白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(306)南海通り「波屋書房」

2018-03-30 16:52:29 | 道頓堀界隈
 南海通り「波屋書房」

 今は上六に移った新歌舞伎座が難波にあった頃終演後 梅沢劇団の定宿だったオリエンタルホテル(新歌舞伎でも全員同じホテルの条件だった)に向かう途中の通りにその本屋はあった 梅沢武生座長は必ずそこで出たばかりの「週刊実話」を買うのである
この本屋は僕も馴染みだった 向かって右側の入り口から入ると 話題の大阪芸能ものの単行本、ヤクザ専門書 大衆演劇の雑誌が並び 左側から入ると近所の板前さん用の本格的な料理本が山と並んでいる この店で本を買うとブックカバーを付けてくれる それには馬車に乗った男が読書している絵が掛かれ 隅に「ナンバの波屋書房は辻馬車時代の文学的フランチャイズだった 藤沢桓夫」と書かれている
この絵の作者は大正から昭和にかけて竹久夢二と並んで一世を風靡した美人画家宇崎純一が書いたもので 彼がその昔この店を作ったのである

その頃 高等遊民やディレッタントという言葉が流行り 長谷川幸延の「笑説法善寺の人びと」によると

キャバレー・ドゥ・パノン 宇崎純一、百田宗治、足立源一郎 竹久夢二
カフェ・パウリスタ 宇野浩二 鍋井克久 小出楢重


と入り浸りの店を書かれるようにすでに有名画家の仲間入りをしていた宇崎純一は 丁稚修行も続かずヴァイオリンばかり弾いているディレッタントだった弟の祥二の為に親が食堂を営んでいた中央区千日前南海通りの自宅一階で本屋を開業し弟の生活の糧を保証し自らは画業に専念出来るように目論んだ 東京で竹久夢二が「港屋絵草紙店」という本屋兼出版社を出して自らの絵や絵葉書などのグッズを販売して大当たりしていたのをならったのか「波屋」と名付けて「波屋書房」を開店したのが大正8年 しかし祥二は兄の作品を出版して商売する気はさらさらなく 純一は出版物の装丁や挿絵を描くことに専念した
この本屋に旧制大阪高校の悪童共が集まり 大正14年3月藤澤桓夫が中心となって同人誌「辻馬車」が発行される 同人は藤澤、小野勇、神崎清らで後に武田麟太郎 長沖一 林広次が加入 いつも波屋の奥で編集会議をやっていたが翌年藤沢ら同人が東京帝大に進学 残ったメンバーが当番制で編集をすることになる もちろんその中心には祥二がいた 昭和2年武田麟太郎が編集した頃から社会主義的傾向が強くなり 武田が女性名で書いた文章の内容がアナーキスト達の怒りにふれ編集者であった祥二は自宅の南海岸里付近で襲われそれが元で病床に伏してしまう そのため「辻馬車」はその年終刊となった
 
祥二は昭和4年死去
  
「辻馬車」に象徴されるように波屋書房には文人、画家が集まってさながら文化サロンの様子だったが 純一は祥二が亡くなった後店の経営を番頭の辻本参冶に任せ画業に専念した

