白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(274)道頓堀界隈(5)アラビヤ珈琲

2017-10-28 08:16:50 | 道頓堀界隈
  道頓堀界隈(5)「アラビヤ珈琲」



旧中座の楽屋口を出て少し南に下がると法善寺の正面に出る そこを右に曲がって戎橋筋の方に少し行くと「アラビヤ珈琲」だ 表には焙煎機の上にターバンを巻いたアラビア人の絵の描いた珈琲カップが乗っている看板が目印だ よく見ると店の名前がアラビアではなくアラビヤだ まだ浪花座の上にあった松竹関西演劇部や松竹座の地下にあった松竹芸能からも近く打ち合わせといえばここに集まった コーヒーを飲むだけだったらカウンターの横の小さなテーブル席 打ち合わせなら一番奥の広いテーブル席だった

1951年 創業 元エリート将校だった高岡光明さんが25歳の時にこの地で開業
同じ通りに十軒も並んでいた珈琲ブームの頃 当時は濃いコーヒーが全盛期で店の味を「薄い!」と文句を言う客が多かったが絶対に譲らなかったので喧嘩もしたらしい
彼は木彫りも得意で看板や「珈琲で乾杯」と題した親子三人の働く姿を掘った作品も壁に掛かっていた あとメニューも次の文章も全て木彫り文字だ そこには
「朝の目覚めに飲む珈琲のおいしさは楽しい一日の希望をいだかせてくれます
 昼のコーヒーブレイクに飲む一杯のおいしさは仕事の疲れをいやしてくれます」


もっと凄い話題はたまに店に顔を出す先代の奥さん(峰子さん)が日本初の女子プロ野球のスター選手であったというものだ
1950年に開幕した女子プロ野球大阪ダイヤモンドので捕手や一塁手の人気選手 しかしリーグはわずか二年で消滅 
光明さんがそごうのデパートガールでもあった彼女を毎日通いつめとうとう落としたらしい
峰子さんのモットーは「いい球が来たら必ず勝負すると決めて実戦してきた 人生もチャンスが来たら迷わず挑戦しなきゃあ」だ

ときおり中座の歌舞伎の出し物の合間だろうか有名な歌舞伎役者が珈琲を飲んでいるのに出くわした 今は亡き三津五郎もまだ八十助時代からその一人だった

在りし日の三津五郎の「アラビヤ珈琲50周年のお祝い」の文章

「君、アラビヤコーヒーを知ってるかい?」
「いや 知りません」
「そうかい、あそこのコーヒーとアラビヤサンドはおいしいよー」
と 中村富十郎先輩から教わったのはもう二十年以上も前のことです
それからというもの大阪公演での朝食は毎日「アラビヤ珈琲店」ということになりました
ちょっと怖そうなお父さんが実はすごくいい人で怖そうに見えたのはコーヒーへのこだわりの強さだと分ったり 
長男の明郎さんが同じ年で僕と同じく野球好きでたちまち意気投合し よく早朝野球をやったりしたのも懐かしい思い出です
今のミナミはすっかり落ち着きのない街になってしまいましたが 
お父さんのようにこだわりとプライドを持ったユニークな人たちが沢山いる面白い街でありました
二十一世紀を迎えた今年 アラビヤコーヒーは50周年 私は十代目三津五郎襲名と お互い節目の年になりました お父さんが一代で築き上げ手塩にかけ 愛情のすべてを賭けて守り抜いた店であることを誰よりも一番強く知っているのは明郎君です そんなお父さんの遺志を受け継ぎながら今度は自分が当主としてこれからの店を切り盛りしていかなければいけないそのプレッシャーは同じく当主になりたての私には痛いほど理解できます
不惑を超え 離婚を経験し 親を亡くし 何だか似たような人生を過ごしてきましたので今では自分の分身のような深い友情を抱いています
これから彼が淹れる一杯のコーヒーにはきっと今までにない深い味わいが増すことでしょう そのコーヒーと共に彼自身の人生を重ねて 末永くお付き合いしていきたいと思っています
 
