白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(78) 萬屋錦之介のこと

2016-05-31 11:36:44 | 人物
萬屋錦之介

「笛吹童子」「紅孔雀」からのファンで「反逆児」「関の弥太っぺ」「沓掛時次郎・遊侠一匹」[宮本武蔵」などの正統派時代劇から
沢島忠のヌーベルバーグ「森の石松鬼より恐い」や「鮫」「武士道残酷物語」「真田風雲録」などの異色作までほとんど見ている。 
やくざ路線になってからは「日本侠客伝」でいい芝居をしていた。
そんな中村錦之助(そのころは萬屋錦之介と改名)のコマの公演が決まったのはおそらくひばりさんの口添えがあったからと思えるが
一緒に仕事が出来て うれしかった

昭和60年 8月 颯爽萬屋錦之介初公演「御存じ一心太助」

原作 小国秀雄
脚本・演出 福田善之
演出 津村健二
殺陣 上野隆三

長年難しい病気(筋無力症)と闘ってきた萬屋錦之介の復帰第一作 
稽古開始に ひばりさんが激励にやってきた
(ひばりさんはその年の自らの公演に中村信二郎を使い(この信二郎はこのほど萬屋錦之介を継いだ)
そして久しぶりの明治座公演に中村時蔵を相手役に指名というふうに萬屋を盛り立てていた)

それと翌年の次回公演での共演の伏線であった

映画で何度も太助をやっていた錦之介はその江戸っ子ぶりが かっこ良かった
家光との二役早変わりも良かった。
(「江戸の名物男・一心太助」「一心太助・天下の一大事」「一心太助・男の中の男一匹」
「家光と彦佐と一心太助」などなど)

 この公演中 錦之介が甲にしきと出来てしまって(内緒ではなくその大ぴらさで皆が承知の事実だった)
その打ち上げ会場に突然 淡路恵子さんがやってきた・・上座に座った萬屋と当然のようにその横に座っていた甲にしきをジロリと睨んで(その顔の怖かったこと)ニコッと笑って我々に振り返り座長夫人としてのお礼の挨拶をした



昭和61年 ひばり、錦之介のゴールデンコンビ復活 
9月 ひばり 「春秋千姫絵巻」

11月 同 新宿コマ
  なぜか新コマ公演にも呼ばれて張り切って 舞台稽古で大阪城炎上を向こうのスタッフに伝えている時 
もっと燃やせと演出家の罵声 それを聞いていた萬屋
「沢忠、お前もこっちにきてやって見ろ、吉村は一生懸命やってるじゃないか」と反発してくれた。
 揚げ幕の奥でひばりさんが大笑いして拍手した

翌年昭和62年 萬屋は淡路恵子と別れ 甲にしきと再再婚した

白鷺だより(77)「愛のお荷物」その時代

2016-05-30 10:49:31 | 思い出
      「愛のお荷物」その時代
*「再軍備」という言葉が現代的だとおっしゃる皆様へ
映画「わが青春に悔いなし」の滝川事件(昭和8年)の一方の主役であった時の文部大臣は鳩山一郎である。
そのあと帝人事件(同9年)では汚職の嫌疑がかかり辞職する。
時の東条内閣を批判したため軽井沢に隠遁(同18年)
終戦後すぐに上京 日本自由党を結成(同20年)選挙で第一党をとるが(同21年)公職追放の措置を受け(この家の錠造のように)
吉田茂に後を託す また追放解除目前(同26年)脳溢血で倒れる/・・・の不運が続く
自由党 吉田茂 バヤヤロー解散(第五次吉田内閣)
日本民主党結成 総裁 鳩山一郎
第一次鳩山内閣(29年12月10日~30年3月19日)
この内閣が掲げたスローガンが再軍備 それに伴う改憲だった

*ベビーブーム世代小学校入学
 実際この時代に小学校に入った僕たちはその人数の多さに驚いた 
受験、就職、結婚とこの連中と一生シノギを削らなければならないのかと思うとへキヘキした 
この頃の子供の多さを知るにはこの年に封切った「ゴジラ」を見ると判る 
ゴジラが最初に日本上陸した(孤島・大戸島)シーンは三重県鳥羽市石鏡町でロケして
(歌手の鳥羽一郎さんはこの地の出身だ 今度会ったらこのロケのことを聞いてみよう)
多くの町民が逃げ惑うエキストラとして参加したのだがその多くは子供だった
 
ともあれ経済成長が思うように伸びず目の前に迫った人口一億人の民を食わして行くのは至難の業だったのだ

*「お父さんはお人好し」
夕方になるとラジオの前に集まり「新諸国物語・笛吹童子」や「お父さんがお人好し」を聞いていた 
テレビをはじめいわゆる三種の神器が我が家に来るのはまだ先だった 
電気屋さんの前にはプロレスや野球中継を見る人だかりで一杯だった

