旧中座の楽屋口を出て少し南に下がると法善寺の正面に出る そこを右に曲がって戎橋筋の方に少し行くと「アラビヤ珈琲」だ 表には焙煎機の上にターバンを巻いたアラビア人の絵の描いた珈琲カップが乗っている看板が目印だ よく見ると店の名前がアラビアではなくアラビヤだ まだ浪花座の上にあった松竹関西演劇部や松竹座の地下にあった松竹芸能からも近く打ち合わせといえばここに集まった コーヒーを飲むだけだったらカウンターの横の小さなテーブル席 打ち合わせなら一番奥の広いテーブル席だった
1951年 創業 元エリート将校だった高岡光明さんが25歳の時にこの地で開業
同じ通りに十軒も並んでいた珈琲ブームの頃 当時は濃いコーヒーが全盛期で店の味を「薄い!」と文句を言う客が多かったが絶対に譲らなかったので喧嘩もしたらしい
彼は木彫りも得意で看板や「珈琲で乾杯」と題した親子三人の働く姿を掘った作品も壁に掛かっていた あとメニューも次の文章も全て木彫り文字だ そこには
「朝の目覚めに飲む珈琲のおいしさは楽しい一日の希望をいだかせてくれます
昼のコーヒーブレイクに飲む一杯のおいしさは仕事の疲れをいやしてくれます」
もっと凄い話題はたまに店に顔を出す先代の奥さん(峰子さん)が日本初の女子プロ野球のスター選手であったというものだ
1950年に開幕した女子プロ野球大阪ダイヤモンドので捕手や一塁手の人気選手 しかしリーグはわずか二年で消滅
光明さんがそごうのデパートガールでもあった彼女を毎日通いつめとうとう落としたらしい
峰子さんのモットーは「いい球が来たら必ず勝負すると決めて実戦してきた 人生もチャンスが来たら迷わず挑戦しなきゃあ」だ
ときおり中座の歌舞伎の出し物の合間だろうか有名な歌舞伎役者が珈琲を飲んでいるのに出くわした 今は亡き三津五郎もまだ八十助時代からその一人だった
在りし日の三津五郎の「アラビヤ珈琲50周年のお祝い」の文章
「君、アラビヤコーヒーを知ってるかい?」
「いや 知りません」
「そうかい、あそこのコーヒーとアラビヤサンドはおいしいよー」
と 中村富十郎先輩から教わったのはもう二十年以上も前のことです
それからというもの大阪公演での朝食は毎日「アラビヤ珈琲店」ということになりました
ちょっと怖そうなお父さんが実はすごくいい人で怖そうに見えたのはコーヒーへのこだわりの強さだと分ったり
長男の明郎さんが同じ年で僕と同じく野球好きでたちまち意気投合し よく早朝野球をやったりしたのも懐かしい思い出です
今のミナミはすっかり落ち着きのない街になってしまいましたが
お父さんのようにこだわりとプライドを持ったユニークな人たちが沢山いる面白い街でありました
二十一世紀を迎えた今年 アラビヤコーヒーは50周年 私は十代目三津五郎襲名と お互い節目の年になりました お父さんが一代で築き上げ手塩にかけ 愛情のすべてを賭けて守り抜いた店であることを誰よりも一番強く知っているのは明郎君です そんなお父さんの遺志を受け継ぎながら今度は自分が当主としてこれからの店を切り盛りしていかなければいけないそのプレッシャーは同じく当主になりたての私には痛いほど理解できます
不惑を超え 離婚を経験し 親を亡くし 何だか似たような人生を過ごしてきましたので今では自分の分身のような深い友情を抱いています
これから彼が淹れる一杯のコーヒーにはきっと今までにない深い味わいが増すことでしょう そのコーヒーと共に彼自身の人生を重ねて 末永くお付き合いしていきたいと思っています
2001 十代目 坂東三津五郎
(注) お父さんの光明さんは1999年死去
同じ年 九代目坂東三津五郎死去
この記事を書いた十代目坂東三津五郎(2001年襲名)も2015年2月21日亡くなった