その「辻馬車」からは後に作家となる藤沢桓夫 神崎清 武田麟太郎 林広次(秋田実)長沖一らを輩出した 
みな大阪高校から東京帝大に進学した者たちであった

オダサクも旧制中学の頃から「波屋書房」の常連であった
波屋も例にもれず大阪大空襲で焼失してしまう
戦後すぐオダサクは「立ち上がる大阪」(昭和21年)にこう書いた

劇場の前を通り過ぎた途端 名前を呼ばれた 振り向くと三ちゃん(芝本参冶のこと)であった 三ちゃんは波屋書房の主人で私がずっと帳付で新刊書を買うていたのは三ちゃんの店であったし 三ちゃんもまた私の新しい著書が出ると随分いいところに陳列して売ってくれていたし 三ちゃんの店が焼けたことは感慨深いものがあり だから顔を見るなり挨拶もそこそこにそのことを言った
「あんたとこが焼けたので雑誌が手にはいらんようになったよ」
すると三ちゃんは滅相もないという口つきを見せて
「何いうたはりますねん 一遍焼けたくらいで本屋辞めますかいな 今親戚とこへ疎開してまっけど また大阪市内で本屋しまっさかい雑誌買いに来とくなはれや」
と三ちゃんは捲土重来の意気込みであった そして私を励ますように
「織田はん、また夫婦善哉書きなはれ」と言った


また藤澤桓夫も

難波の波屋はどうなっているんだろうと思って波屋に行ってみたんです するとあのあたりは焼け野原で波屋の前で芝本君が金物屋をやっていた 金物といっても新しいものはなにもなくおそらくその辺で拾い集めたものを売っているという それから一か月ほどしてバラック建ての波屋が出来てました 本なんて殆ど並んでなく 焼け残った処から集めた本ばかりでした それから三か月くらいしたらちゃんとした本屋になってました 大阪商人の根性は見事で とにかく千日前界隈で一番早く復興したのは「波屋」だったと思う

と書いている

戦後宇崎純一の名前は竹久夢二のように復活はしなかったが 昭和29年 65歳で人生の幕を閉じた
芝本参冶も「波屋」を再興させて昭和43年 亡くなった
僕らが知っているご主人はその息子さんの芝本尚朋さんであろう 
現在もますますお元気でナンバの中心地で店を守っている

白鷺だより(305)大阪が舞台の映画 あれこれ

2018-03-28 14:50:01 | 映画
大阪が舞台の映画あれこれ

大阪物語 溝口健二 吉村公三郎監督 (昭和32年)


 京都の溝口健二の墓の周りに寄贈した人の名前の中に「近江屋仁兵衛」の名前がある
これは撮影半ばで亡くなった監督を偲んで中村鴈治郎がその役名で寄贈したためである
当時の大映オールスター映画でその鴈治郎 雷蔵、勝新、玉緒、浪花千栄子らが競い三益愛子が「がめつい」女将を演じている
何度か舞台化を試みた作品でその脚本は良く読み込んでいた
 
白い巨塔 山本薩夫監督(昭和41年) 

公開時に見たが田宮二郎の財前が親に仕送りするのに大阪駅前の郵便局に行くシーンが忘れられない 僕はこの年関学に入学した いずれ大阪で就職してこうして親に仕送りをするものだと思っていた 結果はまともな就職もせず 仕送りもした記憶もない
医療ドラマの定番 院長回診の大名行列はこの映画から始まった

夫婦善哉 豊田四郎監督(昭和30年)

この映画の殆どがセットを組んで撮られた(美術 伊藤喜朔)とは思えない 
実際は竜造町あたりでロケは敢行されたが殆どカットされたらしい
予算は使い放題の良き時代の作品である 
対して川島雄三が日活で撮った「わが町」は全部昔の家々が残っているだろうと京都ロケを言われたが 川島が大阪で撮りたいと言い張ったため長屋はセットだが他は生玉神社、正弁丹吾 地下鉄難波 天保山 長屋は大阪出身の助監督の松尾昭典が昔を思い出し美術の作ったセットであった

じゃりン子チエ 高畑勲監督(昭和56年)

あれは読売テレビが「ドロンを追え」というお笑いドラマをやっている時だから昭和51年だったと思うが そのプロデューサーAと知り合いになり手伝っていると これを芝居にしたいが手伝ってくれるかと見せられたのがマンガの「じゃりン子チエ」だった
彼が芦屋に持っていた仕事場と称するマンション(当時テレビマンは儲かっていた)で脚本家(女性)と打ち合わせを繰り返し心斎橋パルコの小さなスペースで上演した そのあと天王寺駅の構内で彼(A)のご家族と会った時紹介されたのは年相応の奥さんと娘さんだった 
あの芦屋のマンションの女は何者だったのか?
その頃僕は天下茶屋一丁目という処に住んでいて近所には「チエ」みたいな女の子が一杯いた

