白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(462)札幌刑務所の歌

2024-07-25 16:28:29 | うた物語
盛り場のスナックあたりでいきがったお兄ちゃんが好んて歌う曲がある
「484のブルース」という曲である
484とは何か、これは札幌刑務所の旧住所が札幌市苗穂町484だったからであり現在は札幌市東区東苗穂2の1の5の1となっている
この曲のモデルは札幌で暴力団同志の抗争で31歳で死んだ伝説の無頼、「雁木のバラ」こと荏原哲夫である こんな歌だ

歌 木立じゅん、松方弘樹、清水節子
作詞・作曲 平田満(松方版は幸斉たかし名義だが同一人物である)

義理や人情にあこがれた
19,20か花だった
ここはその名も雁木町
いきつくところは覺悟のウエで
ままよこの道 おれは行く

すがりつく手を 押し退けて
行かなならない 時もある
男のこの胸 だれが知る
うらんでくれるな かわいい人よ
今宵別れの 苗穂町

石狩平野の 片隅に
こんな男の いたことを
せめて忘れず いて欲しい
世間の奴らに 背中を向けて
俺は一人で 生きていく

B面「情熱の薔薇」の歌詞に

薔薇のイレズミ寂しく撫でて〜とか
あぁバラのイレズミ左の肩に〜

とあるので彼は仇名にちなんでバラの
イレズミをいれていたのがわかる

彼は岡晴夫の「男のエレジー」という歌が
すきでいつもうたっていたという
こんな歌だ

街の灯影に背中を向けて
一人ふかした タバコの苦さ
渡る世間をせばめてすねて
生きる男の身のつらさ
こんなやくざにだれがした

義理や人情の渡世に生きて
酒 とケンカにやつれた命
ほほのキズ跡さびしくなでて
月に語ろうか身の上を
こんなやくざにだれがした

さて東北から北海道にかけて春 の彼岸がくる前に吹く雨嵐のことを『彼岸じゃらく』といってそれがすぎればやっと春 の到来という寒さにたえてきた北国の人々得の表現がある

待ちに待った春の到来を知らせる
彼岸じゃらくの雨に自らをたくす歌、
「じゃらくの雨」もこの札幌刑務所で生まれた
この札幌刑務所は珍らしく男女の 刑務所がある
まずは男 囚版から