*使った歌謡曲について
「この世の花」島倉千代子(これがデビュウ作)
「デビー・クロケットの歌」水谷良重(これがデビュウ曲)
「月がとっても青いから」 菅原都々子
「お富さん」     春日八郎
「ゴジラのテーマ」
「若いお巡りさん」   曽根史郎
エルビス・プレスリーのロカビリー

*その他のキーワード

昭和29年

第五福竜丸
死の灰
自衛隊
マリリンモンロー来日
映画 二十四の瞳
   7人の侍
   麗しのサブリナ
   ローマの休日
(ヘップバーンブーム 髪型 サブリナパンツ)

(流行語)スポンサー シャネル5番 ロマンスグレー 人間ドッグ  ワワワー輪が三つ ミツワ石鹸

歌謡曲 愛愁日記
    岸壁の母
    高原列車は行く
    ひばりのマドロスさん

30年

11月 自由党と民主党 保守合同 自由民主党結成 初代総裁 鳩山一郎(55年体制)

(流行)
トランジスタラジオ
ロカビリー
マンボスタイル
クリスチャンディオール
落下傘スタイル
東芝電気釜
アーモンドグリコ

(言葉)
最低ね ノイローゼ  なんと申しましょうか 事実は小説より奇なり エッチ

(歌謡曲)
田舎のバス
娘船頭さん
おんな船頭唄
りんどう峠
別れの一本杉

(映画)
夫婦善哉  (おばはん、たよりにしてまっせ)
力道山物語
じゃんけん娘

白鷺だより(76) 北島公演卒業す

2016-05-29 12:57:21 | 思い出

人生にはどちらかに選ばなければ岐路の時がある

コマの契約を切られた僕はコマの仕事は北島 梅沢だけにして中座など松竹系の仕事が増えていた
その頃から北島公演はそのサブの名前から東西コマで3月6月に公演となった

その年松竹芸能から瀬川瑛子のショウの演出の仕事が舞い込む 
瀬川は「おやじさん」の処に顔を出していたクラウンの社員と結婚していて良く知っていたので引き受けた 
だがその月が6月だった 僕としては北島と新しい「飛天」で冒険したいとおもっていたので迷った

しかし中座公演は演出として名前を出して貰えるので決断し拓克さんに断りを入れた
拓克さんは快く納得してくれて「おやじには挨拶しにこいよ」「これで北島公演は卒業せえや」
「長い間名前も出さずにすまんかったなあ」と言って貰った

その回で20年連続北島公演をやるはずだったが ついにその手前での卒業となった

その19年間の思い出を交えて

僕が初めて北島公演についたのは 北島が10年目で新栄プロから独立して2年目の昭和50年であった
北島の末弟の大野拓克(まだ丸坊主であった)とは年齢が近くすぐ友達になった
後援会長は大阪の加藤さん(ローオンレコード)で可愛がってもらった
また北島の弟であった吉延専務にも目をかけていただいた
バンドリーダーの鈴木操さんや司会の及川洋さんにもかわいがってもらった


(ショウのタイトルは一貫して「北島三郎大いに唄う」である)(  )内はヒット曲
 
昭和50年   7月(短期) 北島三郎 「流れ者」
カルーセル麻紀がゲストで出演 まだモロッコに行く前であった

昭和51年 7月 北島三郎(短期)「暴れ石松」(歩)

昭和52年 「北海の親子星」一か月公演 (終着駅は始発駅)

昭和53年6月 北島公演「浅太郎月夜」(与作)
 この年暴れん坊将軍が開始・・打ち合わせは太秦の撮影所の近くのマンションになった。
 北島の撮影を見てると め組のセットシーンは 衣裳替えのないめ組の面々はそのままで
 入れ替わる監督や 主役の松平健さんは衣裳を着替えて一度に2,3本撮影していた。
 木屋町三条にある「逆鉾」というチャンコ屋さんから届けられた鍋をつつきながらの
 打ち合わせであった

昭和54年 「花の喧嘩纒」

昭和55年「母恋星」(風雪流れ旅)

昭和56年 「北海のはぐれ鳥」 (原譲二脚本演出になる)
  ショウは原譲二構成 大野拓克演出となる
また この年より新コマと梅コマの公演月がサブローにちなんで3月6月になる 二年ごとに入れ替え

昭和57年 「風説流れ旅」(炎の男・日本海)
 ついに高橋竹山の芸道物かと思ったが台本を期待して読むと単なる任侠物だった

昭和58年 「上州あばれ笠」(漁歌)
 このころ「吉村 今度は芝居が勝つぞ」と毎年言っていたが 当然ながら「ショウ」が毎年勝った

昭和59年 「任侠佐渡おけさ」(神奈川水滸伝・まつり)