太陽の墓場 大島渚監督(昭和35年)



おそらく釜ヶ崎にカメラが入ったのはこの映画が初めてだろう 
何年かのち僕がその近くに住んでいた頃はもう南海の阪堺線がなくなっているのが大きく違っている 
翌年映画通り大暴動が起きる 
その何回かあとの西成暴動で僕は投石をしていて機動隊の放水を浴びた
大島と学生時代演劇仲間だった戸浦六宏は京大を出て大阪で教師をしていたがこの映画に出演するため教師を辞めさせられた 

鬼の詩 野村鐡太郎監督(昭和50年)


トップホットの隣にあったアートシアターギルドで封切を見た 原作は藤本義一の小説
明治期の大阪落語の中で異端を放った桂馬喬という男の笑いに対する狂気ともいえる追及ぶりを描いているが所詮は演技が素人の桂福団冶 狂気が伝わってこない
これではトップホットの「おとろしや」の方が狂気っぽかった

ぼんち 市川崑監督(昭和35年)

こんな役をやらせたら絶品の市川雷蔵 足袋問屋の息子喜久治を巡る女たち この豪華な組み合わせ 山田五十鈴、草笛光子 若尾文子 越路吹雪 中村玉緒 ラスト河内長野の疎開地で女たちが裸で戯れるシーンは今でも目に浮かぶ

春琴抄 西河克己監督(昭和51年)




何度も映画化されて僕が見ている中では大映の山本富士子版と新藤兼人版である
この百恵・友和版は撮影中から話題になっており神農さんで有名な道修町を抜けた三越の裏手の古い商家で撮影された

ビリケン 坂本順治監督(平成8年)

高校生の頃 古文の時間に映画好きの先生Hから「哀愁」の話を聞いた そこに出て来るビリケン人形が大阪の通天閣にあると聞いて 大阪見物のついでに見に行ったら果たしてそこに鎮座していた たしかその頃知り合った通天閣の社長も特別出演してたな

濡れた欲情 一条さゆり 神代辰巳監督(昭和47年)
梅コマの照明さんはその頃けっこういいアルバイトをやっていた 新大阪にある秘密クラブでの会員制のストリップの照明だ 手入れがあった場合の逃げ口を用意してあり かなり危険であったがいい金になったらしい 
高校3年の夏休み 九条の鉄鋼工場でアルバイトをしたとき九条OSに何度か入った 
男同士の実演やちいさな劇団のエロ芝居(いざ本番となると暗転)やSMショウを見た

白鷺だより(304)四ツ橋電気科学館

2018-03-24 11:12:10 | 道頓堀界隈
四ツ橋電気科学館

その昔 大阪での修学旅行の定番は通天閣と天王寺動物園とここ四ツ橋電気科学館とであった 僕はその前 朝日新聞の新聞配達少年の招待の大阪見物の時にも電気科学館に来ているから最低二回は来ていることになる
いや修学旅行生だけではなく 市民だったら一度は訪れたであろう大阪が誇る名所だった

大正12年(1923)大阪市は大阪電灯株式会社を買収して市内の電気供給を市が管理することとなった
大阪市は電気機器や電灯の普及を目指して九条に設置されていた局所内に 電気に関する基礎知識を紹介する「電気普及館」とすぐれた照明や電気器具を訂正価格で委託販売する「市電の店」を設立した
このように継続的に電気の普及に努めていた大阪市は電灯市営10周年を記念して さらに充実したサービスを提供できる施設の構想を練り始めた 当初は電気の普及や啓発を目的にしていたが市民の注目を集めるべく美容院や大衆浴場さらにスケートリンクを備えた施設にするつもりで建設を始めた だが外遊中だった木津谷栄三郎電灯部長が帰国し 彼の提案で当時世界で24台しかないドイツ カール・ツァイス社製プラネタリウムを導入することが決定 
昭和12年(1937)6階を「天象館」2~5階を「電力電熱館」や「照明館」などの展示場にあてる「電気科学館」が完成した