すがりつく
親の意見に背を向けて
今日は東に明日は西に
妻の便りもぷっつり途絶え
彼岸じゃらくの
彼岸じゃらくの
雨かふる

いくとせを
すぎて淋しい鉄格子
辛い別れに泣き伏す妻 の
胸の痛みを朱肉に詫し
別離の印
別離の印
指 で押す

想い出は妻に空似のグラビアの
写真みつめて泣きたい夜は
罪をわびつつ瞼の裏に
彼岸じゃらくの
彼岸じゃらくの
雨がふる

もう一つ男囚版

いくとせを いくとせを
過ぎて寂しい待合所
涙に濡れて 向き合う妻と
胸の痛みを 朱肉に染めて
別れの印 指で押す

帰り行く 帰り行く
人の流れに 背を向けて
夜が呼んでる ネオンの街へ
妻の便りも ぷっつり絶えりゃ
彼岸じゃらくの 雨が降る

思い出は 思い出は
妻に空似の グラビアの
写真見つめて 泣きたい夜は
罪を詫びつつ 瞼の裏に
彼岸じゃらくの 雨が降る

次は女囚版だ 北原ミレイが歌っている 彼女が船村徹らと一緒に札幌刑務所に慰問に行って持ち帰ったものだ

ゆうべもあなたの夢を見て
涙で目醒めた寒い朝
会いに戻れぬ 我が身の辛さ
せめて一言詫びる心を
伝えて欲しい じゃらくの雨よ

あなたに残した かわいい子
きっとあなたに似てるでしょう
縞の小窓に 名前を呼べば
せめて冷たい後ろ指から
守って欲しい じゃらくの雨よ

再び笑顔で 会える日を
指折数えて 励みます
生まれ変わった 女になって
あなたの愛に答えてみたい
せめて小さな幸せひとつ
叶えて欲しい じゃらくの雨よ

この曲はYouTube「北原ミレイ じゃらくの雨」で聞けます ぜひ













































白鷺だより(448) 北原白秋の「怖い詩」

2023-08-10 07:24:11 | うた物語

北原白秋の「怖い詩」

 金魚を歌った童謡と云えば

赤いべべ着たかわいい金魚/ お目めを覚ませば御馳走するぞ

赤い金魚はアブクを一つ/昼寝ウトウト夢から醒めた

「金魚の昼寝」という歌が有名だが童謡界の大家北原白秋にも金魚をテーマにした童謡がある その驚く内容の詩を知ったのは30年程前、水谷豊主演の火曜サスペンス劇場「立花陽介地方新聞社通信」の中だった 主人公が発見した死体の側に「金魚を一匹突き殺す」と書いたメモ紙片が落ちていた やがてそれは有名な詩人北原白秋の詩の一節だと判る 

北原白秋(1885〜1942)といえば明治から大正にかけて活躍した詩人、歌人、童謡作家で「からたちの花」をはじめ「ゆりかごのうた」「この道」「待ちぼうけ」「ペチカ」などの童謡を今尚歌われている名作の作者として名前を残している

その彼がこんな怖い詩を残している(アルス社刊「白秋童謡集・とんぼの目玉」収容)   

母さん 母さん どこへ行た 紅い金魚と遊びませう

母さん帰らぬ 寂しいな 金魚を一匹突き殺す

まだまだ帰らぬ くやしいな 金魚を二匹 締め殺す

なぜなぜ帰らぬ ひもじいな 金魚を三匹 捻ぢ殺す

涙がこぼれる 日が暮れる 紅い金魚も死ぬ 死ぬ

母さん こわいよ 眼が光る ピカピカ 金魚の 眼が光る

( 横溝正史ならこの詩の内容通り一人目は突き殺され、二人目は締め殺され、三人目は捻じ殺される連続殺人事件になるのだろうがこのドラマではそうにはならなかった気がする)

案の定、この詩は発表当時、批判を受ける

中でもライバルであった西條八十は

「子供の有する残虐性が何ら批判されることなく、歌われているのは如何なものか、こんな童謡はとてもじゃないが自分の子供に歌わす気にはならない」と批判した

これに対して白秋の反論が見事だ

「ある作家(西條八十)が私の数百編の中の一篇「金魚」をもって不用意にも単なる残虐視し而も私の他の童謡にも累を及ぼすまでの小我見を加えた 私は児童の残虐性そのものを肯定するものではない 然し児童の残虐性そのものはあり得ることである 私の「金魚」に於いても児童が金魚を殺したのは母に対する愛情の具現であった 母親への思慕の念が強く帰らぬ母を待ち続ける寂しさや心細さが増す余り、無力な金魚を次々に殺してしまう この衝動は悪でも醜でもない」

かの詩は童謡として書かれているので当然曲がついている 今聴くと明るい曲調で「実にあっけらかん」に「殺害」がうたわれている

 


白鷺だより(331)克美しげるの「おもいやり」

2018-07-29 12:35:58 | うた物語
克美しげるの「おもいやり」

「さすらい」
泣いてくれるな 流れの星を
   可愛い瞳に   よく似てる
   思い出さすな  さすらい者は
   明日の命も  ままならぬ


 克美しげる(克美茂)は1950年代後半より始まったロカビリー旋風を追い風に ナベプロ所属というバックもありヒットポップスの日本語カバー「霧の中のジョニー」(62年)「片目のジャック」(62年)「さいはての慕情」(62年)「史上最大の作戦のマーチ」(62年)「思い出のサンフランシスコ」(63年)「北京の55日」(64年)などのヒット曲を連発 その後の「エイトマン」(64年)などのアニメソングのヒット 飯田久彦や佐川みつおと同じように歌謡曲でも64年「さすらい」で60万枚の大ヒットを飛ばし 一躍人気スター歌手の仲間入りを果たした 僕ら田舎の少年も「泣いてくれるな~」と歌っていたほどのヒットであった 念願の紅白にも出場出来(65、66年)NHKのドラマ「人形佐曵七捕物帖」の岡っ引き豆八役でレギュラー出演も果たした 
だがこの頃が人気のピークでその後ヒットもなくスターの座から落ちて行く

