白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(432) トップホット75歳トリオ大会イン「動楽亭」

2023-03-17 19:56:36 | トップホットシアター

トップホット75歳トリオ大会イン「動楽亭」

 

 事の起こりは僕が沖縄から帰って来た翌日の芦屋凡々こと中村朋唯さんのフェイスブックの投稿記事だ こんな投稿だ

昨日は親しくさせて頂いているMさんより桂米朝一門会にお誘いを受け飛んて行きました 大和郡山城ホールです(中略) 米團治師匠や南光師匠にご挨拶してざこは師匠とも久しぶりにゆっくり話せて嬉しかった 話題はお互い若い時蝶々先生に教えを受けた話は二人とも朝丸、凡々に戻し、現実に戻れば一昨日お会いした4代目桂春団治師匠と同じく落語界の今後の話でした 現役を引退して裏方に廻ってた私はお二人の責任の重さを考えると励ますしかありませんでした 春団治師匠は昭和23年生まれ、ざこば師匠と私は22年生まれ、みんな団塊世代です(以下略)

ざこば師匠の病気のことが気になっていたので凡々と沖縄から帰ったら会おうと約束していたこともあり「ざこばさんに会ったのですね、詳しくはお会いした時ゆっくり聞きたいものです」とラインしたら

「吉村さんの名前もでましたよ 師匠は脳梗塞で倒れ、昨年秋にまた倒れ 誤魔化しながら高座に出てるが噺家として悔しいと、私には励ますしか出来ないのが悔しいです タイミングが合えば会いに行ってやりましょうよ 米朝事務所社長になった元マネージャーTさんも新世界の寄席に来てやって下さいよと言ってましたし」との返事 そうだ、彼も又病気の後遺症で苦しんでいるんだ 何も出来ないが病気の先輩として慰めてあげたいと思ってその旨を伝えるとTさんと相談してくれて3月1日動楽亭で会えることになった その日は家人が病院に行く日だったが変更して貰ってオッケーした

動楽亭はざこばが生まれ育った西成山王の地に若手育成のため建てた私設寄席で定員100名、月20日公演となっている マイクなし、下座は生演奏

3月1日 天吾、小鯛、ひろば、米紫、中入り、ざこば、南天 

天吾、南天は南光の弟子、あとはざこばの弟子や孫弟子のラインナップ

少し早い目に着いたので小屋の前の喫茶店でお茶を飲んていると社長のTさん(このあたりの事情に疎く社長が変わったことも知らなかった) から師匠はオッケーですので上がって来て下さいとの電話あり コンビニの横のエレベーターで二階へ 楽屋にはざこばと出番の若手たち、帽子をとってもまだ判らないので慌ててマスクをはずすと空気は一遍に70年代に戻った ざこば師匠とは22 年前の松竹座以来だったが米紫(当時はとんぼ)らはよく覚えてくれていた 当時のバンスだらけの貧乏生活 テケツの女の子に借金して酒を呑んだこと 上司や同僚スタッフのこと 僕が梅田コマに行ったら同じくコマの制作に移った元支配人のKさんを訪ねては制作室にあった酒を飲んでKさんの仕事が終わるのを待っていたこと(まだ朝丸時代)、ざこばになったあとはピタッと止まったこと 米朝一門の芝居のこと(平成9年南座) などにざこば、凡々22年生まれ、僕23年生まれの75歳トリオの話の花が咲き いつしか話はお互いの病気のことへ 病気はざこば師匠は6年前、僕は14年前 やはりものを覚えるのは辛いらしく(このあたりは僕と同じ)   この前の一門会は何を演ったのの質問に「鉄砲勇助」や、それと「上澗屋」と「笠碁」しかでけへんと寂しく笑った その日も早く楽屋入りして「上澗屋」のネタをくっていたという それでも自信が持てずその日のネタを最後の最後まで迷っていた