日本で最初の「科学館」と称した建物だった 
電気をアピールするため夜間は電光文字が輝きライトアップもされた 
戦時中は塔屋の最上階は「防空監視施設」として活用された

この建物は激しい大阪空襲にも耐え 心斎橋のそごう(これは米軍に接収されPXとして使われた)とともに焼け跡にスクッと立つ建物として終戦後が舞台の芝居のバックによく描かれていた

平成元年(1989)閉館するまでこの地に立ち続け 現在は中之島に新しく建てられた「市立科学館」(1989 10月オープン)にもプラネタリウムが導入され 昔の精神を引き継がれている

さてこのプラネタリウムを舞台にしたオダサク(織田作之助)の名作がある
昭和31年 川島雄三によって映画化された「わが町」がそれだ 
明治末期日本人工夫としてフィリピンのベンゲット道路建設工事を完成させたことが唯一の自慢で何かというと「わいはベンゲットの他ァやんや わいがこさえたベンゲット道路見てこんかい」と切り出す人力車夫佐渡島他吉(辰巳柳太郎」
そこで彼が見た南十字星の美しさが生涯の自慢だ
帰国して大阪の「貧乏たらしい古手ぬぐいのように無気力な、しかし他吉にとって生まれ育ったなつかしいわが町 河童(がたろ)路地」に戻って来る そうここはあの「夫婦善哉」の舞台と同じ オダサクも生まれ育った場所だ
そこでフィリピンに行く前に一夜限りの契りを結んだお鶴と再会するが彼女は唯一の子供を残して死んでしまう 他吉は残された娘 初枝を人力車夫をしながら男手一つで育て上げる その初枝の婿の新太郎をけしかけてフィリピンに行かすが彼の地で客死してしまう
やがて初枝も孫の君枝(南田二役)を残して死んでしまう 
明治 大正 昭和と「身体をせめて せいだい働かなあかん」と人力を引いて来た他吉もやがて病気に倒れる

原作の「わが町」で他吉の最後をオダサクはこう書いている

・・・四ツ橋電気科学館の星の劇場でプラネタリウムの「南の空」の実演が終わり場内がパッと明るくなって ひとびとの退場してしまったあと 未だ隅の席にぐんなりした姿勢で残っている白い上衣の男があった よくある例で星を見ながら夜と勘違いして居眠っているのかと係員が寄って行って揺り動かしたが動かず死んでいた 
「四ツ橋のプラネタリウムに行けば南十字星が見られる」と〆団冶から話を聴いて いつのまにか君枝や次郎の目を盗んで寝床を抜け出してきていたのか それは他吉であった


僕はこの映画の記憶はないが 何年か後に森繁が舞台化した「佐渡島他吉の生涯」は見た
とん平さんがバクチで二度目に捕まった時丁度森繁さん座長の芝居だった
残り休演のお詫びに行くと「しょうがないな、ゆっくり休めよ、いいかこの時期こそ金使えよ」と言われた
謹慎後 とん平さんの復帰作はこの「佐渡島他吉の生涯」だった
「お前があんなにうまい役者だとは思わなかった」と森繁
これが自信になった

白鷺だより(303)シネマクラシック(9)「893愚連隊」

2018-03-22 12:32:02 | 映画
 シネマクラシック(9) 「893愚連隊」



 昭和41年公開のこの映画をみたのは翌年(昭和42年)の関学映研主催の中島貞夫の講演と一緒に上映された時であった 封切り時はさほど評判は上がらなかったがそれこそネチョネチョ大学映研を中心に評判が上がっていき中島は日本映画監督協会新人賞を受賞する それ以来映研のゲストとして売れっ子になり関学学園祭の時は 中島が東映オールスターで撮った「ああ同期の桜」を撮り終わった時でその宣伝を兼ねての講演会
 