    2001 十代目 坂東三津五郎


(注) お父さんの光明さんは1999年死去
同じ年 九代目坂東三津五郎死去
この記事を書いた十代目坂東三津五郎(2001年襲名)も2015年2月21日亡くなった

白鷺だより(273)シネマクラッシック(5) 「ある日どこかで」

2017-10-25 15:50:24 | 映画
「ある日どこかで」
Somewhere In Time




10月25日NHKBSプレミアムで「ある日どこかで」を見た
そのあとの妄想

 僕が初めて中座で自分の名前を出して演出した時だから今から23年前、平成6年のことである 
初日が撥ねてダメ出しを終え二階の楽屋から降りてくると楽屋番のきくちゃんが「吉村はん お客さん」と表を指さした 
出て行くと一人の上品な老女が立っていた 
声をかけると近づいてきて不思議そうに僕の顔を見て一瞬戸惑った顔をして 小さな声で「帰ってきて頂戴」と言って去って行った 
慌てて追いかけてみたが道頓堀の人込みに紛れて見失ってしまった 
きくちゃんに聞いても中座のおでんや辰巳の女将さんをはじめ周りの古い人に聞いても彼女がどこの誰だか知っている人はいなかった

それから4年後 南地大和屋の開業120周記念のパーテイが開かれ出席することがあった 
その時広間に飾ってあった古いセピア色の資料写真がじーっとこちらを見つめる視線を感じた 
それは一人の若い芸者さんの写真であった その写真を見て僕は「あっ」と声をあげた 
その人はこの前僕を訪ねて来た老女にどこか面影があったからである
 
大和屋の古いスタッフに聞くと昔売れっ子の芸者さんで佳世という人だった 
そしてその人は四年前まで大和屋に住んでいて 最後は老衰で眠るようになくなったというのだ 
何故か月頭に見に行った中座のパンフレットを大事そうに抱きながら・・・

さらに何日か後大和屋のマネージャーがやってきて古い写真を持ってきた
「これを見てくれ」
それは大和屋で催した「御堂筋開通記念」パーテイの集合写真だった 
「これ、この男・・・」
指の先をみると一番後ろに映っている男それは間違いなく僕だった 調べたらこれは昭和12年の写真だった 
「それとこれも見てくれ」と古い宿帳を出してきた 
今から60年前(昭和9年)の太和屋の客の名簿に何故か僕の名前が書いてあったのである 
まぎれもなくそれは僕の筆跡である 
僕は60年前に大和屋にいた・・・「帰ってきて頂戴」とはそういう意味なのか・・・

 僕は大阪府大の時間旅行を研究する偉い教授に会い「現代の所持品を捨て 行きたい時代の物を身に着けて催眠術をかける」という方法を聞き出し 松竹衣裳に当時の衣裳を貸して貰い 有り金全部をコイン商で当時の金に換え大和屋の一室で自分に催眠術をかける 
はたして目が覚めるとそこは60年前(昭和9年)の大和屋であった 店中探したが見つからず戎橋のたもとでやっと彼女を見つけて声をかける
 しかし彼女は大きなパトロンを持っていた 当時の大阪市長だ 
東京からやってきた市長はここ大和屋を常宿にしてここから市役所に通っていて大和屋としてはいい客だった 
この時代のことを資料で読んでいた僕は御堂筋工事や地下鉄建設を彼に提案して意気投合
イチョウ並木も僕の案だ これによって大阪は大発展 
大震災で潰れた東京を抜いて人口日本一の都市「大大阪」時代が訪れる 
彼が仲を取り持ってくれてめでたく二人は結ばれる
 
しかし大和屋にはいられなくなった彼女は芸者を辞めた
僕は市長の相談役の仕事を得 なんとか貧しいながら生活が始まった 
しかし僕は何とか一人前の演出家になって いつか中座の看板に僕の名前を出すという夢を忘れてはいなかった
 
「そうなったら絶対初日の舞台見に行くわ」 二人の夢は膨らむ

そんな矢先僕の衣裳の上着のコイン入れから500円玉(平成6年製)が転がり出る
(誰だ 衣裳にお金を入れて忘れていた奴は!)
 