やがて中入りが終わり出番となり出囃子の御船に乗ってでていった

マクラでいきなり「今昔の友達が来てくれましてその人も私と同じ脳梗塞で倒れはって左半身が不自由なんです 心配おかけしてますが私もリハビリのかいあって何とか良くなってきてます(ここで酒の話になれば良かったのだがたまたま楽屋で喋っていたタバコの話になり「先生! タバコは吸ってもいいですかね」「ああ良いですよボチボチなら」「そうでっか ほな」と持っていたタバコ全部口に咥えて吸ったのオチ そこから無理やり酒の話にして「上澗屋」に入った ソツなく「「上澗屋」半ばでございます」まで行って笑いをとったが本人としてはいい出来ではなく唇を噛んて降りてきた 無理してネタをやることはない 「マクラだけでえら落語でっしゃないか」枝雀師の御墨付のついた「マクラ」だけでも良し、動物愛護団体を無視して「動物イジメ」を再演するのも良し、弟子10人孫弟子3人の大世帯を支えていくのも楽じゃない 頑張ってもらいたい

ざこばがまだ健康な時に彼主演、僕演出の作品を一本でも演っときかったとシミジミ思う 但し同じポスターに名前が載ったことはある 娘さんのまいちゃん主演の前狂言の演出だ(平成13年松竹座)

必ずまた会おうと約束して元トップホット75歳トリオの再会はこうして無事終わった

頑張れ、ざこば師匠! 

頑張れ凡々! 

頑張れ 俺!

 

 


白鷺だより(406) 横山ホットさんの思い出

2022-04-27 09:57:40 | トップホットシアター

  横山ホットさんの思い出

(写真は僕がトップホットに入った頃のホットブラザース)

ホットブラザースの次男マコトさんが亡くなったらしい これでメンバーはセツオさんだけになった 僕がトップホットに入った少し前に加入したセツオさんはまだ芸能界に染ってはいず 我々と共に業界の手垢(競馬、ポーカー、パチンコ、女、酒)に染っていった仲間である

〽明るく笑ってリズムショウ、楽しく歌ってリズムショウ、陽気に愉快に奏でるホットブラザース のオープニングテーマがあってすぐマコトさんの「北酒場」、それにアキラさんが「ソラマタドシタ」と合いの手をいれそれが段々エスカレートして無茶苦茶になり マコトさんの「やかましいワイ!」で中断 それがキマリの導入部であった まだお父さんの東六師匠がお元気な頃(1975年引退)は自称ストラディバリウスを一瞬でバラバラにしたのには本当に驚いた 鉄板ネタのノコギリでの「お〜ま〜え〜は〜ア〜ホ〜か〜」はなんと東六師匠の師匠轟一蝶がアメリカ巡業の時の土産という ジミな芸だがアキラ師匠のハーモニカの両端に棒をさせるようになっていて そこで皿を廻しながら演奏する芸はお見事としか言いようがない お釜とフライパンでの長唄「勧進帳」も懐かしい 木琴の周りに色んなガラクタ(うちわ太鼓、チリトリ、柄杓、フライパンなど)をつけてアキラが四つん這いの台となりアキラが演奏するバカバカしさ

 決してエロっぽい話はせずに上品な笑いに終始し上方漫才大賞や文化庁芸術祭大賞に相応しい芸風は上方漫才の宝である

亡くなったマコト師匠は賑やかなアキラ師匠とは違い楽屋ではひとり本を読んでいるタイプで我々はあまり話をした記憶がない 

セツオさんひとりではこれらの芸は再現しようがなくお父さんを含めてこれらの芸を生で見られた僕は幸運としか云えない 

なおテーマソングは後半は〽とかくこの世は朗らかに笑う門には福来たる 歌う門にもまた 福来たる 歌って笑ってホットブラザース に変わった

 


白鷺だより(45)デビュー作 「おまわりさん」のこと

2016-04-15 09:37:30 | トップホットシアター

おまわりさん 作詞 長谷邦夫 作曲・歌 三上寛

サクラが狂い咲きした夜に
映画館で犯した罪を許して下さい

(以下念仏のように繰り返す「おまわりさん」の中で)

