白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(247)「手編みの靴下」と「逢いたくて逢いたくて」

2017-06-30 09:59:02 | うた物語
「手編みの靴下」と「逢いたくて 逢いたくて」

昭和37年8月 
前年映画「モスラ」で双子の妖精を演じて大評判になり「ふりむかないで」をヒットさせた双子デュオ「ザ・ピーナッツ」の初主演映画「私と私」が封切された 
生き別れになった双子が出会い「ザ・ピーナッツ」として人気歌手になるまでを描くミュージカル映画で その内容はケストナーの「二人のロッテ」の完全なパクリであった 
ベテランの有島一郎や淡路恵子をはじめクレイジーキャッツや田辺靖雄 また当時売り出し中の中尾ミエ 伊東ゆかりといった渡辺プロ所属の歌手が助演 二本立ての併映は「キングコング対ゴジラ」であった いわゆるお盆映画というやつである

ラストシーンはスターになったザ・ピーナッツがスマイリー小原の踊りながらの指揮で「ふりむかないで」を歌う姿をテレビ(もちろん白黒)二人のそだての親(有島・淡路)が見ている絵で終わる

(制作 山本紫朗 監督 杉江敏男 脚本 笠原良三 原作 中野実 音楽 中村八大)

その同じ8月に梅田コマでザ・ピーナッツ主演のミュージカル「私と私」が上演された
記録によると 作・中野実 構成・8の会 脚本・竹内伸光 演出・山本紫朗というスタッフで当時ナベプロに入った藤田まことや水原弘 夢路いとし 喜味こいしらの共演であった この前には梅田コマミュージカルチームの「夏の踊り」がついた 
この「夏の踊り」とナベプロタレントのミュージカル喜劇の組み合わせは以後何年か続き 夏の風物詩となった
(僕がコマに入ってからも続いて・もっともその頃はナベプロの歌手の短期公演であったが)
 
この公演で使われた曲でおそらくザ・ピーナッツが気に入ったのだろう その年の年末にリリースされた曲がある 
それが7枚目のシングル「手編みの靴下」という曲だ 
この吹き込みの時かわからないがこの詞のクレジットに岩谷時子の名前が出て来る 
原詞は脚本を担当したわが師竹内伸光にもかかわらず・・・・ 
だからレコードのクレジットは作詞 竹内伸光・岩谷時子 作曲 宮川泰となっている

この頃岩谷時子は東宝文芸部にいて宮川泰とザ・ピーナッツとで日本放送で「今月の歌」なるコーナーをやっていた そのなかでたまたま「ふりむかないで」がどうしたわけか当たってしまった そんな関係でレコード化の際手を加えたのであろう

こんな曲だ

小さな夢を編み込んだ 手編みの靴下
心の糸をまきながら 一人で編んだの
いつまでも いつまでも
あの人に はいて欲しいのだけど
通うかしら 私のこの真心

小さな夢を編み込んだ 手編みの靴下
心の糸をまきながら 一人で編んだの
雪の夜 雪の夜
銀色の編み針に 恋の糸
そっとかけて あの人に編んだのよ

小さな夢を編み込んだ 手編みの靴下
心の糸をまきながら 一人で編んだの
いつの日も いつの日も
面影を 胸に抱きしめて
作り上げた 手編みの靴下


最近 ウキペディア等で調べたら作詞のクレジットからそれまであった竹内伸光の名前が消えている 
これはどういった経緯があるのだろう

さてこの曲がその三年後別の形「逢いたくて逢いたくて」として蘇る 
歌ったのは「手編みの靴下」発売の年にデビュウした同じ渡辺プロの園まりだ 
中尾ミエと伊東ゆかりと並んでナベプロ三人娘として売り出したが他の二人がアイドル路線を歩むとは別にその大人びた色気が路線変更を余儀なくしてアダルトなムード歌謡をオリジナルで作らざるをえなかった 
その中で生まれたのが安井かずみのヒット曲「何も言わないで」(昭和38年)でありこの「逢いたくて 逢いたくて」(昭和39年)であった 
宮川泰のアレンジから森岡賢一郎のアレンジが良く イントロ・間奏のペットソロは秀逸だ
 
