南海通り「波屋書房」
今は上六に移った新歌舞伎座が難波にあった頃終演後 梅沢劇団の定宿だったオリエンタルホテル(新歌舞伎でも全員同じホテルの条件だった)に向かう途中の通りにその本屋はあった 梅沢武生座長は必ずそこで出たばかりの「週刊実話」を買うのである
この本屋は僕も馴染みだった 向かって右側の入り口から入ると 話題の大阪芸能ものの単行本、ヤクザ専門書 大衆演劇の雑誌が並び 左側から入ると近所の板前さん用の本格的な料理本が山と並んでいる この店で本を買うとブックカバーを付けてくれる それには馬車に乗った男が読書している絵が掛かれ 隅に「ナンバの波屋書房は辻馬車時代の文学的フランチャイズだった 藤沢桓夫」と書かれている
この絵の作者は大正から昭和にかけて竹久夢二と並んで一世を風靡した美人画家宇崎純一が書いたもので 彼がその昔この店を作ったのである
その頃 高等遊民やディレッタントという言葉が流行り 長谷川幸延の「笑説法善寺の人びと」によると
キャバレー・ドゥ・パノン 宇崎純一、百田宗治、足立源一郎 竹久夢二
カフェ・パウリスタ 宇野浩二 鍋井克久 小出楢重
と入り浸りの店を書かれるようにすでに有名画家の仲間入りをしていた宇崎純一は 丁稚修行も続かずヴァイオリンばかり弾いているディレッタントだった弟の祥二の為に親が食堂を営んでいた中央区千日前南海通りの自宅一階で本屋を開業し弟の生活の糧を保証し自らは画業に専念出来るように目論んだ 東京で竹久夢二が「港屋絵草紙店」という本屋兼出版社を出して自らの絵や絵葉書などのグッズを販売して大当たりしていたのをならったのか「波屋」と名付けて「波屋書房」を開店したのが大正8年 しかし祥二は兄の作品を出版して商売する気はさらさらなく 純一は出版物の装丁や挿絵を描くことに専念した
この本屋に旧制大阪高校の悪童共が集まり 大正14年3月藤澤桓夫が中心となって同人誌「辻馬車」が発行される 同人は藤澤、小野勇、神崎清らで後に武田麟太郎 長沖一 林広次が加入 いつも波屋の奥で編集会議をやっていたが翌年藤沢ら同人が東京帝大に進学 残ったメンバーが当番制で編集をすることになる もちろんその中心には祥二がいた 昭和2年武田麟太郎が編集した頃から社会主義的傾向が強くなり 武田が女性名で書いた文章の内容がアナーキスト達の怒りにふれ編集者であった祥二は自宅の南海岸里付近で襲われそれが元で病床に伏してしまう そのため「辻馬車」はその年終刊となった
祥二は昭和4年死去
「辻馬車」に象徴されるように波屋書房には文人、画家が集まってさながら文化サロンの様子だったが 純一は祥二が亡くなった後店の経営を番頭の辻本参冶に任せ画業に専念した
その「辻馬車」からは後に作家となる藤沢桓夫 神崎清 武田麟太郎 林広次(秋田実)長沖一らを輩出した
みな大阪高校から東京帝大に進学した者たちであった
オダサクも旧制中学の頃から「波屋書房」の常連であった
波屋も例にもれず大阪大空襲で焼失してしまう
戦後すぐオダサクは「立ち上がる大阪」(昭和21年)にこう書いた
劇場の前を通り過ぎた途端 名前を呼ばれた 振り向くと三ちゃん(芝本参冶のこと)であった 三ちゃんは波屋書房の主人で私がずっと帳付で新刊書を買うていたのは三ちゃんの店であったし 三ちゃんもまた私の新しい著書が出ると随分いいところに陳列して売ってくれていたし 三ちゃんの店が焼けたことは感慨深いものがあり だから顔を見るなり挨拶もそこそこにそのことを言った
「あんたとこが焼けたので雑誌が手にはいらんようになったよ」
すると三ちゃんは滅相もないという口つきを見せて
「何いうたはりますねん 一遍焼けたくらいで本屋辞めますかいな 今親戚とこへ疎開してまっけど また大阪市内で本屋しまっさかい雑誌買いに来とくなはれや」
と三ちゃんは捲土重来の意気込みであった そして私を励ますように
「織田はん、また夫婦善哉書きなはれ」と言った
また藤澤桓夫も
難波の波屋はどうなっているんだろうと思って波屋に行ってみたんです するとあのあたりは焼け野原で波屋の前で芝本君が金物屋をやっていた 金物といっても新しいものはなにもなくおそらくその辺で拾い集めたものを売っているという それから一か月ほどしてバラック建ての波屋が出来てました 本なんて殆ど並んでなく 焼け残った処から集めた本ばかりでした それから三か月くらいしたらちゃんとした本屋になってました 大阪商人の根性は見事で とにかく千日前界隈で一番早く復興したのは「波屋」だったと思う
と書いている
戦後宇崎純一の名前は竹久夢二のように復活はしなかったが 昭和29年 65歳で人生の幕を閉じた
芝本参冶も「波屋」を再興させて昭和43年 亡くなった
僕らが知っているご主人はその息子さんの芝本尚朋さんであろう
現在もますますお元気でナンバの中心地で店を守っている
