八大 振付・関矢幸雄 小沢周三 擬闘 的場達雄  効果 小間伸(作本秀信)衣裳 小峰リリー 
歌唱指導 矢田秀次
ナレーター 中山仁

マリーアントワネット 奈美京子
フェルゼン・アンドレ にしきのあきら
オスカル       森田日記
ロザリー       純アリス
アラン        林ゆたか

前年梅田コマで5周年記念公演をやったにしきのあきらが初めてミュージカルに挑戦した
当時にしきのは超売れっ子でスケジュールがこの二週間しか押さえられなかった
オスカルの森田日記はフランス系のハーフの歌手で172㎝あったので 男装が似合った
大阪のアカデミー アクタープロなどの大阪の若い役者が大勢出演した
彼らの活躍で見事な庶民の息吹が表現され「バスティーユ監獄」襲撃を描くことが出来た
その上 テンポも良く庶民の側からフランス革命を描く 革命劇となっていた
装置の唐見博(当時は劇団四季の装置見習いだった)の盆をうまく使ったセットが見事でそれを助けた
その後「レミゼ」をみたが あれに勝るとも劣らない革命劇の出来であった
「清く正しく美しく」の宝塚初演ではフェルゼンとアントワネットとの不倫は詳しく描けなかったがここではにしきのと奈美で詳しく描いた

この公演の成立が前年宝塚でヒットしたことが理由とは思わない 
コマの文芸部の書籍棚がしばらくマンガ「ベルサイユのばら」全巻に占領されていたのでヒットとは関係なしで早い目に進められていたと思う

この公演後6月に僕は田村三兄弟特別公演でコマデビューする

脚本・演出の竹内伸光さんは当時梅田コマの文芸課長だったが特にミュージカルが得意でアンサンブルをうまく使って再ブレーク前の舟木一夫が出た「ああ野麦峠」などが印象深い 僕のコマでのデビュー作「星の砂」も原型もないほど かなり手を入れてくれて それで僕の名前で発表してくれた 関学で僕が入っていた「劇団エチュードの創立者でもあった(もちろんお喋りの中で判ったことだが)ので特に可愛がっていただいた  

白鷺だより(312)浪花人情紙風船団「不思議な、な」

2018-04-17 16:32:06 | 観劇
浪花人情紙風船団 第十八回公演「不思議な、な」

今回の紙風船団の公演は久しぶりの大ファンである菱田作品であるしタイトル「不思議な、な~人情女探偵七変化~」はもう一つだがその訳の判らないところが菱田のいいところなので期待して見た

パンフに書かれたあらすじは以下の通り

 時は昭和21年 レッドパージで多くの教師が教壇を追われたとある高等女学校に一人の女教師粉元市子(紅)が赴任してくる 彼女は元旅一座の役者であった いわばニセ教師 食えない一座に見切りを付け ドサクサに紛れて学校に潜り込んだ彼女は芸で培った度胸と口八丁で女生徒相手に笑いに溢れた自由過ぎる講義をすすめている そんなある日校内で他殺体が発見される 元役者の女教師はかって江戸川乱歩のミステリーを演じた血が騒ぎ独自の推理を勝手に進めていく 教頭が残した「七」という数字の意味は?
やがて女学校の戦前の秘密(かって女学校は陸軍の暗号作戦を秘密裏に担っていた)が明らかになって行く?
女の的を外れた活躍! そして推理には全く意味のない鮮やかな七変化‼
笑いと歌を交えて贈る「浪花の人情ミステリー」開演です


これを読んで まず思ったことはレッドパージを描くと話がややこしくなるなあ
江戸川乱歩は本格的謎解き推理小説ではないなあ それなら横溝正史やで
(乱歩は僕と同じ三重県名張出身だ)とツッコむ点は多々あるのだが本番ではレッド・パージの話も江戸川乱歩も出てこず
(おそらくカットした?賢明である)杞憂に終わったのだが

開演前 パージにも合わず公職追放にも合わなかった どうしょうもない教師たち(鍋島、白井、田村‥三人好演)が狂言回しで時代背景を説明する これは賢明な処置だ

オープニングの後 いきなり女学生たちの唄と踊りから始まる
「海ゆかば」 紗月梨乃のソロから「月月火水木金金」 海軍式敬礼を取り入れたダンスはこれはこれで面白いのだが 
僕だったらもっと銃後の歌「父よあなたは強かった」などの歌の後ろで「灯火統制」のもと暗い灯りの中でなにやら秘密裏のことをやっている女学生と教師をチラリと見せ 
やがて爆撃(原爆)
天皇陛下の玉音放送があり 戦後篇「リンゴの唄」 「東京ブギウギ」の踊りが続く 
この二曲は戦後歌謡の名作であるが笠置シヅ子の「東京ブギウギ」は昭和22年の曲である