昭和60年 「ねずみ小僧次郎吉」(激唱 青函トンネル・十九のまつり)

昭和61年 「兄弟仁義」歌手生活25周年 山本譲二参加(北の漁場)

昭和62年 「夕焼け三度笠」(川)
吉村コマとの契約解除 拓克さんは空いているときは「おやじさん」の営業の仕事を回してくれた

昭和63年 「流転笠」(年輪)

平成元年 「無法松の一生」岡田茉利子 (夜汽車)

平成2年  北島公演 「どぶろくの辰」(山)
 前年の無法松の吉岡の坊ちゃん役が 好評で この年は 「どぶろくの辰」の北島の息子役に抜擢された堂本直宏くんが 
「お願いがあるのですか」とやってきた。「この公演で上京して ジャニーズ事務所に入るんです。
思い出に ショウの最後のまつりに出して下さい」子供用の法被を作ってやって まつりに出した。
その年の紅白を見ていたら ジャニーズの先輩の後ろで踊っている彼の姿が見えた・・
次の年堂本光一と組んでキンキキッズとして売り出す 堂本剛の少年時代の話である

平成3年 「清水次郎長」(さぶ)この年から新コマ公演も参加する
 この年歌手生活30周年公演の営業に参加する その舞台稽古の模様は第一興商の「さぶ」のカラオケの映像に残っている
 僕の若き日の姿は1コーラス終わりの間奏で見ることが出来る

平成4年 「男の情炎」

平成5年 「伊那の勘太郎」(この年から梅田コマから劇場飛天になる)

平成6年 瀬川瑛子を連れて飛天に挨拶に行き「瑛子をたのむぞ」と言って貰えた

平成6年 中座  瀬川瑛子オンステージ 
                    浪花に花咲く女の夢(構成・演出)    瀬川瑛子

   この公演と梅コマの北島公演がダブったため 名前を出してもらえるこっちを選び 同じクラウン専属ということで
 「おやじさん」の公演は卒業させていただくべくご本人に瀬川と二人でコマの稽古場にお願いに行った 
  おやじは瑛子を頼むぞと快く許してくれた。
  芝居は滝大作さんの「人生晴れたりきもったり」

平成6年新コマ  オンステージ 心・愛・ありがとう(構成・演出)      
                      松原のぶえ
  その年の新コマの仕事が決まった ショウの原譲二構成 吉村演出 芝居は原譲二 作演出
  元北島のバンドあがりで 当時の のぶえの旦那の棚瀬と組んで 好きなように作ったショウ

  初日のトータル時間が長かったので拓克さんはショウを切れと僕に迫ったが 
  当時のぶえに肩入れしていたママ(北島夫人)が「あら ダメよ ショウは面白いよ」と言ったので
  おやじさんは「わかった 芝居を切ろう」と言ってくれた






白鷺だより(75) 楽屋の女優たち(1)

2016-05-27 11:49:37 | 人物
楽屋の女優たち

平成17年の明治座 「日本橋物語 恋しぐれ」
三田佳子の長谷川時雨 榎本孝明の三上於兎吉 水谷八重子の林芙美子

八重子さんの楽屋で喋っていたら脚本家の大藪郁子が興奮して入って来て
「キチンと肉(肉じゅばん)つけてらっしゃるのね 林芙美子はそうでなくっちゃ 
森光子の芙美子はイメージが違うわ 私はあんな芙美子は嫌いよ、それに比べて八重子さんは・・」
と誉めまくって出て行った。
見送った八重子さんは「何が肉入れてるのよ これ全部本物」とその頃から福よかになり始めた身体をゆすって笑った。


日本橋三越劇場の楽屋で京唄子さんと喋っていたらうつみみどりさんが楽屋見舞いにやってきた 
京さん曰く「ちょっと着替えてます お待ちください」と着替えてドアを開けた。
「どうぞ」
入ってきたうつみさんはそこにボクがいたので驚いたが 知らん顔して入ってきた。
でも心の仲では「この男…何者?」と思ったに違いない
京さんはいつも人前で早変わりばかりやってきたので
昔からボクに見えられてるのも平気だったのだ。

京さんの話をもう一つ 高田美和との会話
まだ「劇団なでしこ」の売れない劇団員だった頃 
当時人気絶頂だった お父さん高田浩吉の下賀茂の家を探し当て 
その庭におむつの翻るのを見た 
「あれ あんたのおむつだったのね」


平成7年新橋演舞場 
松竹新喜劇公演「秋の扇」にゲストで出た淡島千景さんの楽屋でダメ出しをしていたら岩谷時子が入って来て 
辛抱役のお妾さんの芝居を絶賛した。
岩谷さんがお帰りになった後一言
「わたし、こんな女大嫌い!」