僕が最初この曲を聞いた時「心の糸が結べない」は「UNCHAIN MY HEART」のうまい日本語訳だと感心していたが 
まさか靴下の糸とは・・・

今度は作詞名が岩谷単独である

愛した人は あなただけ わかっているのに
心の糸が結べない ふたりは恋人
好きなのよ 好きなのよ
口づけをして欲しかったのだけど
(このくだりが元のメロをうまく使って園まりを大人っぽくさせている)
せつなくて 涙が出て来ちゃう

愛の言葉も知らないで さよならした人
たった一人の懐かしい 私の恋人
耳元で 耳元で
大好きと言いたかったけれど
恥ずかしくて 笑っていた私

愛されたいと唇に 指を噛みながら
眠った夜の夢にいる こころの恋人
逢いたくて 逢いたくて
遠い空に呼んでみるのだけど
淋しくて死にたくなっちゃうわ


これが空前の大ヒット 園まり調と言われた この曲でその年の紅白出場

この辺の事情を知っていれば竹内伸光師匠にレコード化のいきさつや 印税がどれくらい儲けたのか聞いとくんだった

(注)最近夏川りみがカバーした「手編みの靴下」には竹内伸光が岩谷時子と並んでクレジットされている













白鷺だより(246)兄貴の為にも真珠も入れる~「飯場の恋の物語」

2017-06-28 11:32:03 | 思い出
 兄貴に為なら真珠も入れる~「飯場の恋の物語」

僕のブログの人気ランキングを見ると こちらの意図とは別に<(85)名古屋 納屋橋
「ドンパラ会館」>というホモねたが常に上位を占めている 
どうも皆さんはこの手の記事が関心があるらしい
そういう人たちの為にYouTubeで発見した面白い歌を紹介しょう 
タイトルは 「 飯場の恋の物語」という
そう裕次郎のヒット曲「銀恋」こと「銀座の恋の物語」のパロディ曲で男と男の恋物語だ

鶴嘴(つるはし)持つ手が しびれるような
汗まで愛しい 日焼けの項(うなじ)
兄貴の為なら 真珠も入れる
秘密は守るぜ この俺も
ローカルで一つ 飯場で一つ
男と男が おにぎり分けた
真実(ほんと)の恋の 物語

誰にも内緒で 縛ってブって
こめかみ震わす 毛深き奴隷
夜のダンプに 乱れ咲く
イブなきエデンの 白菊の花
地方(ローカル)で一つ 飯場で一つ
男と男が おにぎり分けた
真実(ほんと)の恋の 物語

激しく抱かれて 瞼を閉じて
地下足袋の小ハゼを 外そじゃないか
作業を休んで このままで
親方来たって 離さない
地方(ローカル)で一つ 飯場で一つ
男と男が おにぎり分けた
真実(ほんと)の恋の 物語


この過激な詞を書いたのは何でも屋の 秋本 道夫(ウイキペディア参照)
作曲はYMOの 細野 晴臣
原曲をうまく使ってアレンジしている
そしてなんと唄は若き日の  伊武 雅刀 
彼がまだ頭に毛があるころの歌声 「劇団雲」研究生時代にバイトで飯場体験がある  
デユエット曲なので男Aのパートと男Bのパートを歌い分けうまくハモっている

この三人 いずれも僕の同世代のクリエーターの作品である
一度YouTubeで聞いて下さい

白鷺だより(245)父親恋し「母恋吹雪」

2017-06-26 09:52:19 | うた物語
父親恋し「母恋吹雪」

 歌手の三門忠司(昭和19年生まれ)は父親を知らない 
父親は彼を母親のお腹に残して出征して戦死したからである
苦労の末 彼を育て 唯一の楽しみは幼い彼を連れて年に一度の梅田コマひばり公演を見に行くことで 
その日は「明色アストリンゼン」で化粧したらしい
というのが彼の歌の間での定番の喋りだった 朴訥な彼の喋りで これが意外と受けた