「気狂いピエロ」
「男はつらいよ」
「軽蔑」
「勝手にしやがれ」
「さらば美しい人」

最後に絶叫「おまわりさーん!!」





コマ新喜劇の脚本・演出はずっと山路洋平が一人でやっていたがだんだんきつくなってきた。
それは素人であった我々にもはっきりと判った。
なにせ一人で上中下席と月三本のノルマが相当きつかった。

山路先生は明治の文学者 山路愛山(北村透谷との論争で有名)のお孫さんにあたる方で早稲田グリークラブ出身であった。
新野新、池田幾三と並んで東宝三羽烏と言われ 他の二人が構成ものを得意としているのに対して
ドラマ畑一筋を歩んでこられた。茶川一郎と組んだ「一心茶助」はそのヒット作だ。
花登コバコとの確執も噂された。

ということで我々にも出番が早く回ってきた。
月一本を我々新人二人が交代で書くというものだった。
前月 先輩のNさんが「男と女」の曲を使って洒落たラブコメデイを書いた。

ボクの処女作は「おまわりさん」

そのころ赤塚不二夫が「マンガNO1」という雑誌を創刊していて その付録にソノシートが付いていた。
その中に三上寛が歌った「おまわりさん」という曲があった。
それと赤塚マンガに出てくる やたらにピストルをぶっぱなす警官を出したかった。(そうだ! これを聴くためにレコードプレーヤーをピンカラから3000円で買ったのだ)
それでタイトルは「おまわりさん」となった。
話は当時評判となっていた日活ロマンポルノの名作「濡れた荒野を走れ」のパロデイで「ベトナムに愛の手を」の募金を奪う警官と同じ人物がその捜査をする話で そこに「どうにもとまらない」を歌いながらやってくる交番爆破魔が絡んで・・・という話で ボクは知らなかったがその内容について会社は問題視していたらしい。

その席の中日が過ぎた頃 大阪市大がある杉本町交番爆破事件が勃発する。
会社側は公演中止の話も出たが劇場顧問の香川登志緒氏が
「所詮喜劇というものは現実を描くものだ、事件を予言した吉村は現実を良く見ていると誉めてやるのはいいが中止の必要は全く無し」
と言ってくれた話を聞いてそれ以降香川さんを勝手に師匠と呼ばしてもらっている。 

香川先生は「てなもんやシリーズ」で一世風靡された方で 
その頃ABCの横にあったプラザホテルの一室を住いにされていた。
悲惨な戦争体験があるらしく 体を縛る物は駄目で ネクタイ ベルト、パンツや靴下のゴムまで外していたので
だらしなく見えた。ヘビーチェーンスモーカーでその上着は灰だらけだった。
我々は「パッパ先生」と呼んだ。


以後辞めるまで二月に一回のローテーションで脚本演出を担当することになる。

 
なお一緒に新喜劇を書いていたのは山路洋平、塩田誉之弘、志織満介 先輩の中川淳一郎 そして僕


白鷺だより(43) てんぷくトリオのコント

2016-04-13 16:06:13 | トップホットシアター

2012年3月24日と10月26日にNHKBSで
「井上ひさしとてんぷくトリオのコント」なる番組が放送された。

往年のコントを現代の役者でやろうという企画である。
演出は三宅裕司 出演はぐっさんこと山口智充、ココリコの田中、歌舞伎役者?の師童である。

期待してみたが
もともと リーダーの三波伸介、伊東四郎 戸塚睦夫にあてこんでの作品で
別の役者が演ってもおもしろくないのは当然だ。残念!

