白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(322)雑感「明日の幸福」

2018-05-30 21:55:48 | 日本香堂
 雑感「明日の幸福」

 僕が初めて北条秀司の「王将」をやった時 「天皇」の脚本は一字一句変えて演じてはいけないとの不文律があり 実際みんな「てにをは」も間違いなく喋っていた その北条天皇と一緒に昭和35年劇作家の地位向上を目指し「劇作家4人の会」を菊田一夫 川口松太郎らと結成したのがこの「明日の幸福」の作演出だった中野実だ 
 この頃の新派は新劇風に台本に忠実に 演出家に忠実にという姿勢であったので 役者が一番偉い歌舞伎系の劇団の作り方とは違い台本至上主義であった 実際この作品の初演の舞台中継を見たが「プロンプ」が入っているとはいえ皆悪戦苦闘台本通り喋っていた
 
資料によるとこの「明日の幸福」は昭和29年 明治座が初演で好評を博し 翌12月新橋演舞場で再演 翌年大阪歌舞伎座で公演(今回の美術を担当の竹内志朗先生はこの公演を見ている)さらにまた翌年名古屋御園座で公演 その後も昭和51年の明治座公演まで中野実は実に8本計12回も作演出を行った(昭和53年没)

ということはこの作品はこの22年間ほとんど手を入れることなく(この作品で親子三代全役出演した、いわばこの作品の生き字引 水谷八重子さんによると)変更は離婚慰謝料の額100万円と新幹線時代になって「特急つばめ」がカットされたくらいらしい 今回八重子さんの意見でその「つばめ」を復活したら一瞬にその時代が蘇った感じがした(といっても国鉄時代を知っている我々だけだが)

ということは歴代の新派の役者さんたちは色々疑問点があっても台本通り 演出家の言う通りに演じ続けて来たと言うことだ 
そしてそこから余計な芝居をせず台本通り演じていれば「笑い」は沸き起きる、「受ける」という伝説も生まれた

それに敢然とたちむかったのがあとを引き継いで演出を担当した石井ふく子だ 
極端な演出は裁判所が全くないバージョンもあったそうだ
彼女は初演の寿敏を演じた伊志井寛の娘だ
今回八重子さんは「監修」という意見を言える立場であったため演出家(成瀬芳一)によくここは「石井流」で行くの?「中野流」で行くの?と聞いていた 聞いていると石井演出は大げさな演技(余計な芝居)で笑いをとるというイメージが強い

さて昭和29年当時超現代劇であったこの作品も時が経つにつれて「時代劇」になってきた 造船疑獄なんて言葉も聞いたこともない人たちにも時代を感じさせることがどうやって伝えるか 依田(吉田) 的山(鳩山) 二木(三木) モデルになった政治家の顔が誰も浮かばない 当時は笑いがきていた政治的会話も通じない スライドでもナレーションでもいい 時代(昭和29年)を表せればいいとは思う

倉の明かりが点いていれば倉に人がいることになり出て行くときには蔵の明かりが消える
この理屈を客が判るのは蔵の窓の位置的に難しく やっと二場の終わりに曰くありげに覗くシーンでやっと意味が判る もちろん最後まで判らぬ客も多い 

人の流れがジグソーパズルのように張り巡らされた構成は見事というしかないが色々疑問点もある

調停委員の二人がおのおの弁護士であり教育家であることは登場人物の紹介のところに書いてあるだけでそんなセリフもなく何者かよく判らない また書記の林は二幕になってやっと書記らしき仕事をするのは何故か?

第2幕2場で寿敏が蝙蝠傘を持って帰る動きをつけたから「名古屋に送る荷物に入っていて蝙蝠傘はないのではないか」と指摘したら認めて変更した どうやら一幕一場二場 一幕三場四場と同じように第二幕も同じ日だと勘違いしていたようだ(二幕一場で寿敏が初めて裁判所に蝙蝠傘を持ってくるシーンがある)

二幕二場で寿敏が長い間こたつの前に座っているとき 火が入っているかどうか気付かなかったのかとおもってしまう

競馬の3=2という表現はおそらく馬単(平成3年より)などない時代だから一着が寿一郎の馬タイセイで2着が本命馬という発想だろう 
作者が競馬などやったことのない人物で その表現の間違いを誰も指摘する人がいなかっただけで 別段目くじらを立てる問題ではない
それより自分の馬が落馬骨折した場合馬主としては殺処分をも考えなければならない
障害レースだから早い目のレースだ 首から望遠鏡をぶら下げている競馬見物している場合ではないとおもうが