そしてそれと同時に僕はその時代から消えてしまう 
現代に帰った僕は病院のベッドの上で意識を取り戻す 
僕は長い間太和屋の部屋で眠りこんでいて太和屋のスタッフが病院に運んでくれていてそれから何年も眠っていたというのだ
 
一方突然男が目の前から消えてしまった佳世は太和屋に詫びを入れ芸者に戻っていつか帰って来るかもしれない男を待つことにした 
そして太和屋一の芸者となって毎年戎神社の祭りには宝恵駕籠に乗るまでになった 
そして引退の後も太和屋に住み続け 帰らぬ男を待っていた 
そんなある日中座のチラシに僕の名前を見つけ そして・・・



この映画は1981年封切時に見て 色々ショックを受けた 
これはSF映画ではなく優れた恋愛映画だ
監督は過去(富士フィルム)と現代(コダック)でフィルムを変えて撮影した

日本でも本国アメリカでも興行成績は良くなく伸び悩んでいた 
だがその後ケーブルテレビやビデオなどで次第に支持を集め 少しづつファンが増えていった 
その後主役のスーパーマン役者のクリフトリー・リーブスが落馬事故で下半身不随になり車椅子生活を余儀なくされることになり この映画も改めて注目されることになる
 
この映画のモデルとなったグランドホテルで毎年コンベンションが開かれ上映会が行われている
 
また宝塚歌劇では天海祐希 麻野佳世のコンビによって劇化されていている(1995)
 
(10月25日NHKBSプレミアムで鑑賞)

白鷺だより(272)「いつも煙が目にしみる」を見て

2017-10-23 07:56:31 | 観劇

「いつも煙が目にしみる」

菱田が2005年「パウダァ~おしろい~」で読売文学賞(戯曲シナリオ部門)を取った時関西の演劇界はみんな無視したのだ
この賞は古くは三好十郎から新しいところではケラリーノ・サンドロヴィッチまでその受賞者の名前を見ると現代の演劇地図が見事に出来上がるという そうそうたるメンバーが並ぶ 詳しく書くと三好十郎 福田恒存 田中千佳夫 三島由紀夫 中村光男 北条秀司 飯沢匡 矢代静一 阿部公房 秋元松代 木下順二 井上ひさし 清水邦夫 山崎正和 別役実 堤春恵 福田善之 竹内銃一郎 岩松了 マキノノゾミ 松田正隆 永井愛 宮藤官九郎 坂手洋二 唐十郎 そして彼菱田 その後も野田秀樹 三谷幸喜 小山薫堂 鴻上尚史 前川知大 荒井晴彦などが名前を連ねる

もっと大騒ぎをしてもいい  
唯一関西劇界で歓迎したのは紅萬子だった
彼が桂三枝の作った演劇ユニットNWATORIの為に書いた芝居を何故か紅が見て知り合い その第一声が「あんた、書く力は凄いけど演出は下手や やめとき」であった
その後ヘップホールでの第9回上岡演劇祭(1999)「グランドロマン」で脚本賞を取った時もその審査員だった(?)し 近松賞を受賞した「いつも煙が目にしみる」の台本作りにも協力し(結局上演出来なかった)
読売文学賞受賞第一作として自らの劇団浪花人情紙風船団公演としてワッハホールで「ええお湯だっせ」を公演 その演出は僕吉村だった
(昭和14年新興芸能の芳本の芸人引き抜き事件がテーマ 僕のブログ引き抜き(序)~(6)参照)
翌年同じくワッハホールで「負けてもイギョラ」を公演 これも演出は僕
(昭和32年扇町プールで行われた力道山VSルー・テーズ戦の三万人集めたプロレス興行の裏話 在日朝鮮人問題がテーマ)
僕は演出を決める前にフェスティバルゲートの小さいスペースでやっていた彼の芝居を何本か見ていて(妖怪と言われた保守政党の親玉と女マッサージの話とか緊縛絵師の一生ものとか)その「毒」に魅せられたのだった 

その大賞の賞金300万円を狙って2001年「いつも煙が目にしみる」という上演不可能な芝居で第一回近松門左衛門賞優秀賞を取った 優秀賞は50万だった
彼の作品を強く推してくれた審査員の宮田慶子の意見を聞き兵庫県立芸術劇場こけら落とし公演用に 書き加えての「パウダァ」での受賞に繋がる この作品は東京紀伊国屋ホールでも上演された

