白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(454) 平井房人のこと

2023-11-18 08:47:47 | 人物

平井房人(ひらいふさんど)のこと

 昭和62年の七月新橋演舞場の新聞広告である このころは天外・寛美の二枚看板だがなぜか天外一人である 昼の部2本目に平井房人作「滝の茶屋」とある

さてでは何故今「平井房人」なのか イラストレーターの成瀬國晴さんの新刊「オダサクアゲイン」という自伝的怪書の中で彼の漫画の師匠松葉健さんの戦後の思い出話の中で

「カストリ雑誌の編集部で同じように作品を持ってきていた漫画家平井房人に会う モダンで品がありニコニコしていて驚いた 平井は宝塚歌劇の脚本も書いていた有名人で朝日新聞にも夫婦ものストーリー漫画を描いていたのを知っていたのでそんな人でも売り込みに来るんだと不思議に思った」

とある 戦後すぐの彼の姿である

そこでその波乱万丈の彼の経歴をみてみよう

明治36年福岡県久留米生まれ、大正10年画家をめざして上京、同12年関東大震災に会う 神戸に移住と同時に宝塚少女歌劇の美術部に所属、雑誌「歌劇」の編集、舞台の台本やポスター制作なんでも携わる 平行して関西の漫画家達と「大阪グルっペ」を設立、 昭和13年大阪朝日新聞に3コマ漫画「思ひつき夫人」を連載、翌年宝塚映画で映画化される また時流に乗っで「カンチャンの少年戦車兵」などの子供向け戦争絵本も書いた (宝塚の舞台脚本は高速度喜歌劇「街の近代人」映画「思ひつき夫人」は竹久千恵子主演、岸井明、アチャコ共演 斎藤寅次郎監督」

戦後は京都に移り昭和26年大阪毎日新聞に「ポッポおばさん」を連載、又雑誌「平凡」「明星」「主婦の友」「家の光」などの注文で京都、大阪、宝塚などのイラストルポを制作、子供用の絵本の出版なども携わった ラジオや宝塚新芸座の台本、漫才台本や芝居の台本も執筆

昭和35年脳溢血で倒れ、そのまま死去 享年57歳

戦前に比べ なんでもござれのこの器用貧乏の生きざまを見よ!

松竹新喜劇との接点は判らないが 存命中の

昭和26年9月南座 平井房人作・星四郎補 「滝の茶屋にて」天外、寛美

昭和26 年2月中座 平井房人作  「梅の茶屋にて」天外、寛美

昭和41年5月  舘直志作・演出 「滝の茶屋」五郎八、小島秀哉(寛美新喜劇首のため五郎八主役用??)(唯一の証人星四郎は寛美退団の責任を取らされ退団)

昭和62年7月  新橋演舞場 平井房人作「滝の茶屋」天外、寛美

平成6年7月  新橋演舞場  館直志 作 吉村正人演出 「滝の茶屋にて」小島慶四郎  曾我廼家八十吉 (このとき新喜劇頭取坂東さんが前回は平井房人の名前だったと言い出し 平井房人作に改められる、演出家としての私見だがそれほど名作とは思えない)

おそらくもっと公演回数はあるだろうが館直志の事務所の「オフィステン」の著作権管理のズサンさが露呈された テンは果たして未払金を遺族に払ったのであろうか?

一体何が本業であるか判らない平井の経歴であるが多才であるがゆえ個々の仕事の印象は薄い だが今古本の世界で彼の絵葉書、マンガ、絵本などが再評価され高値で取引されているらしい めでたしめでたし!