さて彼の中座での芝居にレギュラーとして出ていたTという役者も同じ理由で父親を知らない 
同じ境遇だと判ってからは三門とも仲良くなってよく共演した
彼はコツコツ努力して歌手となった三門とは違いいいかげんな役者人生を過ごした 
さる大女優のヒモを辞めてから母親(看護婦)が貰う遺族軍人恩給を当てに飲み歩いていた 僕も一緒によく飲み歩いた
 
そんな二人が好んで歌う歌がある 三橋美智也の「母恋吹雪」だ

母恋吹雪    作詞 矢野亮
 
酔ってくだまく 父(とと)さの声を
逃げて飛びだしゃ 吹雪の夜道
つらい気持ちは 判っちゃいるが
オイラばかりに ああ 何故 当たる

こんな時には 母(かか)さが恋し
なんでオイラを 残して死んだ
呼んで見たって ちぎれて消える
星のかけらも ああ 見えぬ空

徳利かこった 凍れる指に
岩手おろしが じんじとしみる
たった二人の 親子であれば
涙ぬぐって ああ もどる道


現在ではDVという言葉で片づけられる親の暴力 そこには暴力を振るう親の気持ちを汲もうという気などサラサラなく 
「たった二人の親子であれば」と我慢する子供の気持ちも汲むこともない

Tはこれを歌っては必ず泣くのである 特に三番はダメだった
Tは親の顔を写真でしか知らない 父親に叱られたい 酔っ払いでもいいからクダをまかれたい いやな親でも父親だ そう納得してしばれる手で徳利を持って帰る子供の気持ちが泣かせるのである
そんな彼も「たった二人の親子」の母親に孝行することもなく 酒まみれで死んだ
代表作は鶴田浩二主演の「花の生涯」で井伊大老を切った有村次左衛門だ
彼はこんなキラリとひかる脇役を好んで演じた

ところで 三門忠司には「親父のハガキ」という歌がある 
こんな歌聞いて共感する人なんかもういないと思うが こんな歌詞だ

むかし親父が 戦地で出した
金じゃ買えない このハガキ
幼いころの 姉さん宛の
「ゲンキデ アソンデ オリマスカ」
我が子を思う 親心
俺は初めて 読んだのさ

辛いことには 何にも触れず
胸に収めた 心意気
仕舞いに一つ 案じたことは
「カゼナド ヒイテハ イケマセン」
我が子を思う 親心
俺と飲もうぜ 供え酒

これを歌う三門の気持ちは手に取るように判る

僕は長らく抑留されてやっと帰って来た父親の子供として戦後生まれた
いわゆる戦後ベビーブームの真っ最中の子供だ
出征前に結婚した両親 僕も彼らと同じ運命を送る条件は充分あった





白鷺だより(244)「二つ井戸」界隈

2017-06-21 13:27:31 | 道頓堀界隈
        二つ井戸 



 昔 御堂筋が今ほど広くなく地下鉄もなかった時代は堺筋が北(梅田)に行く幹線道路だったので 日本橋辺りが北(梅田)向きの市電の発着場であり 市電の日本橋駅あたりの近辺、「二つ井戸」あたりは大いに栄えた盛り場だったという

東京から来た新派の役者も歌舞伎役者もここ日本橋で降りて道頓堀にやってきた
一方ミナミの人びとは東京に行くには市電に乗り梅田に出て東京へと向かった

「夫婦善哉」の柳吉が素人義太夫大会で「大十」を唸って2等賞の賞品の座布団を貰った古本屋の「天牛」(戦中焼け出され戦後は道頓堀中座前に移る・我々がよく通った天牛はこの店である)があったり 柳吉が蝶子から「おばはん小遣い足らんぜ」とせびって通い「僕と共鳴せえへんか」と口説いた「お兄ちゃん」なる安カフェもあり そして二人の愛の結晶?である「サロン蝶柳」を開いたのもこの界隈である 
現在も道頓堀一丁目東という地名が残っている通り 昔はこの辺りまで「道頓堀」であったのだ

