ジュリーの輝いた3年間
今月の17日
さいたまスーパーアリーナで公演予定の沢田研二70イヤーズライブ「オールド・ガイズ・ロック」が「契約上の問題」で突然中止になった
その契約上の問題というのはジュリーこと沢田曰く「客席を満員にする」という契約だった 定員9000人のアリーナは7000人しか集まらなかったのだ その空席を隠そうとしているのをジュリーに見つかり中止となった
ミヤコ蝶々の公演で京都南座に行ったときに終演後先生(蝶々)と一緒に行くコースの中に とあるゲイバーがあった
その店の着物姿のママ(?)がいつも言っていた
「ジュリーは私が作ったの」
売れる前のジュリーこと沢田研二の面倒を見ていたというのだ
ことの真意はともかくそのころ京都にはこのような伝説が多々あった
彼らのファニーズ時代に住んでいたという岸里の「明月荘」
僕の天下茶屋時代までまだ残っていた(千本南一丁目)
3帖の部屋3っつにジュリーとタロー(沢田、森本)ピーとサリー(瞳、岸部)トッポ(加橋)は一人(階段下の狭い部屋)
僕も三国のアパート階段下の三畳間で3000円
関学近くの銭湯がそうだったように近所の銭湯「泉」は男子も洗髪料を取ったのだろうか ここから彼ら5人は「ナンバ一番」に通っていた(白鷺だより135参照)
昭和41年 このファニーズのなんば一番のファンクラブの会長がビートルズのファンクラブの大阪支部長であったのでメンバーは来日公演の切符を手に入れてくれて武道館公演を観にいった 前座で出ていた寺内たけしとブルージーンズのボ―カル内田裕也から前に東京に呼んでやると言われていたがこの時会えなかった やがて内田はナベプロのマネージャーを連れてなんば一番にやってきて「オーデション」が行われ その場で契約となった
11月上京 すぐに「ザ・ヒットパレード」に初出演 同番組のディレクター兼作曲家のすぎやまこういちが大阪出身だからとの理由で「ザ・タイガース」だと名付けた
昭和42年 2月デビュー曲「僕のマリー」5月「シー・サイド・バウンド」8月「モナリザの微笑み」続けてヒット曲を連発 グループサウンド(GS)ブームの頂点に立ったが長髪だという理由でNHK紅白には出場出来なかったし レコード大賞も無冠だった
そのうえ彼らが目標としているロックの世界からも「商業主義の歌謡曲」と切り捨てられた
大晦日歌舞伎座で行われたTBSの「オールスター歌謡大行進」に出場
多くの歌手がそのまま紅白に流れたがタイガ―スはそれでこの年の仕事収めだった
昭和43年 1月「君だけに愛を」ウエスタンカーニバル出演
(この月佐世保に原子力空母エンタープライズ号入港 同世代の学生入港阻止活動)
2月3月 初主演映画「ザ・タイガース 世界は僕らを待っている」撮影
撮影、テレビ出演 ジャズ喫茶でのライブ レコーディングと大忙し
4月 映画封切 主題歌として沢田がメインで歌う「銀河のロマンス」発売
B面は加橋がメインボーカルの「花の首飾り」のちにこちらの方がA面となる
ジュリーにとって最大の屈辱を覚え これがスーパースタージュリーを作る原動力となる
4月末 アメリカコロンビア大学全学スト(いちご白書)5月 カルチェラタン闘争
6月東大全共闘全学ストに突入 同世代の学生たちは政治の世界に突入する
次のシングルは5月発売の「シーシーシー」だ これまでの橋本淳・すぎやまこういちコンビではなく 安井かずみ・加瀬邦彦コンビだった
8月日本初のスタジアムライブ後楽園で「ザ・タイガース・ショウ 真夏の夜の祭典」で15000人集めた
10月社会派の「廃墟の鳩」をアイドルでありながらメッセージソングを歌う
同月新宿騒乱 国際反戦デー 同じころ主演第二弾映画「ザ・タイガース 華やかなる招待」クランクイン
12月8枚目のシングル「青い鳥」発売 アメリカ旅行 ロス ニューヨーク ジュリー・瞳のみがブロードウェイで「ヘアー」を見る ジュリーのみベガスでシナトラショウを見てハワイで合流 その日日本では3億円事件起きる ずっと後にジュリーは「悪魔のようなあいつ」でその犯人役を演じる