 


白鷺だより(451) 故 千草英子さんのこと

2023-10-14 12:01:30 | 人物

故 千草英子さんのこと

訃報 

千草英子さん (93)本名 梶本英子 元松竹新喜劇劇団員 12日、老衰で死去 松竹家庭劇を経て1991年に新生松竹新喜劇の旗揚げに参加、2014年に退団するまで名脇役として活躍し代表作に「鼓」などがある

僕の千草英子さんの記憶は昭和50年(1975)大阪三越劇場での北條秀司作・演出「王将」の舞台である 僕にとって初めの商業演劇の舞台監督で27歳、彼女は45歳でいわゆる北條天皇の「お気に入り」女優であった その彼女が舞台稽古の最中に役を降ろされて小さな楽屋で泣いた 勿論芝居が不味かった訳ではない 第一幕で「小春」役で出た彼女が第二幕で三吉の後妻役で出て来たのが演出家が気に入らなかったのである 結局津島道子さんを小春の代役に呼んで「解決」したのだが けだし、がめつい後妻役は目を見張る名演技で千秋楽には僕と同じく「北條賞」を授賞した

そして彼女が家庭劇から新生松竹新喜劇に入って来た時を同じくして僕も新喜劇の芝居を手伝うようになった 新喜劇での代表作「鼓」は平成7年と平成23年日本香堂で演出させて貰った 千草英子さんの大ファンであった脚本家の池田政之さんは彼女を主役に「おばあちゃんの立候補」(平成8年)を書いた(演出は僕) 

池田さんは僕のこのブログのファンである 特に松竹新喜劇を愛するが故の悪態記事がお気に入りだ

その池田さんのブログの千草さんへの追悼文を読んで思い出したが 千草さんの新喜劇時代の代表作は「鼓」だけではない 「お祭り提灯」の世話役お勘である  元々男の役( 勘太) を女性に変え「お勘」、後年 この芝居を新橋演舞場で演った時、大阪を代表するコメディエンス紅壱子( 当時は萬子かな)  がゲスト出演でこの役を演じ、その怪演ぶりを絶賛された 紅曰く「松竹座でこの役を千草英子さんが演ったのをたまたま観てまして いつか演りたいとおもってました」と言った こうして芸は継承されるか?

新喜劇時代 彼女に師事して弟子になり名前をもらったのが千草明日翔である

彼女と同じくミヤコ蝶々、京唄子、芦屋雁之助公演などで脇役を通し たまには殺陣の指導もした河波勝は彼女のご主人である(平成14年没)

芝居が撥ね二人並んで中座の楽屋(これはもう中座でなかったら駄目だ)を出て行く姿を何度みたことか

家庭劇時代からの盟友高田次郎さんと同様新喜劇においてなくてはならぬ脇役に徹した、こんな女優はもう二度と出て来ないだろう    合掌

 

 

 

 


白鷺だより(436) 小松政夫のこと

2023-04-13 10:40:33 | 人物

小松政夫のこと

 平成元年の日本香堂は熊谷真実一座の旗揚げ公演だった この公演が翌年からのコロナ禍の影響で日本香堂の最後の作品となろうとは!  そして翌年亡くなった小松政夫さんの最後の作品になろうとは!!

この公演の顔合わせが終わって小松さんが演出の僕とプロデューサーを呼び役の変更を申し出た この公演は二本立てで一本は岡本さとるさんの書き下ろし明朗時代劇「おくまと鉄之助」と堤泰之脚本・吉村演出の「煙が目にしみる」だ それに熊谷真実の口上、小松政夫の「でんせん音頭」「しらけ鳥」速水映人の女形舞踊、音無美紀子の歌謡喫茶、などのショウが付いた三本立てだ

 小松さんの言い分は先月の博多座公演の疲れが取れす、「煙が〜」の北見役がセリフ量が多く覚えられない、もう一本の時代劇は自分の宛書きに近く頑張って演るのでもっと軽い役に変更してくれという この北見役は小松さんが日頃言っている「自分の演技は笑いの奥にある人間の悲しみを表現することこそが大事と気が付いた 哀愁こそ人間が背負う人生そのものと思った」にビッタリな役だと思っていた僕は何とかやってもらえないかと頼んだがガンとして聞いて貰えない 仕方がないので北見役を曽我迺家八十吉に廻し、八十吉の役をアゴ勇に アゴの役を小松さんにやって貰うことにした したがってこのポスターの役どころが本番とは違ったものになった ところがこの変更はまるで最初から決まっていたかのようにはまった 八十吉もアゴも小松さんもピッタリだ 僕はこの巡業中ずーっと公演に付いて廻るほど気に入っていた 