東宝ニューフェイス
東宝レッド・パージが元で始まった東宝争議のさなか 昭和21年6月3日第一回東宝ニューフェイス一期生を採用した 
男性は三船敏郎 伊豆肇 堀雄二ら 女性は久我美子、若山セツ子 岸旗江ら 後の三船夫人の吉峰幸子もいた

宝塚 OSK

一方宝塚では生徒募集は昭和19年より昭和22年まで控えていた
OSKも同じように募集は中止していたようである
本拠地であった大劇も3・13の大空襲で焼け落ちたが突貫工事で復旧して7・26よりOSK夏まつりの公演で再開された
一方 宝塚大劇場は陸軍に接収され 風船爆弾製造工場となって生徒たちは風船を作っていた これは天井が高い(風船を膨らませて空気漏れをみるため)建物が必要だったためで同じ目的で 日劇 浅草国際劇場 有楽座 両国国技館などもそのため接収された

ゴジラ(1954 公開)や青い山脈(1949)のくだりは菱田らしく皮肉が聞いて面白い
僕だったら萬ちゃんがいいかげんに歌った「青い山脈」を通りすがりの服部良一が聞いて感動することにするのだが

黒板
黒板は黒いのか 1954 黒板が黒色から緑色になるので 僕らが小学校時代は緑だった
一番右端には年 月 日 が書けるようになっており その日の天気も書いてあった
日直の人の名前が書けるようになっていたかも

この学校は空襲にも焼け残ったのだが 空襲時窓ガラスが爆音で割れるのを防ぐため ガラス一つ一つににペケの紙を張っていた
空襲などありえない僕の田舎の小学校も僕の入学時まだ貼ってあった

旅役者の教師の授業がいかに面白く為になるのか もう一つ二つのエピソードがあっても良かった 都々逸も阿呆ダラ経もやった方がいい
この前「有頂天一座」という芝居を見たが 主役(渡辺えり、キムラ緑子)の地の芝居の演技はともかく劇中劇をちゃんとスタッフ(新国劇)をつけてキチンと演じているのが好感が持てた

平塚伝兵衛は松本清張の小説に出て来る部長刑事である 
彼をモデルにして つかこうへいは「熱海殺人事件」で木村伝兵衛を登場させたが 
我々の世代 「部長刑事」と言えばくっさん。楠年明さんの新田刑事なのだ

ミステリー物はなかなか犯人が判らない方がいい 
今回はなかなか判らないが釈然としないのは僕だけか
ダイイングメッセージの「七」の意味が良く判らない
因数分解して「三奸四愚」と言われても余計判らぬ 僕は東条英機戦犯説はとらないので

軍需工場での動員をさぼったため同級生全員を空襲でなくした先輩役者松田明さんの話は哀しい 
宝塚の生徒が風船爆弾の制作に関わったように あの時代この学校の生徒だけではなく 
どの学校も少なくとも学徒動員と称して勉学の代わりにお国の為に働いていたのだ  
たまたま暗号解読チームに入って それが失敗し多くの空襲犠牲者を出したことを悔いながら終戦を迎えて それで自死する教頭の死は果たして共感を得られるのか(果たして当時民間人が暗号解読などやっていたのか?)

戦中の事件は色々あるが最近見た「あいときぼうのまち」という映画には戦中原爆開発用のウラン採掘に駆り出される福島の中学生のエピソードが出て来る 理研(理化学研究所)の仁科教授のいわゆる極秘研究「二号研究」の為でその研究がアメリカにバレ東京空襲が激しく研究所は破壊されこの作戦は中止になった(今回のシリア攻撃のように)
 映画はこの発掘にきた将校と不倫関係となる母親が戦後捨てられ 男は東電に天下る 
何年かのち息子は福島原発反対闘争のリーダーとなる・・・・  

さて今回は菱田の毒が効かず また人情噺も今一つだったと思う
このコンビの次回作を期待する
まあ お客さんは喜んでくれているので それはそれでいいと思う

萬ちゃんのコナンはかわいいとは言えず 僕としては何で出て来たか判らぬGHQの将校の方がお気に入りだ

ヒロの役は悪名の朝吉に対するモートルの貞のイメージだ 
未央ちゃんの狂った女将は「一見さんネタ」以外でもっとバカバカしく狂った方が あとが悲しい
息子さんと教頭の関係がよくわからない


何か取り止めのない文章になってしまった
これも「取り止めのない」芝居を見た後のせいにするなんて悪い癖だ


(2017年4 月12日 近鉄アート館にて観劇)

白鷺だより(311)聞き書き 花登筺

2018-04-15 12:44:10 | 人物
  聞き書き 花登筐

僕の花登さんの印象は56歳で亡くなるまで 生き急いでいる感じしかなく 得体の知れない薬を注射器で打ちながら演出する姿だけが目に焼き付いている 
ここではそれ以前 昭和34年 彼が作った東宝テレビ課に入った人たちが間近に見た証言を集めました