12月19日 映画公開 数日後加橋は一月いっぱいでタイガースを辞めたいと発言
しかしスケジュールは半年先まで決まっていた
この年もタイガースはレコード大賞には無縁で 紅白にも選ばれなかった
GS代表としては昨年からブルーコメッツが出場した
その後 タイガースは昭和46年1月 解散した 沢田がファニーズに加入したのが
昭和41年1月だったので5年ちょっとの活動だった
その間昭和44年加橋かずみが脱退 代わりに岸部シローが入った
同じ年瞳みのるが解散を主張 結局翌年の万博まで続けることで合意
この時点で瞳以外は今後も芸能界で生きていこうと決めていて 瞳は完全に引退して大学受験を目指す予定だった
別れしなに瞳は他のメンバーに言った
「十年後に合おう 君たちはきっと乞食になっているだろうが」
瞳は慶応大学文学部に進学し卒業後慶応高校の教師となったが 他のメンバーは乞食にはならなかった
沢田研二はソロ歌手となり70年代のスーパースターとなり今も現役である
岸部修三は昭和50年俳優となり芸名を岸部一徳として活躍
加橋かつみはソロミュージシャンとして活躍 音楽プロデューサー
森本太郎はギタリスト 作曲家 プロフィールとなった
岸部シローはタレントとして活躍していたが自己破産し その後脳内出血で倒れた
(このうち僕が会ったのは北島音楽事務所時代の加橋かつみだけだ)
平成元年 昭和が終わった年の紅白歌合戦に「ザ・タイガース」が出演(瞳は除く)
「花の首飾り」「君だけに愛を」をメドレーで歌った
彼らが一世を風靡した時代には出演させなかったNHKが彼らを昭和の代表と認めたのだ
(沢田はソロデビューした昭和47年以降17回紅白に出場している)
今回のドタキャン事件は興行会社がバイト代でも払ってでも残り2000人集めて満員にすべきだったと思う
スーパースタージュリーの客席に空席などないのだから
今月の17日
さいたまスーパーアリーナで公演予定の沢田研二70イヤーズライブ「オールド・ガイズ・ロック」が「契約上の問題」で突然中止になった
その契約上の問題というのはジュリーこと沢田曰く「客席を満員にする」という契約だった 定員9000人のアリーナは7000人しか集まらなかったのだ その空席を隠そうとしているのをジュリーに見つかり中止となった
ミヤコ蝶々の公演で京都南座に行ったときに終演後先生(蝶々)と一緒に行くコースの中に とあるゲイバーがあった
その店の着物姿のママ(?)がいつも言っていた
「ジュリーは私が作ったの」
売れる前のジュリーこと沢田研二の面倒を見ていたというのだ
ことの真意はともかくそのころ京都にはこのような伝説が多々あった
彼らのファニーズ時代に住んでいたという岸里の「明月荘」
僕の天下茶屋時代までまだ残っていた(千本南一丁目)
3帖の部屋3っつにジュリーとタロー(沢田、森本)ピーとサリー(瞳、岸部)トッポ(加橋)は一人(階段下の狭い部屋)
僕も三国のアパート階段下の三畳間で3000円
関学近くの銭湯がそうだったように近所の銭湯「泉」は男子も洗髪料を取ったのだろうか ここから彼ら5人は「ナンバ一番」に通っていた(白鷺だより135参照)
昭和41年 このファニーズのなんば一番のファンクラブの会長がビートルズのファンクラブの大阪支部長であったのでメンバーは来日公演の切符を手に入れてくれて武道館公演を観にいった 前座で出ていた寺内たけしとブルージーンズのボ―カル内田裕也から前に東京に呼んでやると言われていたがこの時会えなかった やがて内田はナベプロのマネージャーを連れてなんば一番にやってきて「オーデション」が行われ その場で契約となった
11月上京 すぐに「ザ・ヒットパレード」に初出演 同番組のディレクター兼作曲家のすぎやまこういちが大阪出身だからとの理由で「ザ・タイガース」だと名付けた