勿論北見役はあまりにも小松さんにビッタリの役だが これをキチンと演じると二本とも「いい役」になってしまう、まるで小松さんの座長公演になってしまう、これでは新座長の熊谷真実が立たない そこまで考えてゴリ押ししてくれたのか‥‥と気が付いたのは翌年彼の訃報を聞いた後だった

我々の勉強不足で彼が「日本喜劇人協会会長」だったこともその訃報で知ったしかしこの歴代の会長の顔ぶれを見よ!

榎本健一、柳家金語郎、森繁久彌、曾我迺家明蝶、三木のり平、森光子、由利徹、大村崑、橋達也 小松政夫   (現在は空席)

この点で小松は師匠の植木等を抜いた

1942年博多の街で生まれた小松は子供の頃から「蝦蟇の油売り」や「バナナの叩き売り」などが香具師の口上を覚えては友達に披露するような子供だった

 俳優になろうと俳優座の試験に通ったが入学金が払えす諦め、職を転々としたあと横浜トヨペットに就職、トップセールスマンとなり大卒の初任給が1万円の時代に月収12 万円を稼いて何不自由なく暮らしていた頃「植木等の運転手兼付き人募集!やる気があるなら面倒見るよ」との週刊紙の3行広告に応募、  芸能界の夢を諦めきれないでいたのだ 

植木のことを「おやじさん」と呼び実の父親のように慕った 云うことは何でも聞いて「明日からはタバコ辞めろ」と云われた時もスパっと禁煙した

植木の仕事を身近で学び、4年で独立 ユニークなギャグで時代の寵児となった

「どうしてなの おせーて、おせーて」

「イヤ!イヤ! もうイヤこんな生活」

「知らない 知らない 知らないモーッ」 

「シラケドリ飛んて行く 南の空に ミジメ、ミジメ」

しかし彼の本当にいいところは「人生の悲しみを全身から発して芝居をする」舞台の脇役で発揮された

 


白鷺だより(409) 若山富三郎はなぜ東映に草鞋を脱いたのか

2022-06-03 16:31:52 | 人物

  若山富三郎はなぜ東映に草鞋を脱いだのか

 昭和41年6月の南座は「南座時代劇6月公演」と銘打ち大江美智子一座を中心にゲストには大映を辞めたばかりの城健三朗、東映の山城新伍らがメンバーだった 城健三朗は公演直前若山富三郎と昔の名前に改名「パンフレットやポスターは刷り終わっていたため、そのままいきますが来月からは若山で売出します」

この公演で若山は昼の部では行友李風作「国定忠治」の主役忠治を演じ 夜の部では「血煙荒神山」の吉良の仁吉、又「雪之丞変化」では座長菊之丞を演じ劇中劇では雪之丞役の大江美智子と四つに組んで本格的な歌舞伎芝居を演じた もとより時代劇が好きで東映に入った山城にしたら待ち望んでいた時代劇スターであった 因みに山城は「国定忠治」では板割の浅太郎、夜の部の前狂言の主役と「血煙荒神山」では清水の小政を演じた 山城は密かに俊藤プロデューサーに南座の芝居を観せ若山獲得の工作を始めた 若山曰く「頭のいい山城は会社には俺が是非ともお世話になりたい、と言っており俺には東映が是非とも欲しいと言っている」とさすがに渋りに渋っている俺も押し切れた

若山が渋っている原因はかって新東宝が潰れた時東映にお世話になった事があったからである 鳴り物入りで破格のギャラで1956年新東宝に入った若山とはいえ「人形佐七捕物帳」シリーズでヒットすれども会社の倒産とはいえ移籍せざるを得なかった新参者でしかなかった 東映ではヒットシリーズの再映ばかり、千恵蔵、右太衛門の相手役に甘んじていた兄を見兼ねて今や大映映画の大看板で弟の勝新太郎が救いの手を出し大映に引き抜く 心機一転で名前も城健三朗に改名 しかしここでも勝や市川雷蔵の相手役に甘んじざるを得なかった 名前が出るのは大映の看板スターであった藤原礼子との結婚と離婚のスキャンダル、また同じく看板スターの安田道代との同棲発覚などばかりであった

