白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(306)南海通り「波屋書房」

2018-03-30 16:52:29 | 道頓堀界隈
 南海通り「波屋書房」

 今は上六に移った新歌舞伎座が難波にあった頃終演後 梅沢劇団の定宿だったオリエンタルホテル(新歌舞伎でも全員同じホテルの条件だった)に向かう途中の通りにその本屋はあった 梅沢武生座長は必ずそこで出たばかりの「週刊実話」を買うのである
この本屋は僕も馴染みだった 向かって右側の入り口から入ると 話題の大阪芸能ものの単行本、ヤクザ専門書 大衆演劇の雑誌が並び 左側から入ると近所の板前さん用の本格的な料理本が山と並んでいる この店で本を買うとブックカバーを付けてくれる それには馬車に乗った男が読書している絵が掛かれ 隅に「ナンバの波屋書房は辻馬車時代の文学的フランチャイズだった 藤沢桓夫」と書かれている
この絵の作者は大正から昭和にかけて竹久夢二と並んで一世を風靡した美人画家宇崎純一が書いたもので 彼がその昔この店を作ったのである

その頃 高等遊民やディレッタントという言葉が流行り 長谷川幸延の「笑説法善寺の人びと」によると

キャバレー・ドゥ・パノン 宇崎純一、百田宗治、足立源一郎 竹久夢二
カフェ・パウリスタ 宇野浩二 鍋井克久 小出楢重


と入り浸りの店を書かれるようにすでに有名画家の仲間入りをしていた宇崎純一は 丁稚修行も続かずヴァイオリンばかり弾いているディレッタントだった弟の祥二の為に親が食堂を営んでいた中央区千日前南海通りの自宅一階で本屋を開業し弟の生活の糧を保証し自らは画業に専念出来るように目論んだ 東京で竹久夢二が「港屋絵草紙店」という本屋兼出版社を出して自らの絵や絵葉書などのグッズを販売して大当たりしていたのをならったのか「波屋」と名付けて「波屋書房」を開店したのが大正8年 しかし祥二は兄の作品を出版して商売する気はさらさらなく 純一は出版物の装丁や挿絵を描くことに専念した
この本屋に旧制大阪高校の悪童共が集まり 大正14年3月藤澤桓夫が中心となって同人誌「辻馬車」が発行される 同人は藤澤、小野勇、神崎清らで後に武田麟太郎 長沖一 林広次が加入 いつも波屋の奥で編集会議をやっていたが翌年藤沢ら同人が東京帝大に進学 残ったメンバーが当番制で編集をすることになる もちろんその中心には祥二がいた 昭和2年武田麟太郎が編集した頃から社会主義的傾向が強くなり 武田が女性名で書いた文章の内容がアナーキスト達の怒りにふれ編集者であった祥二は自宅の南海岸里付近で襲われそれが元で病床に伏してしまう そのため「辻馬車」はその年終刊となった
 
祥二は昭和4年死去
  
「辻馬車」に象徴されるように波屋書房には文人、画家が集まってさながら文化サロンの様子だったが 純一は祥二が亡くなった後店の経営を番頭の辻本参冶に任せ画業に専念した

その「辻馬車」からは後に作家となる藤沢桓夫 神崎清 武田麟太郎 林広次(秋田実)長沖一らを輩出した 
みな大阪高校から東京帝大に進学した者たちであった

オダサクも旧制中学の頃から「波屋書房」の常連であった
波屋も例にもれず大阪大空襲で焼失してしまう
戦後すぐオダサクは「立ち上がる大阪」(昭和21年)にこう書いた

劇場の前を通り過ぎた途端 名前を呼ばれた 振り向くと三ちゃん(芝本参冶のこと)であった 三ちゃんは波屋書房の主人で私がずっと帳付で新刊書を買うていたのは三ちゃんの店であったし 三ちゃんもまた私の新しい著書が出ると随分いいところに陳列して売ってくれていたし 三ちゃんの店が焼けたことは感慨深いものがあり だから顔を見るなり挨拶もそこそこにそのことを言った
「あんたとこが焼けたので雑誌が手にはいらんようになったよ」
すると三ちゃんは滅相もないという口つきを見せて
「何いうたはりますねん 一遍焼けたくらいで本屋辞めますかいな 今親戚とこへ疎開してまっけど また大阪市内で本屋しまっさかい雑誌買いに来とくなはれや」
と三ちゃんは捲土重来の意気込みであった そして私を励ますように
「織田はん、また夫婦善哉書きなはれ」と言った