近年 国立文楽劇場の前に「二つ井戸」が復元され その由来が書かれている
二つ井戸は当初道頓堀の東堀止めにあり ご多分に漏れず空海上人が掘り当てたという
二つ並んで掘られた井戸は珍しく寛政8年の「摂津名所絵図」にはその一つに選ばれ「清水にしてこの辺りの民家の用水とす」と記載されている 当時この辺りは高津五右衛門町と呼ばれ「銭屋」があり寛永通宝などの貨幣がこの井戸の水で鋳造された
明治時代になり井戸がこの辺りの都市計画の道路拡張で撤去されることを惜しんだ粟おこし屋「津の清」の当主が払い下げを受け店頭に移設した その井戸に因んでこの辺りを「二つ井戸町」と改称した 第二次大戦末期この辺りは激しい空襲を受け 御影石の井戸枠はボロビロとなり修復不可能となった その後昭和27年「津の清」が店を昔あった清津橋のたもとに移籍した時に復元された 三度も場所を変えた「二つ井戸」はその後も大阪の町の人に愛されながらも平成12年「津の清」が堺に本店を変えた時点で姿を消しました
それから12年後銘板と標柱が見つかったのを期に由緒ある井戸を後世に残そうとこの地に再移籍し復元した

「津の清」で思い出したが最近もお世話になっている真田実が役者になって「ヤンクにっぽん」という剣劇漫談トリオの残り二人が「パート2」と名乗っての漫才コンビが出来た
出てきていきなり「今日はまことにありがとう(あ、ヨイショ)岩おこし(そりゃ)粟おこし(あ、どっこい)ようおこし」と挨拶するツカミでチョットだけ売れた

我々が子供の頃大阪土産と言えば「おこし」で有名なメーカーとして「あみだ池・大黒」「二つ井戸・津の清」「梅仙堂・てんぐ」などがあった
土産でよく買ったのは「あみだ池・大黒」で初めて大阪に来た新聞少年の社会見学に潜り込んで来たときもこれがお土産だった 梅仙堂は梅コマから梅田場外馬券場に行く途中にありその甘ったるい匂いは数々のレースと共に今も思い出す

「二つ井戸」の川向うに(北側)大きな旅館「大野屋」があった たしか作家の松井今朝子の母親の実家だと思うが倒産の憂き目を遭い今は大きなマンションになり果てている

文楽劇場から道頓堀川までの間は小さいマンションの密集地帯だ 一時AVのCDを買いにこの辺りを歩いた 指定の公衆電話から電話した どこかのマンションのカーテンの陰からその姿を見ているのであろう この辺りは意外に用心深かった ようやくOKが出て目の前のマンションに入った 

「夫婦善哉」の夫婦は黒門の折詰め屋の二階を間借りしていた
そこから嫁の目と金を盗み遊びに来るには「二つ井戸」はちょうどいい距離であった

たまには「二つ井戸辺り」を歩いてみようと思う
柳吉のような遊び人に出くわすかも知れない 
 

白鷺だより(243)「上岡龍太郎劇団」と「変化座」のこと

2017-06-18 15:10:12 | 演劇資料

「上岡龍太郎劇団」・「変化座」のこと

「それは幼いころからの夢でした 退屈男に拍手を送り 忠太郎に涙し 吉良の仁吉に感激した あの子供の憧れをいつか舞台で演じて見たいと 長らく胸に抱き続けてきました
その夢が今ようやく実現しょうとしています
」(第一回公演プログラム)

上岡龍太郎にとって自らの劇団をもつということは最大の「道楽」であった

昭和58年6月 (京都先斗町歌舞練場)
第一回上岡龍太郎劇団「つゆあけ橋」二幕十四場「口上」
上岡龍太郎・役者への旅立ち第一回公演
藤本登紀子 牧冬吉 伊達三郎 KBS京都の関係者 東映剣会 主題歌 紙ふうせん
費用として1100万円使って入場料2500円 4ステージ完売でも300万円の赤字

昭和59年6月 (京都先斗町歌舞練場)
第二回上岡龍太郎劇団 「石松意外伝・夢かけ地蔵」池田幾三 作
菅原俊夫 殺陣 
大赤字を出す 個人事務所「上岡プロモーション」を創るきっかけとなる