僕は大学2年の19歳
タイトルは中島によると「はちきゅうさん愚連隊」と読む

中島貞夫は東大文学部を卒業 在学中は倉本聰、村木良彦らとギリシャ悲劇研究会を創立した 卒業後他の二人がマスコミ〈にっぽん放送、ラジオ東京)に進んだが東映に入社 「ギリシャ悲劇は西洋の時代劇やな」と東映京都撮影所に配属 マキノ雅弘 沢島忠 田坂具隆 今井正らの助監督に付く 昭和59年「くノ一 忍法」で監督デビュー 四本目の「893愚連隊」で「日本映画監督新人賞」を受賞 一躍注目される

いきなり京都撮影所に配属された中島は映画スタッフとは違う得体の知れない男たちがウロウロしているのが気になった 
彼らは愚連隊と呼ばれロケ整理が主な仕事だった
当時東映は岡田所長と制作の俊藤さんとが組んで任侠路線を進もうとしていた 
そうなると愚連隊も多くなって我がもの顔で撮影所をカッポするようになってきた 
彼らを主人公にして書いた脚本を岡田が興味を持ってGOサインが出た 
「オールロケで白黒 予算は1900万 これで好きにせえ」
「タイトルはヤクザ愚連隊や ええな」と岡田に言われたがヤクザと愚連隊とは違うと
「893愚連隊」と表記して会社には「やくざぐれんたい」自分たちは「はちきゅーさんぐれんたい」と読んで使い分けた
かくして東映京都撮影所では片岡千恵蔵の金田一もの「悪魔が来りて笛を吹く」以来の本格的現代劇がクランクインした



主役クラスの松方弘樹はお仕着せだが 他の役者は中島が使い安さで決めた 荒木一郎、今村の「エロ事師」で注目していた近藤正臣(ぼくらは梶光夫も「若い命」でのヒール役で注目していた) 大部屋俳優の広瀬義宣はオーディションで決めた
 
荒木一郎は文学座のベテラン俳優荒木道子の息子で役者でのギャラがあまりにも安かったので仕方なく歌を歌って稼ごうとした 「空に星があるように」はそうして出来た
こういうどうしょうもない男の役はドンピシャだ 
我々はこの後 大島の「日本春歌考」で同じようなどうしょうもない受験生で会うことになる

「イキがったらあかん、ネチョネチョ生きるこっちゃ」
「長いものには巻かれろ 札束には切られろ」


 京都で白タクや風俗嬢のスカウト、すけこましなどでその日その日のしのぎを削っている三人組の愚連隊 ジロー(松方)参謀(荒木)オケラ(広瀬)
持ち前の美貌で女をすけこまして彼らに提供する近藤正臣
そんな彼らを軽蔑している混血児のケン・サンダース
ある日彼らの兄貴分である特攻帰りの戦後闇市派杉山〈天知茂)が出所してくる 
昔の女(宮園純子)は信頼していたかっての仲間と一緒になって「かあさん」している
杉山は彼らと組み大やくざ組織に牙を向き一泡ふかそうと画策する 
そんな連中の計画も一瞬に徒労と化してしまうラスト このラストが「気ちがいピエロ」の終わりに似ていると言われたが中島はヌーベルバーグ映画を一切見てなかった
この「893愚連隊」はその後東映「夜シリーズ」や「不良番長」シリーズ と続いて行く