また藤澤桓夫も

難波の波屋はどうなっているんだろうと思って波屋に行ってみたんです するとあのあたりは焼け野原で波屋の前で芝本君が金物屋をやっていた 金物といっても新しいものはなにもなくおそらくその辺で拾い集めたものを売っているという それから一か月ほどしてバラック建ての波屋が出来てました 本なんて殆ど並んでなく 焼け残った処から集めた本ばかりでした それから三か月くらいしたらちゃんとした本屋になってました 大阪商人の根性は見事で とにかく千日前界隈で一番早く復興したのは「波屋」だったと思う

と書いている

戦後宇崎純一の名前は竹久夢二のように復活はしなかったが 昭和29年 65歳で人生の幕を閉じた
芝本参冶も「波屋」を再興させて昭和43年 亡くなった
僕らが知っているご主人はその息子さんの芝本尚朋さんであろう 
現在もますますお元気でナンバの中心地で店を守っている

白鷺だより(304)四ツ橋電気科学館

2018-03-24 11:12:10 | 道頓堀界隈
四ツ橋電気科学館

その昔 大阪での修学旅行の定番は通天閣と天王寺動物園とここ四ツ橋電気科学館とであった 僕はその前 朝日新聞の新聞配達少年の招待の大阪見物の時にも電気科学館に来ているから最低二回は来ていることになる
いや修学旅行生だけではなく 市民だったら一度は訪れたであろう大阪が誇る名所だった

大正12年(1923)大阪市は大阪電灯株式会社を買収して市内の電気供給を市が管理することとなった
大阪市は電気機器や電灯の普及を目指して九条に設置されていた局所内に 電気に関する基礎知識を紹介する「電気普及館」とすぐれた照明や電気器具を訂正価格で委託販売する「市電の店」を設立した
このように継続的に電気の普及に努めていた大阪市は電灯市営10周年を記念して さらに充実したサービスを提供できる施設の構想を練り始めた 当初は電気の普及や啓発を目的にしていたが市民の注目を集めるべく美容院や大衆浴場さらにスケートリンクを備えた施設にするつもりで建設を始めた だが外遊中だった木津谷栄三郎電灯部長が帰国し 彼の提案で当時世界で24台しかないドイツ カール・ツァイス社製プラネタリウムを導入することが決定 
昭和12年(1937)6階を「天象館」2~5階を「電力電熱館」や「照明館」などの展示場にあてる「電気科学館」が完成した

日本で最初の「科学館」と称した建物だった 
電気をアピールするため夜間は電光文字が輝きライトアップもされた 
戦時中は塔屋の最上階は「防空監視施設」として活用された

この建物は激しい大阪空襲にも耐え 心斎橋のそごう(これは米軍に接収されPXとして使われた)とともに焼け跡にスクッと立つ建物として終戦後が舞台の芝居のバックによく描かれていた

平成元年(1989)閉館するまでこの地に立ち続け 現在は中之島に新しく建てられた「市立科学館」(1989 10月オープン)にもプラネタリウムが導入され 昔の精神を引き継がれている

さてこのプラネタリウムを舞台にしたオダサク(織田作之助)の名作がある
昭和31年 川島雄三によって映画化された「わが町」がそれだ 
明治末期日本人工夫としてフィリピンのベンゲット道路建設工事を完成させたことが唯一の自慢で何かというと「わいはベンゲットの他ァやんや わいがこさえたベンゲット道路見てこんかい」と切り出す人力車夫佐渡島他吉(辰巳柳太郎」
そこで彼が見た南十字星の美しさが生涯の自慢だ
帰国して大阪の「貧乏たらしい古手ぬぐいのように無気力な、しかし他吉にとって生まれ育ったなつかしいわが町 河童(がたろ)路地」に戻って来る そうここはあの「夫婦善哉」の舞台と同じ オダサクも生まれ育った場所だ
そこでフィリピンに行く前に一夜限りの契りを結んだお鶴と再会するが彼女は唯一の子供を残して死んでしまう 他吉は残された娘 初枝を人力車夫をしながら男手一つで育て上げる その初枝の婿の新太郎をけしかけてフィリピンに行かすが彼の地で客死してしまう
やがて初枝も孫の君枝(南田二役)を残して死んでしまう 
明治 大正 昭和と「身体をせめて せいだい働かなあかん」と人力を引いて来た他吉もやがて病気に倒れる