「パウダァ」記録
 作・菱田信也 演出・宮田慶子
出演 小市慢太郎 いしのようこ 宇口得冶 片岡冨枝 弘中麻紀 内田稔
2005年12月6日~11日 兵庫県立芸術文化センター中ホール
2005年12月14日~18日 紀伊国屋ホール 

 
「パウダァ~おしろい~」選評 井上ひさし
 祖父にカストリ雑誌の探訪記者を 父に政治部記者を持つ社会部記者が神戸市郊外の被災者用仮設住宅を取材訪問する 取材の相手は「震災離婚」した女性で彼女との取材の一部始終が劇の<現在>である 大地震は社会に重大な物的打撃を与えたが 人間の精神にさらに深刻な影響を及ぼしたはず 若い記者はその悲劇を突き止めようとする
<現在>はやがて思いがけない方向へ進展してゆくが この<現在>に鋭く侵入してくる4つの長いモノローグによる<過去>が見事だ 4人とも祖父が取材した女たち(パンパンの姉御、新興宗教の女教祖、祇園あがりの芸者、ストリップ劇場の小屋主)それぞれの台詞は流麗 内容は豊か しかも写実に徹しているので滑稽かつ深く知的な滋養に満ちている 観客に飽きさせないように長い長い台詞を書くのは昨今では「冒険」の一つだが作者はその冒険に成功
「困った時には女の力に頼れ」というのが劇の主題だがそれは<現在>と<過去>とでよく出ているし「災難は新生の始まりかも知れない」というもう一つの主題には胸を衝かれた 震災について書かれた文学のうちで最良の一つである
       (2006年2月1日 読売新聞朝刊掲載)

 マリオの女代議士もふえて判りやすくなった 
現在のシーンは折角映像が使えるなら仮設住宅ということが判る映像 
もしくは壊れた神戸の街の映像を使ってみたら判りやすいのでは・・・過去は戦後の映像でもいいかも
とにかく難しい芝居を判りやすく見せることが演出だ

見やすいいい小屋でした 100の客席もいい

    (10月20日 三宮シアター・エーツーにて観劇)
 


白鷺だより(271)「大島渚の帰る家」~妻・小山明子との53年~

2017-10-19 11:10:11 | 人物
「大島渚の帰る家」妻・小山明子との53年

 ユーチューブで2013年(大島の死んだ年1月15日死去)10月6日放送されたNHKBSプレミアムドキュメンタリードラマ「大島渚の帰る家~妻・小山明子との53年」を見た 大島を演じる豊原功補の力演によって(ちなみに小山明子役は奥貫薫)なかなか見ごたえがあった 元々大島は我らの世代の憧れであった 僕を政治闘争に引きずり込んだのは大島信奉のYだった 仕事で一緒になった小山明子(梅コマ「あかんたれ」)に芝居を見に来た大島に会わせてもらおうとした話の顛末はどこかのブログに書いた 

「深海に生きる魚群のように自らも燃えなければ何処にも光はない」

大島が学生の頃から座右の銘としているバセドー氏病の歌人明石海人の言葉だが 
これはあの時代の我々の座右の銘でもあった・・・・
助監督時代に仲間を募って脚本集を出したのもその思想の一環であった 

 松竹の新人映画助監督の大島は同じく新人女優の小山明子が気に入って猛アプローチをかける その頃出版された(1958)岸田国士の演劇の師匠フランス演劇のビトエフ夫妻の一生を描いた「演劇の鬼」を演技の勉強になるからと送ったり ラブレター責めの攻勢を続け やがて「愛と希望の街」(1959)で監督として一本立ちした時 「いつか世界的な監督になって君を海外に連れて行く」が決め手となり二人は結ばれる
ちなみにこの「愛と希望の街」は元々「鳩を売る少年」というタイトルだったが会社の命令で「愛と悲しみの街」に変えられた さらに封切ギリギリで「愛と希望の街」という内容とは正反対のタイトルとなった いわゆる添え物映画であったが異色の映画評論家の斎藤龍鳳がべた褒めしたことで注目され 次回作「青春残酷物語」(1960)に続くことになる このタイトルはヒットしたドキュメント映画「世界残酷物語」に由来する これが大ヒットして続いて監督になった篠田正皓い吉田喜重らとともにいわゆる松竹ヌーベルバーグ(これもフランスの映画運動ヌーベルバーグに由来する)と言われその旗手に祭り上げられてしまう 続いて撮った「太陽の墓場」(1960)もヒット しかしその後撮った「日本の夜と霧」(1960)(このタイトルもみすず書房より出版されたナチスの捕虜収容所の体験記「夜と霧」による)は松竹の言い訳によると「入りが悪い」という理由で封切4日で打ち切りとなってしまう