そんな低迷から脱却をはかるため事務所も変わり(秀和プロ)そこで音楽関係者への接待などで借金1000万を作ってしまう
そんな彼を支えたのは東京青山のスナックで知り合った岡田裕子であった 彼女はもと銀座ホステスでマリ子という源氏名だった 裕子は相手が人気歌手だと知って積極的に近づき克美は二度の結婚と水商売で身に着けた裕子の熟れた肉体に溺れて行った
だが毎月貰う30万の魅力には勝てず 借金を返してもマージャンなどのギャンブルで再び借金を作ってしまう 裕子に貢がせた金でやりたい放題の生活 裕子はクラブでの収入では追い付かずソープランドに出て貢ぎ続けた その金額は合計3500万にも達した

しかし裕子は結婚願望も強かった
克美は二人の結婚写真を撮って彼女の岡山の実家に送ったり ふたりの「愛の巣」のマンションにも克美の本名「津村」の表札を架けていた これに対して克美を知る当時のマネージャーで後に「殺意の演奏」で乱歩賞を受賞したミステリー作家の大谷洋太郎はこういう 「克美は実に思いやりがあった タバコも買いにやらされたこともない 旅館に入れば彼の方がお茶を入れてくれた」ほかに知人もその真面目さ、性格のやさしさを挙げる
それが災いした

1975年 低迷から脱却を図るべく東芝レコードが克美のカムバック企画を実施、芸名表記も「克美茂」に改め 「傷」「おもいやり」で再デビューを果たした この時克美は裕子との不倫が発覚してスキャンダルになることを恐れ裕子の元を離れて妻子と暮らし始めた その結果克美に妻子がいることを裕子に知られてしまい「マスコミに全て話してやる」と克美を攻めた 仕方なく妻子とは別れると誤魔化した
キャンペーンに北海道に旅立つ前日5月6日
「奥さんと別れるなんてウソやろ!いいわ 私が奥さんの所に行ってかたをつけてやる」
裕子はこう言ってわめいた そしてありとあらゆる言葉で僕を罵った 僕はこのとき<今
殺さない限りこの女は黙らないな」と思った 今思うと裕子には裕子なりの願いと言い分があったのだろうが・・・」 そして・・・・

翌7日克美は札幌のキャバレー「エンペラー」のステージ新曲「おもいやり」を熱唱、
土下座して「新人になったつもりでがんばります!」と言ったという こんな詩だ
特に3番はどんな気持ちで歌ったか興味がある

     「おもいやり」  作詞 阿久悠
1 ないてくらすなよ 酒もほどほどに
  やせたりして体を 悪くするじゃない
  せめて別れの握手に 心こめながら
  お前にささやく 胸の内を
  じっときいてくれ
  すねて泣くじゃない
3 五年過ぎたかな ここの愛の巣も
  気づかないでいたけど みんな思い出さ
  大人どうしのくらしに 幕を下ろす時
  お前が行くまでしゃれていたい
  肩で泣くじゃない
  胸で泣くじゃない


翌日の朝、裕子の死体が羽田空港駐車場の彼の車のトランクから発見され栄光への階段はもろくも崩壊した

この曲はボツにするにはあまりにも勿体ないと のちに黒木憲が改めてリリースした


白鷺だより(285)「忠臣蔵」と歌謡曲

2017-12-20 15:37:08 | うた物語
 忠臣蔵と歌謡曲

今月の新橋演舞場は舟木一夫特別公演は昼夜通し狂言で「忠臣蔵」昼・花の巻 夜・雪の巻である 
出演者総勢で96人の公演で100以内に抑えたことを制作のMは自慢していた 
舟木の大石、里見浩太朗の千坂兵部 林与一の吉良、松也の浅野内匠頭 紺野美沙子のりく 長谷川希世の陽成院という配役である