人が来るおそれのある座敷の真ん中で埴輪の箱を風呂敷に包むシーンがおかしいとの意見も出た 
いくら蔵と言えどそんなに狭くもなかろう 蔵で包んでくればいいという
昔のビデオを見ると箱を持って出て 仏間にある小ダンスから風呂敷を出している
今回みたいに最初から風呂敷を持って出るからオカシク思うのだ

寿一郎の誕生日(年末)のフリがなく 第二幕が十一月だというフリもないので(因みにい一幕一場二場が九月 一幕三場四場が十月)
淑子の「あせり」がよく判らぬ

埴輪が象徴するものが古き日本の家庭に根付く因習といったものならばこのテーマが今日まで通じるとは思うが「かみなりおやじ」(今回若林豪さんが好演)が壊滅した現在ではどうか


この作品はそれまで新派の狂言が二枚看板花柳章太郎 水谷八重子でおのおの一本づつ主役狂言を並べて公演していたがどうにも客足が伸びず 苦肉の策で二人共演作品として出したらこれが大当たりしたという曰く付きの作品でそれ以後新派の時代時代の危機を支えてきた作品です

今年は新派が130年の記念の年にこの作品を上演出来たことをうれしく思います

(2018 5・7~5・29 日本香堂謝恩観劇会にて上演)

 

  

白鷺だより(321)映画「あいときぼうのまち」について

2018-05-27 14:17:50 | 映画
映画「あいときぼうのまち」



この映画の脚本は井上淳一 
「東電」への「おとしまえ」親分の若松孝二に代わってつけようと脚本を書いた 
監督は福島出身の菅之廣 
結果として「おとしまえ」は付けそこなった感はいがめない

この大島映画風のタイトルは大島の「鳩を売る少年」の代わりに「愛と希望の街」という反語を連ねたタイトルを付けたのとはちょっと違うのではないか 
大島が「愛と希望の街」で「愛も希望もない街」を描いたように今回平仮名だけのタイトルにして何を描こうとしたのか
話は戦中、1966年、地震前 地震後の福島を入れ替わり立ち替わり描いていって一つの結果に昇華していく
さてこの映画の主人公を誰に設定するか色々意見はあるだろうが 僕としては我々の同世代の勝野洋(奥村健次)と夏樹陽子(西山愛子)の二人と見立てたい

見ていてちょっとややこしいので彼らを軸に時間順に整理してみる

昭和20年

4月 福島県石川町の山奥で学徒動員された西山英雄ら中学生たちがウランを発掘させられていた その指揮の為東京から来た将校はこっそりなぜウランを掘っているか教える
彼は戦争未亡人の英雄の母と情を通じており それでこっそり教えてくれたのだ
それによると日本は密かに 早稲田の理化学研究所の仁科教授の指導の元原爆の開発をやっており ウランはその為必要だったのだ 採掘は毎日毎日行われ理研が空襲によって破壊されても採掘は敗戦まで来る日も来る日も続けられた やがて敗戦 将校は家族のもとに帰って行き 噂では戦後 東京電力に天下りしたと聞いた(このあたりをキチンと描いた方がいい) 
もてあそばれ捨てられた英雄の母親は首を括って自殺する

昭和41年

東京オリンピックの二年後 双葉町は原発賛成派と反対派で真っ二つに分かれていた
 英雄の子供の愛子は英雄が原発反対を只一人で続けていたので村八分され仕事も追われ 酒に溺れ 母親は愛想を尽かして出て行く 
仕方なく愛子が新聞配達しながら家計を支えている 
彼女が淡い孝心を抱いていた同級生の友人奥村健次は優等生で原発推進の標語「原子力 明るい未来のエネルギー」で表彰される 
街の小さな商店街の入り口には この標語がアーチ状に掛かっている
愛子は今日も一人そのアーチの下を潜って行く
愛子は新聞配達の食まで奪われる 反対派の父を持つ愛子を雇ってくれるところはもはやなかった 愛子は賛成派に転じて以来 交流を発っていた健次と海に向かう
愛子はずぶ濡れになった身体を海岸の漁師小屋で健次に投げ出す
「なんか潮騒みてえだな」
愛子にはもう健次しかいなかった
この二人は我々の同年代として感情移入が出来る