この本はボクがトップホットに入ったばかりの頃、
コマから劇場の制作として来ていた常広さんという方からこれでコントを勉強したら・・と薦められて購入した。
ハードカバーのホンで井上ひさし以外の作者のコント作品もあった。
てんぷくトリオのマネージャーをしていた澤さんという人の自主出版本全3巻であった。(さわ出版)

今では文庫本になっているので簡単に手に入る。(講談社文庫)

もちろん作者井上ひさしがNHKの「ひょっこりひょうたん島」の作者だとは知っていたが
後に演劇の世界でこんなに有名になるとはおもわなかった。

井上コントの主なものを挙げると
1 逆になる面白さ 
  男がリンゴの皮を剥いている。
 剥き終わったあと 実の部分は捨てて 皮をおいしそうにむしゃむしゃ食べる
 そのものが立場を逆転する面白さ
2 規則を破る
赤白旗あげ   赤挙げて白挙げて赤下げて白下げてくるっと回って・・は出来ても
赤挙げない白挙げない赤下げないで白下げないくるっと回っちゃいけないよ 
は出来ない
3 対立相手の立場を変える
教師VS生徒 教師の弱みを握った生徒
社長VS労組社員 娘との結婚をちらつかせる 

などなど

  
常広さんは後に新コマに異動になり、制作に配属されてすぐに、
商業演劇の舞台で初めて井上ひさしの「11ぴきのねこ」を取り上げた。(演出は熊倉一雄)

そして この公演で昔トップホットに売り込みにきていた山城新伍(角座で漫談をしていた)を使った。
何年か後に山城に常広さんはどうしているか尋ねられ、
二度とあがれないと思っていた大きな舞台にカムバックさせてもらって感謝しているといっていた。



2014年 6月 こまつ座104回は「てんぷくトリオのコント~井上ひさしの笑いの原点~」だった。


白鷺だより(41)モダン寄席について(3)

2016-04-11 16:50:27 | トップホットシアター
トップホットシアターの前に何故「コマモダン寄席」と入っていたのか調べてみた
今回はその三回目


 梅田「コマモダン寄席」トップホットシアター

丁度その頃梅田にあった東宝のヌード劇場OSミュージックが閉鎖され、
その後にコマモダン寄席、トップホットシアターが設立され(昭和44年)渡りに舟の形でそこに芸人を供給することになる。
当時参議院議員であった横山ノックが杮落としの祝辞を述べた。
(彼は宝塚新芸座でも秋田Bスケの弟子、三田久として初舞台を踏んでいる)

ケーエープロからのタレントは
海原お浜・小浜 若井はんじ・けんじ 横山ホットブラザーズら人気者揃いであった。

他にはグループ企業の大宝芸能より
夢路いとし・喜味こいし 内海カッパ・今宮ヱビス、はな寛太・いま寛大 落語では桂朝丸がいた。

その他松竹系、吉本系以外の弱小プロダクション(米朝事務所、和光プロほか)のタレントがいた。

この寄席はかって宝塚で試行された「モダン寄席」構想を実現すべく芦屋小雁がメイン司会者となり漫談でつないで中に短いミュージカルスがありヅカガールの代わりにコマミュージカルチームの精鋭8名が「トッピーエイト」なる名前で歌と踊りで花を添えた。
(大島久里子 麻耶美雪ほか)

だがこの形式は一般にはなかなか理解されず、やがて普通の寄席の形になっていく。

そして当時当たってきた吉本新喜劇に対抗すべく専属作家山路洋平(茶川一郎のテレビドラマ「一心茶助」で有名)を作・演出にしたコマ新喜劇なるものをトリにもってきた。
  
新喜劇のメンバーは元吉本の奥津由三を座長格に据え、漫才出身の赤井タンクやOSミュージックや南街ミュージックでコントをやっていた泉祐介、そしてレギュラーとして芦屋雁之助の「劇団喜劇座」の残党(西川太市、三好正夫、伊東亮英、三角八重、白妙公子、前川美智子、芦屋凡々)と奇しくも劇場公演がなくなった「宝塚新芸座」の何人か(竹中延行、円尾紘一郎、神原邦夫(上金文雄)、吉井裕海、梅香ふみ子)の寄合所帯であった。
吉本のひっくり返るギャグだけの芝居とは違い、ちゃんとしたシチュエーションコメデイを目指したのである。

新喜劇の監修は「てなもんや」の香川登志緒、音楽は大宝に所属していた加納光記であった。