そんな状況の中で二人は10月30日結婚式を挙げる
祝いの言葉を述べる先輩監督に罵声を浴びせ堂々と会社批判が始まった それは大島が撮った「日本の夜と霧」の結婚式のシーンを再現しているようだった このシーンは演出家が元の映画を意識して撮っている いやこのシーンだけではなく大島映画の名シーンが再現ドラマのここかしこに使われている よっぽどこの瀬々という監督は大島映画研究家なのだろう

演出の瀬々敬久はピンク映画の監督だが 大島と同じ京大を出て自主映画「ギャングよ、向こうは晴れているか」(1985)で注目され 1989年「課外授業・暴行」で監督デビュー ピンク映画四天王の一人だと言われていたが1997年「黒い下着の女・雷魚」から一般映画にも進出 最近作は来年(2018)封切される自主映画「菊とギロチン・女相撲とアナキスト」女相撲の世界とギロチン社のアナキストの話で面白そうである

結婚後松竹を辞めた大島は仲間たちと「創造社」(学生時代やっていた劇団名)を結成 
松竹に居ずらくなった小山もフリーの女優となり創造社の最初のメンバーに名を連ねる
メンバーは役者の小山明子 制作の山口卓冶 脚本の石堂俶朗、佐々木守 田村孟 役者の渡辺文雄,戸浦六宏、小松方正ら酒飲みばかり 
小山は女優の仕事の終わったあと皆のために手料理を作るのであった
このあたりの再現は「さもありなん」と思わされて中々リアルで面白い

その中から「飼育」、東映で撮った「天草四郎時貞」(これは封切で見たが失敗作だろう)あとはテレビドキュメンタリーで「忘れられた皇軍」などを生み出す
低予算で作る映画を模索して写真のみで構成した「ユンポギの日記」同じ手法でマンガの原画を写して構成した「忍者武芸長」・・・
これ以降の大島の軌跡はよくご存じだからとばしてこのドキュメンタリードラマの白眉である大島の介護と小山の介護鬱との闘いを見てみよう

「愛のコリーダ」以降「世界の大島」となっていく 
「愛の亡霊」「戦場のメリークリスマス」「マックス・モン・アムール」を撮って次回作「御法度」の記者会見をすました大島は講演に行ったロンドンの空港で脳出血で倒れる(1996)すぐイギリスの病院で手術で助かったがリハビリが大変だった 彼にとって不幸だったのは麻痺は右半分に出たことだ 僕のように麻痺が左半身だったら何とか日常生活は出来る そのリハビリも 大島のようにプライドも高くない僕は平気で子供でもこなせる作業が出来たが大島は辛かったろう プライドと言えば僕はオムツひとつするのも平気だったが大島は看護婦に怒りまくったそうな そして小山も病気に侵されていく
下の世話から周囲に怒り捲る大島の代わりに謝る小山 女優である彼女のプライドはズタズタになり鬱病を患う そこからの脱却と大島のリハビリは3年を要した その甲斐あって何とか歩けるまでになり 医者の止めるのも聞かず「大島家は男が早死にする家系です 僕は一度死んでいます 仕事で死んでも悔いはない」と言い切って「御法度」をクランクインさせ完成させる(1999) 
しかしその疲労からかまた同じ病気で倒れる
今度は小山は一生懸命やるのではなく 色んな趣味を習い 水泳も習いながら介護することにした
最初倒れてから17年閑の介護生活が続いた 
そんな小山のもとに東京芸術劇場での舞台主演の話が舞い込む それは「女のほむら」という毒婦と言われた高橋お伝の物語だ 
不治の病の夫を自らの手で殺す女の話だ 小山は台本を読み20年ぶりの出演を決める
「女はさ 男を生むことは出来ないが殺すことはできるよね・・・
この舞台の再現はまるで大島の「愛のコリーダ」の定と吉蔵を見るようだ