昭和42年 2月デビュー曲「僕のマリー」5月「シー・サイド・バウンド」8月「モナリザの微笑み」続けてヒット曲を連発 グループサウンド(GS)ブームの頂点に立ったが長髪だという理由でNHK紅白には出場出来なかったし レコード大賞も無冠だった
そのうえ彼らが目標としているロックの世界からも「商業主義の歌謡曲」と切り捨てられた
大晦日歌舞伎座で行われたTBSの「オールスター歌謡大行進」に出場
多くの歌手がそのまま紅白に流れたがタイガ―スはそれでこの年の仕事収めだった
昭和43年 1月「君だけに愛を」ウエスタンカーニバル出演
(この月佐世保に原子力空母エンタープライズ号入港 同世代の学生入港阻止活動)
2月3月 初主演映画「ザ・タイガース 世界は僕らを待っている」撮影
撮影、テレビ出演 ジャズ喫茶でのライブ レコーディングと大忙し
4月 映画封切 主題歌として沢田がメインで歌う「銀河のロマンス」発売
B面は加橋がメインボーカルの「花の首飾り」のちにこちらの方がA面となる
ジュリーにとって最大の屈辱を覚え これがスーパースタージュリーを作る原動力となる
4月末 アメリカコロンビア大学全学スト(いちご白書)5月 カルチェラタン闘争
6月東大全共闘全学ストに突入 同世代の学生たちは政治の世界に突入する
次のシングルは5月発売の「シーシーシー」だ これまでの橋本淳・すぎやまこういちコンビではなく 安井かずみ・加瀬邦彦コンビだった
8月日本初のスタジアムライブ後楽園で「ザ・タイガース・ショウ 真夏の夜の祭典」で15000人集めた
10月社会派の「廃墟の鳩」をアイドルでありながらメッセージソングを歌う
同月新宿騒乱 国際反戦デー 同じころ主演第二弾映画「ザ・タイガース 華やかなる招待」クランクイン
12月8枚目のシングル「青い鳥」発売 アメリカ旅行 ロス ニューヨーク ジュリー・瞳のみがブロードウェイで「ヘアー」を見る ジュリーのみベガスでシナトラショウを見てハワイで合流 その日日本では3億円事件起きる ずっと後にジュリーは「悪魔のようなあいつ」でその犯人役を演じる
12月19日 映画公開 数日後加橋は一月いっぱいでタイガースを辞めたいと発言
しかしスケジュールは半年先まで決まっていた
この年もタイガースはレコード大賞には無縁で 紅白にも選ばれなかった
GS代表としては昨年からブルーコメッツが出場した
その後 タイガースは昭和46年1月 解散した 沢田がファニーズに加入したのが
昭和41年1月だったので5年ちょっとの活動だった
その間昭和44年加橋かずみが脱退 代わりに岸部シローが入った
同じ年瞳みのるが解散を主張 結局翌年の万博まで続けることで合意
この時点で瞳以外は今後も芸能界で生きていこうと決めていて 瞳は完全に引退して大学受験を目指す予定だった
別れしなに瞳は他のメンバーに言った
「十年後に合おう 君たちはきっと乞食になっているだろうが」
瞳は慶応大学文学部に進学し卒業後慶応高校の教師となったが 他のメンバーは乞食にはならなかった
沢田研二はソロ歌手となり70年代のスーパースターとなり今も現役である
岸部修三は昭和50年俳優となり芸名を岸部一徳として活躍
加橋かつみはソロミュージシャンとして活躍 音楽プロデューサー
森本太郎はギタリスト 作曲家 プロフィールとなった
岸部シローはタレントとして活躍していたが自己破産し その後脳内出血で倒れた
(このうち僕が会ったのは北島音楽事務所時代の加橋かつみだけだ)
平成元年 昭和が終わった年の紅白歌合戦に「ザ・タイガース」が出演(瞳は除く)
「花の首飾り」「君だけに愛を」をメドレーで歌った
彼らが一世を風靡した時代には出演させなかったNHKが彼らを昭和の代表と認めたのだ
(沢田はソロデビューした昭和47年以降17回紅白に出場している)
今回のドタキャン事件は興行会社がバイト代でも払ってでも残り2000人集めて満員にすべきだったと思う
スーパースタージュリーの客席に空席などないのだから