昭和60年6月(名古屋芸術創造センター・京都先斗町歌舞練場)
第三回上岡龍太郎劇団 1、「こうろコロコロ」元生茂樹 脚色・演出
           2、「木槿の花」  山下耕作 作・演出
1は元松竹新喜劇の演出部だった元生が入り込んだ第一作 「お祭り提灯」の焼き直し
この舞台化で上岡は元生に連れられ寛美と正式に会うことになる
以後交流が続く そんな中で寛美が名付けた「変化座」旗揚げの話が・・・・
2は上岡あこがれの山下耕作にブッツケ依頼して実現した「関の弥太っぺ」の舞台化
山下耕作は舞台演出は初めてだと言ったらしいが 昭和53年梅田コマで「傷だらけの人生」を演出している

昭和60年12月(中座)「変化座」年忘れ旗揚げ公演
「なごりの淡雪」作・演出 元生茂樹
「口上」「気まぐれ倶楽部」
美里英二劇団 参加

昭和61年 ㋄30日31日6月1日 中座 6月21日22日 前進座劇場
変化座第2回公演
1、北村想 作 紅萬子・元生茂樹 演出「笑ってくだけろ」
2、元生茂樹 補綴・演出「おやじの花嫁・息子の嫁」(二階の奥さん)
3、元生茂樹 作 山下耕作 演出「7月の雪」
 桂枝雀 大屋政子 朝丸 松原千明 牧冬吉 

平成2年5月22日 藤山寛美死去

平成2年 6月28日~30日 中座
上岡龍太郎芸能生活30周年記念特別企画
企画・立案 藤山寛美
変化座第3回公演
「兄貴西むきゃ弟は東」館直志 作(「愚弟愚兄」より) 元生茂樹 演出
「上州土産百両首」川村花菱 作 元生茂樹 脚色・演出
桂枝雀(兄)笑福亭鶴瓶(弟)横山ノック(金魚屋)べかこ(牙次郎)上岡(正太郎)
藤山寛美はギャラなしで勘次親分役で出演の予定であった

平成3年 6月14日~16日 上本町近鉄劇場
変化座第四回公演 
1、「大阪ちんぴらブルース」
東京ボードビルショウの「ちんぴらブルース」を大阪弁に変えて
トミーズ雅 健を主役に上岡が演出した
2、「こうろコロコロ」(お祭り提灯)   なぜか元生の名前が消える
横山ノック 藤本登紀子 桂枝雀 ざこば 雀々 吉沢京子 

変化座公演はこの第四回公演で終止符を打つ

その後上岡は次の2本の商業演劇に出演する 
それはかって「変化座」で目指した時代劇の芝居だった
東映映画ファンであった上岡として集大成のような2本であった

平成9年 6月2日~25日 南座
米朝一門勢揃い!「新・次郎長物語 海道一の男たち」沢島正継 作・演出
石松にざこば 上岡は敵役の都鳥の吉兵衛役
枝雀師匠がうつになって苦しんでいるのに雀々がインスタントカメラを持ち花道から登場
文句を言ったら上岡に言われたらしい 
上岡に怒ったら「お前だけはシャレが判ると思っていた」と言われ頭にきて吉村は翌日から欠勤 

平成11年 6月3日~27日 南座
「かわら版! 忠臣蔵」 米田亘 作 中畑八郎 演出
上岡は念願の大石内蔵助役であった 吉良はざこば 浅野は小米がやった

平成12年 4月1日~25日 松竹座
上岡龍太郎引退記念「かわら版!忠臣蔵」米田亘 作 中畑八郎 演出

この舞台で上岡龍太郎は芸歴40年を機に引退した
大石の辞世の句
「あら楽し 思いは晴るる身は捨つる 浮世の月に 掛かる雲なし」

上岡は劇団活動以外に平成元年より平成11年まで続いた関西小劇団対象の「上岡演劇祭」は優勝劇団への賞金は51万円だった それまでの演劇賞の最高賞金額が紀伊国屋演劇賞の50万円だったのでシャレで1万多くした もちろんこの賞金は上岡の自腹であった

芸は一流、人気は二流、ギャラは三流

上岡は「ワシの芸は21世紀には通用せん」と公言して芸能生活40 周年を迎えた2000年4月引退した それ以降一切の出演依頼を断り 表舞台に出ることはなかった

2023年5月19日 大阪市内の病院にて死去 合掌