そこに山城新伍の余計なお世話のせいで東映に返り咲いた「総長賭博」の松田役で主役鶴田浩二の中井と対照的なヤクザを演じ注目される その勢いで俊藤プロテューサーの「極道」シリーズの二枚目半の役処で山高帽、ダボシャツ、腹巻き、ステテコと云うスタイルの主役島村清吉に抜擢、映画さながら「若山一家」を構え代紋も作って事務所までかまえる その番頭格には山城がついた

さて吉村が若山さんと仕事をしたのは御園座の中村玉緒さん主役の「浪花女」であった 玉緒さんの旦那で文楽の三味線引きの役だった 渋い芝居であったがなにより三味線が弾けるのが強みであった (白鷺だより(38) 浪花女のこと 参照) なお同じ御園座で山城新伍の「石松浮き世旅」を上演、別の芝居では劇中劇で「国定忠治」を演じた

 

 


白鷺だより(396) 細木数子の死

2021-11-10 16:52:48 | 人物
      細木数子の死
 
 細木数子さんと初めてお会いしたのは昭和54年梅田コマの島倉千代子公演であった それまで島倉千代子公演は東京では新宿コマ、大阪では新歌舞伎座での公演がキマリだったが島倉が借金問題(4億と言われた)で揉めその処理会社(借金の立替、返済会社、ミュージックオフィス)が彼女のマネジメントをすることになり東西とも公演はコマでやることになった
その会社の代表が細木数子という女性でありマスコミが伝えるようないかにも「ヤクザの情婦」然とした人であった
実際細木は当時島倉の借金を立て替えた堀尾某という小金井一家の幹部である男の情婦でありサバークラブを経営していた女であった
彼女は「光星龍」なるペンネームで作詞や島倉のショウの構成、芝居の原案などに名を連ねていた
島倉さんの芝居はそれまで新宿コマは谷口守男、新歌舞伎座では塩田誉之弘だったが両コマとも塩田誉之弘となった
塩田先生は鶴橋のお茶問屋の息子さんで家庭劇文芸部から一本立ちして新歌舞伎座などで仕事をしていた
僕と塩田先生はトップホット時代に一緒に仕事をした仲で気心が知れており その頃は株に凝っており稽古場にラジオを持ち込む入れ込みようで稽古は自然と僕が仕切らざるを得なかった
細木数子(光星龍)はショウでは口を出すが芝居では流石にプロの我々には口出しも出来ず 我々に擦り寄って来てはその頃「勉強中」だった占いをやってくれたが これが後年天下を取ることになるとは夢にも思わなかった
 
光星龍名の作詞作品
昭和54年「噂」「女の私が得たものは」
昭和55年 「春秋の舞唄」「千歳扇の舞」「女がひとり」「綱わたり」
いずれもヒットせず
 
 
島倉が借金を返したのかいつの間にか島倉の前から姿を消したと思った頃(本当は島倉がいくら返しても無くならない借金を疑い所属レコード会社コロンビアに肩代わりしてもらい島倉が会社を出た) 
六星占術なる占いの本がベストセラーになったかと思うと
「六星占術」ブームを巻き起こし あれよ、あれよという間に人気占術師となった(1984)
その素性と風貌によりブームはそう長くは続かないと思っていたが
何と亡くなるまでそのブームは続いた
 
そして「大殺界」を経てマスコミに積極的に進出 高視聴率を取るようになった(2003年頃から)
 
やがてその人気が頂点になった頃 本業に専念するという理由で次第にTV出演から遠ざかり
2021年11月8日呼吸不全の為死去 享年83歳
 
        合掌