 一方 年末のある日 顔見知りの浪曲評論家芦川淳平(なんと僕と同じく関学経済卒・後輩なのだ)が自ら歌うデイナーショウ「大忠臣蔵」に招待されて参加した 
客席には昔よく通ったスナック「同想会」のお客や通天閣歌謡劇場の歌手たちで一杯だったので久しぶりに旧交を温めることが出来た

12月14日は赤穂義士吉良邸討ち入りの日だ たかが地方の小藩の浪士たちのかたき討ちである それが末代まで語り継がれるのは何故か それは「忠臣蔵」が芦川淳平の言うように日本人の魂のふるさとであるからである 語り継がれる数々のエピソード、 親子、兄弟、夫婦、主従、師弟、友人・・・などなど自らの境遇に重ねて人びとは涙して来た 
事件の翌年から芝居になりやがて「仮名手本忠臣蔵」に結集することになる それはやがて講談となり落語となり浪曲となり歌謡曲となった
今回はその歌謡曲になったエピソードを歌手の歌で綴り大御所天中軒雲月の「雪の南部坂」でしめるという面白い企画だ

国民的歌手と言われた三波春夫が自らの長編歌謡浪曲や講談・地歌などで綴って出した忠臣蔵集大成「大忠臣蔵」に入っている曲のタイトルを並べてみると「序曲」「ああ、松の廊下」「早駕籠は行く」「赤穂城の内蔵助」「赤穂城明け渡し」「大手門下馬先」「山科へ」「山科の判れ・赤穂の妻」「星げしき」「ころは元禄十五年」「神崎東下り」「元禄男の友情・立花左近」「南部坂雪の別れ」「元禄花の兄弟・赤垣源蔵」「その夜の上杉綱憲」「元禄名槍譜・俵星玄番」「「義士討ち入り」「安兵衛武勇伝(むかしばなし)」「元禄桜吹雪・決斗高田の馬場」「大忠臣蔵を結ぶ歌」これですべてを網羅したのである
彼がコマに出ていた時期は丁度「俵星玄番」がヒットしている時であったので背の低い彼が槍を持ち得意げに歌い上げるのをよく聞いたものだ

歌謡曲では覚えているのは同じ浪曲師の真山一郎「刃傷松の廊下」だろう これはヒットした
付き合った歌手の中では瀬川瑛子が「おんなの忠臣蔵」を歌っている 大石りくを主人公にした歌だ
当時アイドル歌手の一人だった舟木一夫はNHK大河ドラマに矢頭右衛門七役でゲスト出演した時「右衛門七討ち入り」を吹き込んだ

最近の歌手では島津亜矢が三波春夫の長編歌謡浪曲をカバーしていて「立花左近」「赤垣源蔵」「俵星玄番」を歌い集大成として「大忠臣蔵」を歌っている
鏡五郎もシリーズで忠臣蔵ものを歌っていて「赤垣源蔵・徳利の判れ」「浅野内匠頭」「天乃屋利兵衛」「大石内蔵助」「忠臣蔵・片岡減五右衛門」「忠臣蔵・堀部安兵衛」などを歌っている
速水映人とよく仕事している小桜舞子も「堀部安兵衛の妻」や「恋の絵図面取り」などを歌っている
売り出し中の三山ひろしも「元禄名槍譜・俵星玄番」を吹き込んでいる