平成23年(震災前)
61歳になった未亡人愛子(夏樹陽子)はYouTubeでチュニジアのジャスミン革命を見ていた 愛子は怜にフエースブックのやり方を教えて貰う ジャスミン革命の群衆がフェイスブックで集まったと聞き興味をきかれたのだ 愛子はフェイスブックで奥村健次の名前を検索して友達申請をする 東京電力で親子二代で働いていた健次(勝野洋)は息子をガンで失ったばかりだった 二人は出会い そして再び結ばれる
愛子は体でしか健次の心の穴を埋めるすべを知らなかった
やがてその二人の関係は玲の知るところとなる

平成23年(震災後)
怜は見知らぬ男性に身体を売っていた 怜は被災体験を語って男から更にお金を取ろうとする 
それはまるで自分を傷つける行為のようで痛々しい
怜は東北震災義援金詐欺をしている沢田という男と知り合う 
怜もまたその横で募金箱を持って街頭に立つ そのお金は豪華な夕食に消えた

・・・・やがて全てが震災当日に結集する

震災当日(3・11)
この日も愛子と健次は密会していた 健次の運転で二人が初めて結ばれた思い出の海岸に行って思い出の漁師小屋に入る 
沢田のバイクで二人のあとを着けていた怜はいたづらこころで車のキーを抜いて海に投げ捨てる 

やがて14時46分大地震が発生する
車で逃げようとするがキーが見つからない 二人は途中で老人たちを助けながら非難するが力及ばず津波に飲み込まれる

さて映画は成功したのか 
前述のようにこれらの時代のシーンが順不同に出てきて頭の中で整理できないうちに震災のクライマックスとなる
若い二人は祖母を殺した罪の意識をもって生きて行かねばならない
そこには「あいときぼう」もない
 
これでは東電に喧嘩も売れない









白鷺だより(320)梅沢武生聞き書き(2)「出世の稲川」

2018-05-25 10:58:23 | 梅沢劇団

梅沢武生聞き書き「出世の稲川」

今月の新歌舞伎座の梅沢公演のお芝居は「冨美男・かおりの大笑い出世の稲川」だ
江戸落語で有名な「稲川」をおもしろおかしく脚色した梅沢劇団十八番の狂言だ
今回は女性の香西かおりが新門辰五郎の女性版 新門のお辰を演じるのがミソだ

大阪からやって来た稲川は今日も勝って九連勝 意気揚々のはずが江戸では一向に人気が上がらないことを苦にして考え事をしながら歩いていると場所入りしてきた大関の四ツ車にぶつかってしまう 謝れ謝らないの口論の末 近くにいた乞食を怪我させてしまう
四ツ車に決して謝らなかった稲川はその乞食に手をついて謝る 
「羽織の裾に土が・・・・」
「十日の相撲の九日目までだれ一人土を付けた者がいなかったのに おこもさんに土付けられました ははは」
それを通りすがりに見ていた新門のお辰は帰って行く稲川を見送ると その乞食に耳打ちする・・・・

梅沢劇団の後見人梅沢武生は第三部の「華の舞踊 絵巻」の中の相舞踊一本だけの出演だが
朝一番に楽屋入りして芝居で誰が休演しても代演するつもりでスタンバイしている

このお芝居「出世の稲川」は他に「男の錦絵」「関取出世幟」などとタイトルを替え何度の公演している劇団の十八番の芝居である 
僕も梅コマ、明治座 中日劇場などで上演を手伝った 武生後見人の話によると 彼はこの芝居のほぼ全役を経験している

まず劇団に入ったばかりの頃は稲川の弟子で「はんしょう」役 弟子のタコをやる先輩と同じ動き、セリフを言っていればいいという役である 次に廻って来たのは四ツ車の弟子でぶつかったと因縁をかける役で 稲川と喧嘩になり足蹴にされ、その体の上に足をかけられ座長であったおやじ、清の名セリフを聞いていた 次に廻って来たのは四ツ車がブツカルのではなく全身イレズミのやくざがぶつかるバージョンもあったらしく 白塗りした背中に先輩が墨でイレズミを書いてくれたが(もちろんマジックなど気の利いたものもなく)芝居中擦れてまっくろになった背中を見せ啖呵を切ったこともあった ようやく役らしい四ツ車の役が回って来た 周りにこの役をやれる風格のある役者がいなくなったからである そして稲川役、新門辰五郎役とどんどん出世していくのだが 長屋のおかみさんだけはお母さんの龍千代さんの持ち役で一度もやらせてはもらえなかった 稲川に応援すると約束をしたものの米を買う金がない そこでコメ砥ぎの手伝いをするふりをして少しづつ米を集めるのを面白おかしく身振りで見せる芸にはいつも感心させられていたという