  この日の監督は「893愚連隊」よりも完成したばかりの「ああ同期の桜」の話ばかりした それもそのはず この映画には彼は特別の思い入れがあった 制作の俊藤さんから「鶴田がやりたいと言っている、これどうや」と渡された海軍飛行予備学生14期会(鶴田は同期だった?)の遺稿集に彼の同級生だった女性のお兄さんの遺稿があり 昔彼女にその遺稿を読ませてもらったことがあったので是非やらせてくださいと直訴した 
しかし本社は「いまさら戦争映画なんて」と反対したが俊藤と中島はかって「聞けわだつみの声」をヒットさせた岡田茂に頼みに行き やっとOKが出た 完成した後も「反戦的過ぎる」とクレームがつき 中島は最後のシーン以外は切ってもいいという条件で妥協する
講演でも言っていたがそのラストシーンは主人公が敵艦船に突入する瞬間にストップモーションとなってエンドマークが入る 「その瞬間まで彼は生きていたんだ」と中島は熱弁をふるった この映画は会社の予想に反して大ヒットした

僕はこの映画よりも次回作「日本暗殺秘録」の方が興味があった

荒木は日活関係者から「日活ニューアクション路線」を始める際 この「893愚連隊」を参考に全員で見たと聞いている

白鷺だより(302)「つまらぬ男と結婚するより一流の男の妾におなり」

2018-03-16 21:29:29 | 読書
「つまらぬ男と結婚するより一流の男の妾におなり」



小学生の頃 学校の近くの空き地に瀟洒な家が建った 当時の市長Kの妾宅だと言われた
Kはこの町で一番大きな旅館を経営しており大相撲や大阪のお笑い芸人を呼んだりと派手な振舞をする男だった その使用人に手を付け子供を産ませた 認知して家を建て住まわせた その子供Tは僕の同級生で 他の子供たちよりちょっとおませだった その彼女が何故か僕のことを気に入ってくれて何度か家に遊びに行った 僕はそこで初めて紅茶なる飲み物を飲んだり 町に何台しかないテレビジョンなるものを初めて見た やがて教育者である両親が知ることになって遊びに行くことあいならぬということになって疎遠となりおませな少女との初恋は終わた・・・・

こんな昔話を思い出したのは元新派女優で晩年は東宝のお芝居に出ていた樋田慶子(当時は緋田景子)さんの「つまらぬ男と結婚するより一流の男の妾におなり」という長ったらしい、かつショッキングなタイトルの本を読んだからである 
緋田景子は梅田コマで上演した東宝の司葉子主演の「紀ノ川」や「一の糸」といったお芝居でご一緒した もちろん「近松心中物語」の初演や山田五十鈴の「たぬき」は観客として見た 魅力のある役者さんだったが その新派時代は全く知らない この本は新橋の老舗料亭「田中家」に生まれた彼女の思い出話が中心とした本でタイトルの由来は祖母千穂が孫である樋田慶子にいつも言い聞かせていた言葉である

それもそのはず 彼女はかの伊藤博文のお妾さんだった人で この本によると 日露戦争直後の頃 大阪の政商藤田伝三郎が伊藤の助力を得たいがため当時大阪の売れっ子芸者小吉に100円を渡し「これで東京見物でもしてこい ついでにさる人に届けて貰いたいものがある 渡してくれるか」と大きな木箱を預けた その相手伊藤博文に届けると「お前この中身を知ってるか」と笑って尋ねた 箱の中にはのしが入っており「この使いの者四、五日お留め置きください」という口上書きが入っていた つまり小吉はのし付きで藤田より伊藤公のもとにさしつかわされたのである この生身の賄賂が功を奏し藤田伝三郎は明治の終わりには男爵にまでなった それから伊藤公の寵愛をうけるようになる小吉が祖母の千穂である