大御所ひばりも「奈良丸くずし」で歌っている
作詞は演歌の祖といわれる添田唖蝉坊だから著作権は切れている

笹や笹笹 笹や笹
大高源五は橋の上
水の流れと人の身は
明日またるる宝船

山と川との合言葉
引かば返さぬ 桑の弓
四十七士が 月雪の
中や命の 捨て所


別の歌詞では

赤の合羽に 饅頭笠
ふりつむ雪も いとわずに
赤垣源蔵は 千鳥足
酒にまぎらす いとまごい

雪の夜中に 陣太鼓
弟の源蔵の 身を案じ
なぜか眠れぬ 与左衛門
同じ血じゃもの 肉じゃもの

四十七士の いさおしが
目出度く主君の 仇を討ち
朝雪ふみしめ 泉岳寺
空も心も 日本晴れ


今回の舞台では三味線の虹友美さんが歌った

ショウの流れだがゲストの歌い手さんの持ち歌コーナーを先に済まして忠臣蔵をラストに持ってきたらどうだろう

(12月18日 ナンバ道頓堀ホテルにて)
 

白鷺だより(252)「マキシーのために」

2017-08-11 10:41:28 | うた物語

    マキシーのために

関西の有名料理人の程一彦さんは関学の先輩(軽音楽部)だが芝居が好きだ 
僕は一度だけ平成13年お付き合いして「忠臣蔵外伝・大阪昆布屋物語」でお手伝いした その時小道具に使う昆布をお借りするため出演していた南条好輝に紹介してもらったのが天満にある老舗昆布屋の女主人だった (おぼろ昆布の削るカンナのような包丁や本物の大きな昆布を初めてみた) 話を伺っていたら後継ぎになるべき長男は東京の大学(早稲田)に進学 一番激しい頃の学生運動を経験して当然のように中退してそのまま東京で放送作家になった 僕も同じ経験がある 違うのはその弟さんは今や売れっ子作詞家の喜多條忠になっていたことだ 

さて読売新聞に連載の「時代の証言者」南こうせつの「青春のフォーク」によると「かぐや姫」時代にキャンペーンに文化放送にいくといつも逢う放送作家がいて これだけ書けるなら歌詞も書けるのでは?とお願いすると書いて来たのが「ピラニアのために」という歌詞だった そう僕には南こうせつがいなかったのだ
彼の友人の全共闘の女闘士をモデルに書いたものだそうだ 
機動隊に食らいついたら離れないので「ピラニア」というニックネームが付いた女性で1969 1・18東大安田講堂で最後まで戦った唯一の女性闘士として有名であった 彼女は釈放後自分たちは大衆に支持もされない存在であったことを悔やんで自殺する 
南によるとレコード会社はピラニアでは売れないと当時流行っていたマキシルックからマキシーに変更したらしいが別の喜多條が書いたものによると変更を命じられ変えるなら好きな浅川マキからマキシーとしたとある 浅川マキ懐かしいなあ
歌詞の中で睡眠薬を大量に飲んで自殺するという描写が放送禁止となり以降 仕方なくライブの楽曲の定番となる

マキシー それがお前のあだ名さ 
マキシー お前は馬鹿な女さ
マキシー 夢を見たことがあったろう
マキシー 二人で金を儲けて
青山にデッカイビルを建てて
おかしな連中 集めて
自由な自由な お城を造ろうと

マキシー 俺今真面目に働いてんだよ
マキシー 風の便りに聞いたけど
マキシー どうして自殺なんかしたのか
マキシー 睡眠薬を百錠も飲んでさ
渋谷まで一人で歩いていって
ネオンの坂道で 倒れたって
馬鹿な奴だったよ お前は最後まで

マキシー 俺は明日旅に出るぜ
マキシー お前のせいじゃないのさ
マキシー お前ほど遠くに行けないが
マキシー 一人旅には変わらないさ
悲しみを抱えたままで
夜空に光るお前の 星を探すまで
さようなら マキシー

そしてこの曲の小ヒットが次回作「神田川」の大ヒットにつながっていく そう喜多条忠は南こうせつが作ったのだ

南の文章の最後には「今でもライブでは人気曲でピラニアさんが自殺する哀しい曲なのにロックビートの激しい曲調に乗って お客は総立ちになります」とある