白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(442) 松竹新喜劇「花ざくろ」のこと

2023-05-26 09:41:17 | 松竹新喜劇

松竹新喜劇「花ざくろ」のこと

 この「花ざくろ」は5月の上演に相応しい作品である 

その舞台のイメージは紫陽花が満開に咲いていて花棚には今が盛りの花々が並んでいる たまの晴れ間を利用して陽に当てようと縁側に「花ざくろ」の鉢が並んでいる 三次郎の部屋の中には直射日光を遮らなければならない花の鉢が並んでいる 今にも降りそうな雲が動くたびに明るくなったり暗くなったり

僕が75歳だから同じ歳の新喜劇も創立75周年を迎える 天外が代表を去り 扇治郎、天笑、曾我迺家一蝶、いろは、桃太郎の若手五人が中心となって再スタートする、その第一弾が「花ざくろ」(斎藤雅文演出)「三味線に惚れたはなし」(川浪ナミヲ演出)で始まった 「花ざくろ」、結局セットは初演の高須文七さんの踏襲であった せめてセットだけでも新しくして欲しかった

 花柘榴は八重の園芸品種で普通の柘榴とは違って実は実らない 女としての花はあるも植木職人の嫁としての立ち位置を定められない加代はあだばなであり しかもその枝には大きなトゲがある 不作の木と周囲から蔑まれようとも三次郎は決してカヨを見放さない

花ざくろ(館直志作 斎藤雅文演出)

 植木職人三次郎は仕事熱心で実直な男で 園主高橋にも見込まれ園の離れに世帯を持ちました しかし女房の加代は優し過ぎる三次郎に飽き足らず家をないがしろにして浮気に走ります 周りの人達は心配していますが三次郎本人は加代を責める様子はないようです しかし、ある出来事で三次郎が初めて怒りを言葉にします 周りの人も植物も同じように慈しむ心優しい三次郎と器用に生きられない加代の二人の元に 皐月の雨は優しく降るのでしょうか?

初演は昭和39年5月中座 三次郎 藤山寛美 加代 曾我迺家鶴蝶     高橋 天外 その嫁 酒井光子 平井 小島慶四郎

その7月には新橋演舞場で再演 

ところが翌年10月南座にて天外倒れる 

    41年1月 ミヤコ蝶々 南都雄二 ゲスト加入

      3月 寛美 暴力団との交際発覚

      4月 寛美除籍

      5月 蝶々、雄二、五郎八、千葉蝶、秀哉、中川でスタート      

         小島慶四郎退団

      7月 蝶々、雄二 退団 

      8月 五郎八、中村あやめ、星四郎(文芸部)退団

      9月 金田龍之介加入

     10月 曾我迺家明蝶加入

この10月南座で「花ざくろ」再演 

三次郎 金田龍之介 加代 曾我迺家鶴蝶 高橋 天外、その嫁 酒井光子     はな寛太こと西村一文が運送人役で出ている(元文芸部)

しかしこの公演中、密かに寛美復帰作戦は進行していた そして翌月11月中座にて寛美復帰そこから怒涛の244ヶ月連続無休興行がはじまる

この作品が寛美の元に帰ってきたのは昭和42年中座であった その時の平井は小島慶四郎であった 

「こんな枝付の悪い女ですけど、わしがうまく刈り込みますから」

未来に向かってスタートを切った新喜劇であるが ハッキリ言って失敗である五人の若手役者から扇治郎を外すべきである いつまでも寛美の孫では商売にもならない 孫がおじいちゃんの真似事をする、そんなものが誰か観るか

客席の寂しさは役者の責任では無い 

3人の新曾我迺家のうち いろはは伸びる可能性がみえる

もう一本の「三味線に惚れたはなし」は竹本をもっと活躍させねば 寛太郎を前に出し過ぎです 八十吉があんな役で我慢してるのに


白鷺だより(441) 田中弘史さんを偲ぶ会

2023-05-18 17:14:39 | 梅沢劇団

田中弘史さんを偲ぶ会

 昨年の6月に亡くなったのに時代はコロナ禍の真っ最中お葬式は勿論さようなら会すら開ける状況ではなく長らく延期されていた田中弘史さんを偲ぶ会が5月12日梅田のビアホールで行なわれ賑やか好き、酒好きの田中さんに相応しい会となった

 長らく関西俳優協議会の役員(1970~事務局長、1988~副会長1998~会長、2014~顧問)を務めたので大勢の役者、スタッフ、演劇関係者が集まった 

梅田千恵現会長始めベテラン三島ゆり子、中川雅夫夫婦、田中さんの飲み仲間、楠年明、多賀勝一、我らが紅壱子、大竹修造 西園寺章夫前会長、先週難波でお茶したばかりの美術の竹内志朗先生、もと鳥プロの社長鳥取さん 藤山直美の芝居の稽古終わりの大原ゆう、透析中で役者引退の真田実ら