原作の「わが町」で他吉の最後をオダサクはこう書いている

・・・四ツ橋電気科学館の星の劇場でプラネタリウムの「南の空」の実演が終わり場内がパッと明るくなって ひとびとの退場してしまったあと 未だ隅の席にぐんなりした姿勢で残っている白い上衣の男があった よくある例で星を見ながら夜と勘違いして居眠っているのかと係員が寄って行って揺り動かしたが動かず死んでいた 
「四ツ橋のプラネタリウムに行けば南十字星が見られる」と〆団冶から話を聴いて いつのまにか君枝や次郎の目を盗んで寝床を抜け出してきていたのか それは他吉であった


僕はこの映画の記憶はないが 何年か後に森繁が舞台化した「佐渡島他吉の生涯」は見た
とん平さんがバクチで二度目に捕まった時丁度森繁さん座長の芝居だった
残り休演のお詫びに行くと「しょうがないな、ゆっくり休めよ、いいかこの時期こそ金使えよ」と言われた
謹慎後 とん平さんの復帰作はこの「佐渡島他吉の生涯」だった
「お前があんなにうまい役者だとは思わなかった」と森繁
これが自信になった

白鷺だより(301)道頓堀界隈(6)「曾我廼家喜劇発祥之地」碑

2018-03-11 20:11:40 | 道頓堀界隈
道頓堀界隈(6)「曾我廼家喜劇発祥之地」碑



 昭和50年2月11日 道頓堀の中座前に御影石の喜劇碑が建立された

碑の正面には上方歌舞伎の中村鴈治郎(現坂田藤十郎)の筆で「曾我廼家喜劇発祥之地」と刻んであり その両脇に曾我廼家五郎、十郎の名が書かれている つまりこの日から数えてちょうど70年前の明治37年2月11日に道頓堀の浪花座で曾我廼家五郎、十郎が「新喜劇曾我廼家兄弟劇」と銘打って喜劇興行を旗揚げしたのだ

そのことを碑の側面に

 明治三十七年二月十一日 曾我廼家五郎十郎この地に喜劇旗上げてより中島楽翁、初代渋谷天外、時田一瓢、田宮貞楽、志賀廼家淡海、曾我廼家十吾 二代目渋谷天外など それぞれの志を継ぐこと七十年に亘りました ここにその歴史を偲んで一碑を建立し 併せて先人の名を高野山常喜院に収め追慕の志と致します

             昭和五十年二月十一日 藤山寛美
楽天会
    瓢々会
    喜楽会
    滋賀廼家淡海劇
    松竹家庭劇
    松竹新喜劇

と刻んである

この文章で判るように この碑は松竹新喜劇の藤山寛美が多くの喜劇界の先達に感謝と追慕の念を表すために松竹をはじめ関係者を口説いて この日の建立に漕ぎつけたのである
それだけに当然 除幕に際して藤山寛美からいろいろ挨拶があるものと取材陣が詰めかけたが 香川登志緒さんによると 彼はこの日一言もしゃべらず除幕も曾我廼家所縁の十吾未亡人や曾我廼家明蝶、曾我廼家五郎八そして東京から駆け付けた往年の五郎劇の名女形曾我廼家桃蝶
(そのころ新派女優京塚昌子が経営する築地割烹「京弥」を手伝っていた)などにゆだねて自分はニコニコ笑って静かに拍手を送っていたという
自分は喜劇の伝統を守ってはいるが新派出身のよそ者という意識がどこかにあったのではなかろうか 
それゆえ何年か後(昭和57年)自分の有望な弟子たちに曾我廼家姓の襲名をさせた
八十吉、寛太郎、玉太呂がそうである

この頃の新喜劇と同じように五郎劇も年に一度新橋演舞場公演をやっていた
東京の人たちは待ちかねたように演舞場に押し寄せた
この五郎先生は昭和23年 喉頭ガンで亡くなった
最後の舞台は無言劇であった
その年に生まれたのが現在の松竹新喜劇である
なんと僕もその年に生まれた ということは新喜劇も70歳ということだ)
 