伊藤公は新橋などで遊ぶだけではなく芸者を大磯にある自宅倉浪閣にも呼んで夜伽をさせたという 時には二人呼ぶこともあったらしい 
彼女の回顧録「新橋生活40年」によると倉浪閣へは大阪の芸者文公とよく行ったらしい
夜は交代で御用を務め「今夜は下がって良い」と言われると隣室で休む そのうち鈴が璃々リーンと鳴ると用が終わったのでお前も傍へ来いという合図で伊藤を挟んで三人川の字で寝たという 
伊藤の妻梅子は一切文句を言わず逆に芸者が来ると「御前様は公務で大変忙しいお方だから あなた方に来ていただくのが気休めになるのよ」と言って帰る際には必ず出てきて挨拶をして 反物などのお土産を持たせたという そんな夫婦の間にも二男二女の子供ももうけた

この本はそんな祖母の寵愛を受け育った景子があやうく総理候補岸信介のお妾になるのを嫌がって飛び込んだ演劇の世界での思い出話である
彼女の生と引き換えに死んだ母親 店で働いたお金で通った俳優座養成所時代 花柳章太郎に師事した新派時代 フリーになって活躍した時代(僕らが知っているんはこの時代である)そして結婚した晩年・・・
中でも師匠花柳から聞いた戦争時代の章太郎と山田五十鈴との恋物語「お風呂」~山田五十鈴に寄せる~は秀逸だ
それと樋田慶子と新進演出家松浦竹夫との悲恋物語も哀しい
彼女は60を過ぎてから、年金をもらうようになってから一般男性と結婚するが新派にはお妾家業の女優もいた 
同じ花柳章太郎門下の京塚昌子がそうである

 僕は東芝日曜劇場2000回記念公演の旅で初めてご一緒させてもらって可愛がっていただいた 
気のいいオッカサンというイメージ(本人は嫌がっていた)でとても愛人に店を持たせてもらっているという雰囲気ではなかった 
ある年の劇術祭奨励賞を受賞するなど女優としての地位を確実に高めていっていた頃 パトロンを持った 相手は某自動車会社の重役だった 彼の援助で築地に料亭「京弥」を開店 女優との二足のワラジをはくようになった それとは別にある映画スターとの恋の破局のあと 料亭の女将さんたちとフト立ち寄った新橋のゲイバー「やなぎ」にあししげく通うようになる その店のゲイボーイ駒千代に惚れてしまったのだ 芸者姿で三味線を弾く魅せられたのだ 京塚の舞台にも駒千代は応援団として仲間をつれて芸者姿で見に行った 芸のこやしの為のお遊び ゲイバーに通う詰める京塚のことを仲間はそう見ていたが二人の関係は本物だった 二人してパトロンのところに行き 不義を詫びた 面食らったパトロンだったが京塚の熱意にほだされ許した 「京弥」を処分して出資分をパトロンに返済して銀座で天婦羅屋「京弥」を開き二人で麹町のマンションで同棲する しかし長くは続かなかった 京塚は自らの体型に引け目を持っていた その引け目から周囲に気を遣って陽気に振舞ったり体型なんか気にもしていないというフリをしていた やがて子宮筋腫に侵された京塚を受け止めてやることが出来ず駒千代は身を引いて再び「やなぎ」に戻る やがて京塚も主戦場をテレビに移し昭和43年「肝っ玉かあさん」に主演することになった 
その番組は視聴率30%を超えるオバケ番組になった 彼女の人気は不動のものになり「日本のおかあさん」の理想像となる

そのあとのことである 僕が京塚さんに会ったのは しかしそんな悩みも決してみせることなく「明るいおかあさん」というイメージの人であった 

昭和58年京塚は巡業先で倒れた 11年間の闘病生活の果て 平成6年没 64歳だった その葬儀にはかってテレビドラマで共演した子供役 夫役 孫役などの面々が集まった
「私生活では満たされなかった分 ドラマでは全部演じた 本当のお母さんになれなかったからこそ 優しくて頼りになる肝っ玉かあさんが出来たのだ」

対して樋田慶子こと緋田景子は表舞台から消えたとはいえ健在である