 
昭和54年名鉄ホールの「お天道さん みててや」という芝居に出ていた女優の江夏夕子さんは丁度恋人と別れた時でふっきれたのか
主役の野川由美子と四つに組んだいい演技をしていた。
こんな素晴らしい女優がいるのか、と驚いた。 
ある日その恋人である目黒祐樹がやってきてから極端に芝居がおかしくなった。
いわゆる骨抜きになったのである。
それからすぐ二人は婚約した。江夏は女優を辞め 家庭に入ってしまった。
こうしていい女優江夏夕子は消え、幸せな妻 目黒夕子が誕生した


昭和52年 中村玉緒主役の「あかんたれ」という芝居中 客席で野次る客がいたので 場内の子に連絡して注意をするように言うと 
勝新太郎さんですけどいいですか、と言う返事、
俺が行くからと会ったら藤岡重慶と二人で野次っていた。
沢本忠雄の芝居に文句を言いたいという。
終わったらダメだしを・・という案を受け入れ 沢本に掛け合うとそのころの劇団喜劇がやっていた送り出しに参加するという・・
それを聞いた勝新さんはまた怒った・・役者が送り出しとは何じゃ・・間に入った玉緒さんが気の毒で・・

玉緒さんは変な女優さんだ。
そのころ旦那の借金で大変な時であったがとにかくよく喋った、
出番ぎりぎりまで舞台袖で我々と喋り大笑いをして 
舞台に出たら「秀太郎・・」すぐ泣くことが出来た。
ある時楽屋の公衆電話で10円玉を一杯持って競馬のノミ屋に電話していたので聞いているとびっくりするくらいの金額で大勝負していた。
旅に行ってもパチンコ屋が近くにあるホテルをご所望だった。
そういえばお父さんの鴈治郎さんも人間国宝になったら競馬、パチンコができなくなると本気で考えたくらい博打好きであった。
林与一さんはおやじさんの馬券を買いに行かされて競馬を覚えたと言っていた。



白鷺だより(74) 屋根の上のバイオリン弾き

2016-05-25 12:31:16 | 思い出

昭和53年 9月 屋根の上のヴァイオリン弾き

いつもおんぶしてた かわいい小さな子
いつかおおきくなった二人
こんなにきれいになって 立派になったのか
昨日までは小さな子が
陽は昇り また沈み 時移り
喜び悲しみを乗せて流れゆく
 
口には出して言えない 今日の喜びを
やさしく手を取り合って いつまでも
幸せそうな二人 固く結ばれて
いつの日にか 私たちも
陽は昇り また沈み 時移り
やがて朝がくれば 花もすぐ開く

陽は昇 また沈み 時移り
喜び悲しみを 乗せて流れゆく


8月一ヶ月 東京で一からの稽古に参加、ミュージカル作りを教えて貰った作品
この一か月はミュージカルがどのようにして出来 どう作るのかを勉強した

制作 佐藤勉 日本版演出 佐藤浩史 振付 坂上道之助 演出部 増田さん 神谷さん

デヴィエ 森繁、コールデ 淀かほる、長女 江崎英子 次女 倍賞千恵子、三女 松岡由利子 4,5女は子役 
ラビ 益田喜頓、モーテル 富松千代志 パーチック 井上孝雄 ラザ-ル 谷啓、ら 
今から考えても豪華メンバーであった

その頃乃木坂にあった日向企画東京の事務所の電話番しながら一ヶ月やっかいになった
  (秀和デジデンシャルビル)、
毎朝 近所の公園でラジオ体操を続け皆勤賞のノートを貰った。
東京の48度もある銭湯に初めて入った

毎日グラフの見開きに稽古の写真が載り
「金持ちなら」を歌う森繁とテビエハウスを持つ僕とのツーショットだった

ホーデル役は二回目の日生劇場から倍賞千恵子だが(帝劇初演は浜木綿子)
この年(1976)売れないアンサンブルだった小宮守と結婚する
同じミュージカルに売れぬ旦那が一緒だとまずいということになり
小宮はレギュラーアンサンブルから外される
後年小宮と仕事で一緒になったがこの時100万の札束一つ置いて大阪に行ったらしい
残された小宮はその金をほとんど使わなかったという いや使えなかったと言うべきか
けだし倍賞が歌う「愛する我が家 を離れて」は絶品だった
小宮は4年後離婚し のちに健吾と改名する

舞台事務所で電話を取ると「お父ちゃん 呼んでくれる?」という
お父さんというと?と聞くと「森繁のお父さんよ 私いしだあゆみといいます」
ブルーライトヨコハマの歌手と直接話せた

なおこの公演から名物の長いカーテンコールがつけられて 以後このミュージカルの恒例になる
演出補だった梅コマの松島さんがこんな暗い話は大阪では受けないと森繁に言ったため
舞台袖にいた我々も何度も出演者に舞台に引っ張り出された