 コロナ禍で会えなかった演劇関係者が一堂に集まったことにこの会が開かれる意義があった

亡くなる半年程前だろうか堺市民病院にお見舞いに行ったがコロナのせいで遠くからのお見舞いとなった すっかりやつれて小さくなった田中さんは寂しく笑い 制限時間で帰っていく我々をいつまでも見送ってくれた

思い出話の中で一番多かったのはセリフ覚えの苦手な田中さんのユニークなカンニング方法だった そう言えばセットのアチコチにカンニングペーパーを貼り付け、こんなにも準備をしていたらセリフを覚えるだろうと思わせた

大親友の「部長刑事」の楠年明さんは献杯ならぬ献歌としてアカペラで岡晴夫を歌った

逢いたかったぜ 三年ぶりに

逢えて嬉しや 飲もうじゃないか

昔なじみの 昔なじみの お前と俺さ

男同士で酒酌み交わす

街の場末の ああ縄のれん


白鷺だより(440) 米田亘 松竹新喜劇の50年

2023-05-15 14:39:04 | 松竹新喜劇

米田亘、松竹新喜劇の50年

若手五人によれ新体制をスタートする松竹新喜劇 その年に文芸部の米田さんが退団するという話を聞いた

米田亘 

別のペンネーム 門前光三(門前の小僧習わぬ経を読む) 昭和22年生まれ 早稲田大学文学部卒業 卒論 松竹新喜劇 昭和48年松竹新喜劇入団

昭和23年生まれの僕が1年ダブってトップホットに入ったのが昭和47年だからおそらく卒業が出来なかったか 一浪して大学に入ったからか 何故彼が昭和48年入団となったかは判らない 僕のように学生運動にのめりこんだとは後の彼から考えられない そんな彼が新橋演舞場の新喜劇を観て 二代目天外に手紙をだして入団を依頼する 二代目は当時の文芸部長平戸敬ニに任せるということで平戸に会って たまたま欠員が出て採用となった

1980年代が中心に 「IC女房にロボット亭主」、「さくら湯の忘れ物」、「昭和のラブレター」、「お金か心か春風か」 「鯉さんと亀さん」などの脚本 1993年平戸さんが亡くなった後 文芸部の責任者となり、二十世紀になって曾我迺家喜劇を継承すべく「山椒の会」(注1)を主宰 曾我迺家八十吉、玉太呂、寛太郎、川奈美弥生を中心にワッハホールを拠点に一堺漁人(曾我迺家五郎)の作品を中心に上演した 平成3年会社の思い付きで劇団名を「新生松竹新喜劇」となるがその中身は以前のままで何の変化も無く すぐにその「新生」は消えた 僕が新喜劇に関係していた頃の文芸部は狂言方として鍛冶君と木下君がいてその上司として米田さんがいたがあんまり新喜劇に「愛情」を感じられない風に見えた 同じく松竹のお荷物劇団である新派の文芸部は大場正昭さん始め斎藤雅文さん、成瀬芳一さんみたいに積極的に他の劇団の演出で外貨を稼ぐ訳でもなく コロナ禍になっても何の手立てを考えることもなくただ一本の名作も一人のスターも生むこともなく 昭和41年11月から延々と続く無休興行を昭和61 年11月(注2)まで240ヶ月連続公演のど真ん中でいくら契約金が安くとも当時の演劇人として破格の収入だったと推察される これだったら6年間も日本香堂の巡業で6年間も新喜劇を使ってあげた僕の方がよっぽど劇団に寄与してると思うが……(注3)

一番いい頃の松竹新喜劇とともに過ごした50年であった 羨ましい限りである

 

(注1)山椒の会 曾我迺家五郎、十郎、十吾の笑い 三笑の会

(注2)この月、寛美無休二十年を記念して藤山寛美二十快笑の狂言選定 

 「一姫二太郎三かぼちゃ」「愚兄愚弟」「人生双六」「花ざくろ」「愛の設計図」「大阪の此処に夢あり」「船場の子守り唄」「大阪ぎらい物語」「下積みの石」「上州土産百両首」「お種と仙太郎」「幸助餅」「笑艶桂春団治」「色気噺お伊勢帰り」「浪花の鯉の物語」「鼻の六兵衛」「篭屋捕物帳」「酒の詩・男の歌」「八人の幽霊」「浪花の夢宝の入船」

(注3) 日本香堂 新喜劇公演 平成15年   「裏町の友情」「お種仙太郎」       

           平成16年   「人生双六」「籠や捕物帳」

           平成17年   「大人の童話」「お祭り提灯」

           平成18年   「銀のかんざし」

           平成20年 「色気噺お伊勢帰り」

           平成21年  「八人の幽霊」「鼓」

           平成26年  「大当り高津の富くじ」

           いずれも演出は吉村

米田亘、日本近代デジタルヒストリーアーカイブを参考にしました

新体制の松竹座公演の論評は次回にします