この芝居一応時代劇になってはいるが 原作は明治期に入ってからの「落語」である
落語と言ってもいわゆる落とし噺ではなく どちらかというと人情噺のジャンルに入る
したがってオチもサゲもない


「大阪は天下茶屋に御座います尼寺安養寺に墓がございます 池田から出ました稲川重五郎のお話で「関取千両幟」のモデルになった大阪相撲さわりの部分でございます」(円生)
この円生が円蔵の頃人気が出る前の頃 見知らぬ男に寄席の前で声を掛けられ蕎麦を一杯ご馳走になった モリ蕎麦を一杯づつ食べながら「あんたは必ず大看板になるから一生懸命やって下さい」と言われた経験を持つ

そのころは東京相撲と大阪相撲とが両立していて今のように東西相撲協会が統一されるのは大正14年 財団法人日本大相撲協会が認可され 昭和2年大阪相撲協会が解散して大日本相撲協会に合流するまで待たねばならない 

この落語はYouTubeで「千両幟」三遊亭円生 雷門助六 聞き比べ落語名作選で聞ける

今回のお芝居のオチは稲川は優勝した暁には土俵に上がって是非挨拶を・・・と最近の女性と土俵問題を皮肉ったものになっている
これでこの役を女性にした意義あるものになった

(2017 5月21日 新歌舞伎座 夜の部観劇)


白鷺だより(319)朝丘雪路逝く

2018-05-20 16:20:27 | 人物
 朝丘雪路 逝く

「明日の幸福」の稽古で広間の壁に飾る額の絵で監修でもある八重子さんが「これは東郷青児の絵でなくっちゃ」とこだわった 若い舞台監督はキョトンとしていたが「二科会のドン」と言われた東郷青児の娘たまみが水谷良重 朝丘雪路とともに「七光り三人娘」として売り出され歌手デビューしたことなど知るよしもない 丁度「明日の幸福」の初演の頃の話だ

西城秀樹の死亡ニュースの陰で星由里子さんが大きな報道もなく亡くなったようにもっとひっそりと朝丘雪路が亡くなっていたというニュースが入って来た
晩年アルツハイマー病と闘っていると聞いてはいたが病院ではなく旦那の津川雅彦の看病の末ご自宅で亡くなったという

星さんとは梅コマ昭和49年 花登さんと引っ付いたと言われる「じゅんさいはん」は近くにいたがまだコマにも入っていなくて(この公演を機に花登の前妻由美あずさ派であった大村崑は間に入って花登と袂を分かつ)結婚第一作昭和51年「おそめはん」は担当せず 彼女がほぼレギュラーだった北島公演ではショー専門だったから芝居は縁がなかったので ひたすら花登さんの著作権継承者としてのお付き合いだけだった

平成11年19月 中座最後の公演は星さん主演で例の「じゅんさいはん」だった 
蝶々さんがゲストに出た回を一番後ろで立って見た 蝶々さんは「だれか中座をこうてえなあ」と叫んでいた

朝丘さんとは梅コマで一度だけ お付き合いしている

昭和52年5月の女優名作劇場「マダム貞奴」
杉本苑子 原作 田中喜三 脚本 戌井一郎 演出
共演 河原崎国太郎 勝呂誉 大出俊 嵐芳夫 紀比呂子
併演は構成演出 山本紫朗「風流花拍子」
のち扇雀が得意とした「深川マンボ」を初めて見た

このあとこの梅田コマ女優名作劇場は岡田茉莉子 司葉子 有馬稲子らに引き継がれる

いいところのお嬢様ってこんな感じかなと思わせるおっとりとした方だった
舞台監督に河村弁三郎がいて 何かあると彼に言って通訳してもらった
河村さん(べんちゃん)はその後現場を離れて津川さんのグランパパのスタッフとなった
宮永雄平と共に我々新人のあこがれの舞台監督だった