その初日前日大島は死んだ(2013 1・12)
 
それは大島からの小山への最後のプレゼントのように思えた 
遺体をすぐさま防腐処置をして葬儀を遅らせ 小山は予定通り五日間の公演を終え それから改めて葬儀を行った 







白鷺だより(270)飯塚 嘉穂劇場

2017-10-16 10:32:57 | 思い出
     飯塚嘉穂劇場

 元フォーリーブスのメンバーであるおりも政夫さんのブログがフェイスブックにアップされていた 彼は夢グループの歌謡ショウに出演しているのだが最近公演に行った飯塚の会館イイヅカコスモスコモンの近くに昔芦屋雁之助との巡業(「娘よ」全国ツアー)で来たことのある嘉穂劇場があって懐かしさも手伝って中を見物して来たとある
現在はほとんど使われることはなく劇場見学が300円で出来るようになっている
おりもさんのブログには劇場正面 桟敷の客席 楽屋 奈落(手動で盆を回す)綱元などが写真で紹介されていた 
懐かしかったので早速コメントを入れておいた

 物の本によるとこの劇場は炭鉱主(伊藤隆)の娘だった伊藤英子が初めて大阪見物した時 道頓堀の中座で芝居を観た 英子は芝居よりも劇場に感動して父親にねだった「こんな劇場が欲しい」父親は金に明かして当時の中座の設計図を取り寄せ そのまま地元飯塚に造らせた(大正10年)「中座」がその前身である その後火事で焼失(昭和3年)や台風の被害(昭和5年)のあと再再建されたのが「嘉穂劇場」であるという
ということはこの嘉穂劇場は戦前の道頓堀中座の雰囲気をそのまま残していると言えよう

戦後は折からの炭鉱ブームに乗り大衆演劇や流行歌手公演など 炭鉱労働者で溢れたこともあったが石炭工業の衰退により一時年266日もあった公演数が10~15日まで落ち込んだ 英子さんたちの奮闘で30~40日まで復活した頃 僕はこの劇場に来た

実はそれ以前に僕はこの劇場を知っていた この劇場を初めて知ったのはテレビのドッキリ物の企画で歌手の森進一さんがスタンバイしてオープニングで幕が開くと誰もいないというバカバカしいものだった しかも幕内に場内のざわめきも流して手の込んだものだった   
その劇場がこの嘉穂劇場だった

初めてこの劇場に来たのははて何の公演であったろうか記憶にないのだが 劇場裏の人家に迷惑がかからないよう近くのホテルを早く出て 
早朝に道具を搬入して そのあと劇場主の英子さんがスタッフ全員に朝ご飯をご馳走してくれたことは味噌汁の味と共によく覚えている
ここの綱元は道頓堀中座と同じように大きな木に縛り付けて止めるようになっていて経験が浅い舞台監督の僕は苦労したものだ

楽屋に入って奇妙な物を多数見た それは廊下 楽屋 舞台裏 あらゆるところに貼ってあるお札のようなものだ それには「十二月廿五日」と書いてあって それがサカサマに貼ってあった 古い役者に聞くと12月25日は大盗賊石川五右衛門の命日らしく 泥棒よけのお札で 昔はどこの劇場にも貼ってあったらしい
上手にあるお囃子部屋に昔の写真が貼ってあり それは江利チエミと共に踊る中野ブラザースのカッコいい写真であった
 
劇場の様式は間口10間 奥行9間 プロセ二アムまでの高さ2・5間 回り舞台(5間)
セリ回り盆の前に一つと花道スッポン 
客席は一階(450~800)二階(300~400)
 
何年か前(平成15年)の台風で甚大な被害を受けたが津川雅彦や玉緒さん、勘九郎(当時)らの呼びかけで復旧チャリティイベントが行われ 一年後復旧した その時点で公的資金を受けるためNPO化した 2006年には国の登録有形文化財に登録される 

今年の公演予定には11月18日19日 
勘九郎 七之助兄弟「全国芝居小屋錦秋公演」を開演する