山路洋平
花登筐の画期的であったところは 現在プロダクションが請け負っているような形と同じくスポンサー、企画、タレントを全てパーッケージにしてテレビ局に売り込むという方法をとっていたことだ
 
好き嫌いが激しく自分にちょっとでも逆らうとみたらパージをするというところがあった
雁之助が反抗的な態度を取ることが多く番組に起用しなかった 山路氏がなんとか取り持って出演させたがなんとセリフなしのルンペン役(もっとも後に東宝を離れて「笑いの王国」を結成するとき佐々十郎らに抜けられて雁之助はそこで花登氏と和解して行動を共にする)

新野新
 花登筐は僕が北野劇場からテレビ界に移っていく過程のみならず その後も密接な関係であり種々教示を受けた人であったが「合わなかった」と言うしかない 氏の目の奥にはいつも猜疑心や嫉妬心のようなものがチョロチョロと燃えており タレントや僕らのような後輩にもその目は向けられ入っていけない感じだった

花登氏が佐々十郎や大村崑を起用して北野劇場で「やりくりアパート」を舞台化した
その打ち合わせ会議に舞台監督として連なっていたが印象深いことがあった
北野劇場には盆があったので盆がない日劇の演出家はやたらに盆を使いたがったが 
花登氏も初めての北野であったので台本に盆を回すシーンが多くあった
「どうしてここで盆を回すのですか」と言ったのは北野のトップ振付家でありレヴュー演出家であった岡正躬氏であった
「見た目の派手さを見せようと思いまして」と花登氏
「歌もダンスもない芝居のシーンで こういう盆廻しは派手にはなりません」
「しかし舞台裏を見せるのも一興かと思いまして」
「それではショウにならない お笑いでも北野はショウです 盆を回すということは、いいですか、ショウの必然性がなければならないのです このシーンはカーテンを閉めてその前に崑ちゃんが飛び出すほうがずっと芝居のテンポが出ます」
北野では大きなダンスシーンを一手に引き受けて岡天皇と裏方が言うほどの実力者の発言には花登氏も演出案を引っ込めざるを得なかった 岡氏としては急速に売り出して来ている花登氏に演出家の先輩として釘を一本刺したのだろう 若き日の花登氏はさぞ悔しかっただろうと思う 舞台とは血を流すものなのである
 

当時大阪の東宝テレビ課の仕事の10本ほどは花登氏が書いていて山路、新野、池田は三人で2,3本であった 
そのうち花登氏が倒れた 過労である 会社からは局は僕らの台本でいいと言っているから書くように依頼された それらの仕事は我々に降りかかって来た メインの「やりくりアパート」「番頭はんと丁稚どん」は病床の花登氏が書いた あとの番組は自分が目を通してならば我々の名前で書いてよいと花登氏が言っているとテレビ課は言った
自分の1,2本の番組があるのに手分けして2,3本の番組を書かねばならない 24歳の若造には過ぎた会社の要求であった が、もとより本は一本でも多く書きたい、が、作劇の引き出しなどないのに生放送だったので慌てて一夜で必死で三本程書いた覚えがある
花登氏は豊中市民病院に入院していた そこへ15分番組を書いて持って行った 僕の原稿にザっと目を通すとすぐにペンを入れ出した 驚いてみていると3,40分で殆ど書き直されていた そんなことが何度かあった 当時僕や山路氏は随分花登氏の代作をしたように言われたが実は一本もない 僕らが書いたものは花登氏が手を入れようが僕らの名前でクレジットされた

ところが後輩の池田幾三にはこんな証言がある

池田幾三
ある日の夕刻に花登氏から電話がかかってきました
「悪いけど今から来てくれへんか 仕事手伝うてほしいねん」
急いで豊中の自宅に行くと書斎の机の上に原稿用紙が何枚かづつ束になって並んでいます
「どれでもええわ 好きな奴あと続けて欲しいねん」
見ると「番頭はん・・」「やりくり・・」などと3,4本がいづれも途中まで書いてある
「どれでもええ いわれても」
「とりあえず読んで見て これならあとの話が続けられそうやというのを引き受けてくれたらええわ これみんな明日締め切りやねん」
「はあ わかりました」
とりあえず原稿を読み始めるのですが速さに任せて一気に書いた原稿ですから その読みづらいこと、なんとか判読して「判りました、番頭はんにします」
と書き始めた

とある 

梅コマで僕が付いた花登作品

昭和51年 おそめはん
      おからの花
      どてらい男 戦後篇
淀屋橋物語
昭和52年 紀伊国屋文左衛門
      あかんたれ なみだ篇
昭和53年 あかんたれ 愛憎篇
昭和56年 海鳴りやまず
昭和57年 晴れ姿 男は仁吉(脚本のみ)演出は臼杵吉春
昭和58年 死去