この碑は本来なる浪花座前に建てるべきだったが正統後継者たる「松竹新喜劇」のホームグラウンドだった中座前にたつことになった 
現在は1999年 中座が閉鎖になったため大阪松竹座前に移設された
中座ではほぼ半年「新喜劇」を公演していたが 松竹座でも最低3月は公演してもらいたいものだ 
年に一度の新橋演舞場の公演も今年は短期公演となったという

白鷺だより(274)道頓堀界隈(5)アラビヤ珈琲

2017-10-28 08:16:50 | 道頓堀界隈
  道頓堀界隈(5)「アラビヤ珈琲」



旧中座の楽屋口を出て少し南に下がると法善寺の正面に出る そこを右に曲がって戎橋筋の方に少し行くと「アラビヤ珈琲」だ 表には焙煎機の上にターバンを巻いたアラビア人の絵の描いた珈琲カップが乗っている看板が目印だ よく見ると店の名前がアラビアではなくアラビヤだ まだ浪花座の上にあった松竹関西演劇部や松竹座の地下にあった松竹芸能からも近く打ち合わせといえばここに集まった コーヒーを飲むだけだったらカウンターの横の小さなテーブル席 打ち合わせなら一番奥の広いテーブル席だった

1951年 創業 元エリート将校だった高岡光明さんが25歳の時にこの地で開業
同じ通りに十軒も並んでいた珈琲ブームの頃 当時は濃いコーヒーが全盛期で店の味を「薄い!」と文句を言う客が多かったが絶対に譲らなかったので喧嘩もしたらしい
彼は木彫りも得意で看板や「珈琲で乾杯」と題した親子三人の働く姿を掘った作品も壁に掛かっていた あとメニューも次の文章も全て木彫り文字だ そこには
「朝の目覚めに飲む珈琲のおいしさは楽しい一日の希望をいだかせてくれます
 昼のコーヒーブレイクに飲む一杯のおいしさは仕事の疲れをいやしてくれます」


もっと凄い話題はたまに店に顔を出す先代の奥さん(峰子さん)が日本初の女子プロ野球のスター選手であったというものだ
1950年に開幕した女子プロ野球大阪ダイヤモンドので捕手や一塁手の人気選手 しかしリーグはわずか二年で消滅 
光明さんがそごうのデパートガールでもあった彼女を毎日通いつめとうとう落としたらしい
峰子さんのモットーは「いい球が来たら必ず勝負すると決めて実戦してきた 人生もチャンスが来たら迷わず挑戦しなきゃあ」だ

ときおり中座の歌舞伎の出し物の合間だろうか有名な歌舞伎役者が珈琲を飲んでいるのに出くわした 今は亡き三津五郎もまだ八十助時代からその一人だった

在りし日の三津五郎の「アラビヤ珈琲50周年のお祝い」の文章

「君、アラビヤコーヒーを知ってるかい?」
「いや 知りません」
「そうかい、あそこのコーヒーとアラビヤサンドはおいしいよー」
と 中村富十郎先輩から教わったのはもう二十年以上も前のことです
それからというもの大阪公演での朝食は毎日「アラビヤ珈琲店」ということになりました
ちょっと怖そうなお父さんが実はすごくいい人で怖そうに見えたのはコーヒーへのこだわりの強さだと分ったり 
長男の明郎さんが同じ年で僕と同じく野球好きでたちまち意気投合し よく早朝野球をやったりしたのも懐かしい思い出です
今のミナミはすっかり落ち着きのない街になってしまいましたが 
お父さんのようにこだわりとプライドを持ったユニークな人たちが沢山いる面白い街でありました
二十一世紀を迎えた今年 アラビヤコーヒーは50周年 私は十代目三津五郎襲名と お互い節目の年になりました お父さんが一代で築き上げ手塩にかけ 愛情のすべてを賭けて守り抜いた店であることを誰よりも一番強く知っているのは明郎君です そんなお父さんの遺志を受け継ぎながら今度は自分が当主としてこれからの店を切り盛りしていかなければいけないそのプレッシャーは同じく当主になりたての私には痛いほど理解できます
不惑を超え 離婚を経験し 親を亡くし 何だか似たような人生を過ごしてきましたので今では自分の分身のような深い友情を抱いています
これから彼が淹れる一杯のコーヒーにはきっと今までにない深い味わいが増すことでしょう そのコーヒーと共に彼自身の人生を重ねて 末永くお付き合いしていきたいと思っています
 