今は上六に移った新歌舞伎座が難波にあった頃終演後 梅沢劇団の定宿だったオリエンタルホテル(新歌舞伎でも全員同じホテルの条件だった)に向かう途中の通りにその本屋はあった 梅沢武生座長は必ずそこで出たばかりの「週刊実話」を買うのである
この本屋は僕も馴染みだった 向かって右側の入り口から入ると 話題の大阪芸能ものの単行本、ヤクザ専門書 大衆演劇の雑誌が並び 左側から入ると近所の板前さん用の本格的な料理本が山と並んでいる この店で本を買うとブックカバーを付けてくれる それには馬車に乗った男が読書している絵が掛かれ 隅に「ナンバの波屋書房は辻馬車時代の文学的フランチャイズだった 藤沢桓夫」と書かれている
この絵の作者は大正から昭和にかけて竹久夢二と並んで一世を風靡した美人画家宇崎純一が書いたもので 彼がその昔この店を作ったのである
その頃 高等遊民やディレッタントという言葉が流行り 長谷川幸延の「笑説法善寺の人びと」によると
キャバレー・ドゥ・パノン 宇崎純一、百田宗治、足立源一郎 竹久夢二
カフェ・パウリスタ 宇野浩二 鍋井克久 小出楢重
と入り浸りの店を書かれるようにすでに有名画家の仲間入りをしていた宇崎純一は 丁稚修行も続かずヴァイオリンばかり弾いているディレッタントだった弟の祥二の為に親が食堂を営んでいた中央区千日前南海通りの自宅一階で本屋を開業し弟の生活の糧を保証し自らは画業に専念出来るように目論んだ 東京で竹久夢二が「港屋絵草紙店」という本屋兼出版社を出して自らの絵や絵葉書などのグッズを販売して大当たりしていたのをならったのか「波屋」と名付けて「波屋書房」を開店したのが大正8年 しかし祥二は兄の作品を出版して商売する気はさらさらなく 純一は出版物の装丁や挿絵を描くことに専念した
この本屋に旧制大阪高校の悪童共が集まり 大正14年3月藤澤桓夫が中心となって同人誌「辻馬車」が発行される 同人は藤澤、小野勇、神崎清らで後に武田麟太郎 長沖一 林広次が加入 いつも波屋の奥で編集会議をやっていたが翌年藤沢ら同人が東京帝大に進学 残ったメンバーが当番制で編集をすることになる もちろんその中心には祥二がいた 昭和2年武田麟太郎が編集した頃から社会主義的傾向が強くなり 武田が女性名で書いた文章の内容がアナーキスト達の怒りにふれ編集者であった祥二は自宅の南海岸里付近で襲われそれが元で病床に伏してしまう そのため「辻馬車」はその年終刊となった
祥二は昭和4年死去
「辻馬車」に象徴されるように波屋書房には文人、画家が集まってさながら文化サロンの様子だったが 純一は祥二が亡くなった後店の経営を番頭の辻本参冶に任せ画業に専念した
その「辻馬車」からは後に作家となる藤沢桓夫 神崎清 武田麟太郎 林広次(秋田実)長沖一らを輩出した
みな大阪高校から東京帝大に進学した者たちであった
オダサクも旧制中学の頃から「波屋書房」の常連であった
波屋も例にもれず大阪大空襲で焼失してしまう
戦後すぐオダサクは「立ち上がる大阪」(昭和21年)にこう書いた
劇場の前を通り過ぎた途端 名前を呼ばれた 振り向くと三ちゃん(芝本参冶のこと)であった 三ちゃんは波屋書房の主人で私がずっと帳付で新刊書を買うていたのは三ちゃんの店であったし 三ちゃんもまた私の新しい著書が出ると随分いいところに陳列して売ってくれていたし 三ちゃんの店が焼けたことは感慨深いものがあり だから顔を見るなり挨拶もそこそこにそのことを言った
「あんたとこが焼けたので雑誌が手にはいらんようになったよ」
すると三ちゃんは滅相もないという口つきを見せて
「何いうたはりますねん 一遍焼けたくらいで本屋辞めますかいな 今親戚とこへ疎開してまっけど また大阪市内で本屋しまっさかい雑誌買いに来とくなはれや」
と三ちゃんは捲土重来の意気込みであった そして私を励ますように
「織田はん、また夫婦善哉書きなはれ」と言った
また藤澤桓夫も
難波の波屋はどうなっているんだろうと思って波屋に行ってみたんです するとあのあたりは焼け野原で波屋の前で芝本君が金物屋をやっていた 金物といっても新しいものはなにもなくおそらくその辺で拾い集めたものを売っているという それから一か月ほどしてバラック建ての波屋が出来てました 本なんて殆ど並んでなく 焼け残った処から集めた本ばかりでした それから三か月くらいしたらちゃんとした本屋になってました 大阪商人の根性は見事で とにかく千日前界隈で一番早く復興したのは「波屋」だったと思う
と書いている
戦後宇崎純一の名前は竹久夢二のように復活はしなかったが 昭和29年 65歳で人生の幕を閉じた
芝本参冶も「波屋」を再興させて昭和43年 亡くなった
僕らが知っているご主人はその息子さんの芝本尚朋さんであろう
現在もますますお元気でナンバの中心地で店を守っている