梅田コマの思い出の脚本家、演出家たち
津村健二(ツムケンせんせ)
なにかの回に書いたが梅田コマに入って最初の作品は田村3兄弟公演、沢島忠脚本、津村健二演出の「賀茂川囃子」だ、沢忠先生はその後ひばり公演でお付き合いする(参照、ひばりのファミリー)が津村先生は東宝演劇部所属、菊田一夫先生の弟子筋に当たる方でオーソドックスな演出でソツがないので重宝がられ、梅田コマでは「花の道頓堀囃子」「がめつい奴」「チータの弁天小僧」「ご存知一心太助」(萬屋)などがある 奥さんは往年のアイドル女優の南風久子
原譲二(北島三郎)
北島さんがこのペンネームを使い始めたのはショウの演出が新コマの土井丈児から北島さん本人に代わったことによる それまでに自分の歌の作詞などに使っていたと思われる 芝居も僕が参加して3年目にそれまで淀橋太郎作、演出だったのが原譲二作・演出となる 脚本は、梅田コマの安達靖利が安達靖人名で参加していたようだが実際はどのように書いていたのかは判らない 弟子、松原のぶえや山本譲二などの芝居は北島三郎名義にしていた
安達靖人(安達靖利)
北島専属の脚本書きだと思われがちだがそこは文藝春秋1幕物脚本賞入選作家のキャリアだ 鶴田浩二や村田英雄の作品(なかでも総長賭博を脚色した「傷だらけの人生」や名曲「夫婦春秋」)、木暮実千代の「花の道頓堀囃子」などの名作が多い
花登筺
僕がコマに入った頃は関テレ名作劇場と冠したヒット作「どてらい奴」や「あかんたれ」の舞台化が多く、それも訳の判らぬ注射の打ちながらの演出だった「お染はん」やコマ歌舞伎30周年記念「淀屋橋物語」などの名作が書けるのだからゆっくり取り組んで欲しかった なにかに取り憑かれ生き急いでいるようだった 享年55歳なんて信じられない なおコマの台本印刷を一手に扱っていた杉井堂には先生のミミズが這ったような原稿を読める方が数人いた
逢坂勉(山像信夫)
電話帳と云われたとてつもない分厚い台本「夫婦善哉」の作者が山像さん(ガタやん)だ 関テレの人気ディレクターだった 大学(同やん) の先輩だった花登筺に気に入られ「どてらい奴」などを演出、女優野川由美子と結婚したのは1971年 この「夫婦善哉」(竹内伸光演出)から黄金コンビ野川由美子✕藤田まことが始まる このコンビで名鉄ホールのレギュラーとなり ガタやんの口癖「理屈よりロマン」から取った演劇集団「ロマン舎」を結成、
北条秀司
コマに入る2年前、緒方拳の「王将」でお世話になった その時戴いた「北条賞」は僕の勲章だ コマでは扇雀のコマ歌舞伎「祇園囃子」「西陣息子」でご一緒したが、特にありがたかったのはコマに入ってスグの頃 東宝が植木等で王将を演ったとき先生が「そんな些細なことはコマにいる吉村君に聞き給え、彼なら何でも知っている」と言って戴いて梅田コマに吉村ありと東宝サイドに思わせたことである
大西信行
文学座の「怪談牡丹灯篭」で名前だけは知っていたが戌井一郎先生演出の岡田茉莉子主演「ご存知百人斬り悲恋花 吉原草紙」で初めてご一緒した 正岡容門下で当時水戸黄門や大岡越前などのTVドラマの売れっ子だった 三波春夫と意気投合して「人情ばなし塩原太助」や「人情ばなしくらやみの丑松」を作演出した 中村玉緒のために書いた「浪花女」は好評で御園座でも再演された
戌井市郎
いい女優を呼ぶためにこの人の名前が必要だった 岡田茉莉子「西鶴一代女」「吉原草紙」「滝の白糸」朝丘雪路「マダム貞奴」有馬稲子「鹿鳴館」などなど 後に池端慎之介(ピーター)、安井昌二で「一本刀土俵入り」を演ったとき殆ど居眠りをなさっていたためピーターと勝手に芝居を変えたことがあった コマの当時もお年ゆえそんな兆候があったが「鹿鳴館」だけは違った 初演演出の松浦竹夫や三島由紀夫に対する抵抗感溢れる演出であった
日向鈴子(ミヤコ蝶々)
1973年6月に梅コマで公演した「女ひとり」は公演中モデルの南都雄二が死んだこともあり空前の大ヒット 蝶々スクールの誕生のキッカケとなった 僕がコマに入る前 地方公演で初めてご一緒した( 「えらいっちゃ」)時「お前吉村云うんか、死んだ雄さんも吉村やった、吉村朝治いうんや」と声を掛けて貰った コマに入って蝶々スクールの準備をやらされた 備品は全て高津小道具に注文した 日向鈴子作・演出は「おんな寺」と「河内の女」+「ショウ」の二本だが梅コマのキャパは蝶々さんの力をもってしても広すぎた この時点ですでに中座25年連続公演は始まっていた この人にとって芝居の中身もキャパも丁度良かったのである 名古屋では名鉄ホールがメインでよくお手伝いした
塩田誉之弘
島倉千代子が借金のためマネジメントを細木数子のミュージックオフィスに移籍したため今まで東京は新コマ、大阪は新歌舞伎座となっていたが東西共にコマで公演となったため新歌舞伎座で演出をしていた塩田さんが梅コマに来た 僕はトップホットのコマ新喜劇の助っ人の時からよく知っていたので演出助手についた その頃先生は株に凝っていて短波ラジオをずっと聴いていたので演出は殆ど僕に任せてくれた 僕にとって実践の機会を与えて戴いて感謝している 細木数子は光星龍のペンネームでショウには口出ししていたようだがこと芝居に関してはひたすら僕たちに「ヨイショ」してくれて習い始めた占いの練習台として使われた この後この占いで天下を取るとは思いもしなかった 塩田先生とはこのあと京唄子や山城新伍の公演でコンビを組ませて戴いた
竹内伸光(シンコウサン)
僕が入った頃は文芸部長の肩書だった 関学の先輩で僕が入っていた「劇団エチュード」の創立者だった方だ 菊田一夫に引き抜かれ宝塚から出来たばかりの梅コマの文芸部に入れられた 芝居は勿論ショウも担当した 入ったばかりの僕に小柳ルミ子主演のミュージカルの台本を書かせて頂いた 元の文字が1字もないぐらい真っ赤に直され「名前だけは残しといたからな」と云われた
これが僕の梅コマ(新コマは何本かあるが)におけるたった一本の作品となった