    2001 十代目 坂東三津五郎


(注) お父さんの光明さんは1999年死去
同じ年 九代目坂東三津五郎死去
この記事を書いた十代目坂東三津五郎(2001年襲名)も2015年2月21日亡くなった

白鷺だより(244)「二つ井戸」界隈

2017-06-21 13:27:31 | 道頓堀界隈
        二つ井戸 



 昔 御堂筋が今ほど広くなく地下鉄もなかった時代は堺筋が北(梅田)に行く幹線道路だったので 日本橋辺りが北(梅田)向きの市電の発着場であり 市電の日本橋駅あたりの近辺、「二つ井戸」あたりは大いに栄えた盛り場だったという

東京から来た新派の役者も歌舞伎役者もここ日本橋で降りて道頓堀にやってきた
一方ミナミの人びとは東京に行くには市電に乗り梅田に出て東京へと向かった

「夫婦善哉」の柳吉が素人義太夫大会で「大十」を唸って2等賞の賞品の座布団を貰った古本屋の「天牛」(戦中焼け出され戦後は道頓堀中座前に移る・我々がよく通った天牛はこの店である)があったり 柳吉が蝶子から「おばはん小遣い足らんぜ」とせびって通い「僕と共鳴せえへんか」と口説いた「お兄ちゃん」なる安カフェもあり そして二人の愛の結晶?である「サロン蝶柳」を開いたのもこの界隈である 
現在も道頓堀一丁目東という地名が残っている通り 昔はこの辺りまで「道頓堀」であったのだ

近年 国立文楽劇場の前に「二つ井戸」が復元され その由来が書かれている
二つ井戸は当初道頓堀の東堀止めにあり ご多分に漏れず空海上人が掘り当てたという
二つ並んで掘られた井戸は珍しく寛政8年の「摂津名所絵図」にはその一つに選ばれ「清水にしてこの辺りの民家の用水とす」と記載されている 当時この辺りは高津五右衛門町と呼ばれ「銭屋」があり寛永通宝などの貨幣がこの井戸の水で鋳造された
明治時代になり井戸がこの辺りの都市計画の道路拡張で撤去されることを惜しんだ粟おこし屋「津の清」の当主が払い下げを受け店頭に移設した その井戸に因んでこの辺りを「二つ井戸町」と改称した 第二次大戦末期この辺りは激しい空襲を受け 御影石の井戸枠はボロビロとなり修復不可能となった その後昭和27年「津の清」が店を昔あった清津橋のたもとに移籍した時に復元された 三度も場所を変えた「二つ井戸」はその後も大阪の町の人に愛されながらも平成12年「津の清」が堺に本店を変えた時点で姿を消しました
それから12年後銘板と標柱が見つかったのを期に由緒ある井戸を後世に残そうとこの地に再移籍し復元した

「津の清」で思い出したが最近もお世話になっている真田実が役者になって「ヤンクにっぽん」という剣劇漫談トリオの残り二人が「パート2」と名乗っての漫才コンビが出来た
出てきていきなり「今日はまことにありがとう(あ、ヨイショ)岩おこし(そりゃ)粟おこし(あ、どっこい)ようおこし」と挨拶するツカミでチョットだけ売れた

我々が子供の頃大阪土産と言えば「おこし」で有名なメーカーとして「あみだ池・大黒」「二つ井戸・津の清」「梅仙堂・てんぐ」などがあった
土産でよく買ったのは「あみだ池・大黒」で初めて大阪に来た新聞少年の社会見学に潜り込んで来たときもこれがお土産だった 梅仙堂は梅コマから梅田場外馬券場に行く途中にありその甘ったるい匂いは数々のレースと共に今も思い出す

「二つ井戸」の川向うに(北側)大きな旅館「大野屋」があった たしか作家の松井今朝子の母親の実家だと思うが倒産の憂き目を遭い今は大きなマンションになり果てている

文楽劇場から道頓堀川までの間は小さいマンションの密集地帯だ 一時AVのCDを買いにこの辺りを歩いた 指定の公衆電話から電話した どこかのマンションのカーテンの陰からその姿を見ているのであろう この辺りは意外に用心深かった ようやくOKが出て目の前のマンションに入った 

「夫婦善哉」の夫婦は黒門の折詰め屋の二階を間借りしていた
そこから嫁の目と金を盗み遊びに来るには「二つ井戸」はちょうどいい距離であった

たまには「二つ井戸辺り」を歩いてみようと思う
柳吉のような遊び人に出くわすかも知れない