平成3年 朝丘さんが山本譲二と「滝の白糸」をやると聞いて御園座を覗いた
津川さんが新派の名作を新しい演出で見せる「新波」公演の4回目(明治一代女 五辨の椿 お蔦主税)
津川さんの意気込みだけが印象に残った


朝丘雪路 

宝塚の芸名 誰にも汚されていない道をイメージ

親が寝静まった頃 内緒で見ていた「イレブンPM」に大橋巨泉と一緒に出ていて「ボイン」の流行語を拡げる
 
深水流という日本舞踊の流派を創設 自ら家元(深水美智雪)を名乗る

「七光り三人娘」は服部良一門下の三人が それぞれ伊東深水(画家)14代守田勘彌 初代水谷八重子、東郷青児(洋画家)の愛娘であったことを逆手に取り水谷が自虐的に命名、
東郷たまみが父親の画業を継いで歌手を辞めたが 良重は母親八重子の名跡を継いで新派を背負っている 

歌手としてのヒット曲は「雨がやんだら」「ふり向いてもくれない」


2018年5月20日 4月27日に死去していたことを報道される 82歳没



白鷺だより(318)澁谷久代著「ぼちぼちいこか 今日も前を向いて」を読んで

2018-05-19 10:15:39 | 読書
澁谷久代著「ぼちぼちいこか 今日も前を向いて」を読んで



元松竹新喜劇女優 滝由女路こと澁谷久代さんは二年前2016年5月「膵臓がん・ステージ4」を告知された この本は彼女の壮絶な闘病記のように見えるが そこは「喜劇役者」渋谷天外の女房、楽しくおもろい闘病生活を綴っている
告知を受けた彼女が一番思ったこと 澁谷天外こと「おっちゃん」を残して死ぬわけにはいかない おっちゃんの芝居の切符の手配はどうするのか 犬の世話は誰がするのか
この年は天外と結婚して25年目を迎える年だった

医者に余命を聞くと「三か月ですかね」
ステージ4の5年生存率2%未満

とにかく死ぬわけにはいかない
どうせ死ぬ命みんなで楽しんだらええやん

まず やりたいことをやっていこう

バンド率いて歌いたい
実はこの年BOROの協力のもと夫婦の25週記念としてネット配信する積りで吹き込んだアルバムが企画中であわててCDにしたばかりだった アルバムはジョー中山の「ララバイオブユウ」 越路吹雪の「ろくでなし」「大阪の女」「浪花恋しぐれ」(天外セリフ)という曲が収められている それを中心としたライブ 
8月「澁谷久代オンステージ<夢の路>」道頓堀ZAZAハウスにて
BOROらのゲスト 一流ミュージシャンによるバンド
わずか150といえそなかなか小さな劇団では満員に出来ないZAZAを満員札止めにして
公演は成功に終わった 急遽販売したCDも売れに売れた

この公演の二日前 これも生まれて初めての経験をした 映画出演だ
井上泰冶監督作品「すもも」がそれだ 幕末の信州が舞台の身障者と教育がテーマの時代劇で里見浩太朗さんがちょこっとゲスト出演した映画で天外夫婦は農民の夫婦の役だった天外が監督に事情を話し 「夫婦で画面の隅に出して」と頼んだ結果だった

さらに9月なんと25年ぶりに女優として舞台に立った
新喜劇の曾我廼家寛太郎が日頃演技指導しているサークルと新喜劇の若手がコラボする公演で題名は「裏町の友情」演出は天外で 昔娘役ででた芝居なのだが今回はその母親役
久しぶりの舞台は全く声が出ず 素人さんの中で一人うわずって天外に「お前あがっているのとちゃうか」と言われる始末

さらに翌2017年6月 アメリカ・ロスアンゼルスのワインバーでライブコンサートを行った 「ララバイオブユウ」「ろくでなし」「愛燦々」「サン・トウ・アマミー 」「フライミートウザムーン」これらを普段はワインを提供しそのバックで生演奏を聴かせるバンドをバックに歌い上げた

これらの目を見張る活動は彼女のFacebookで我々はリアルタイムで知ることが出来た
その破天荒な生き方に感動した読者が日に日に増えて行った

その文章のラストには
「今日も元気玉イッパイいっぱい集めて楽しく過ごしましょうか
よろしゅうお願いいたしますぅ~~!!」

で締めくくられる

彼女 澁谷久代は「高田浩吉劇団」のバンマスと女優の間の子供で母はやがて松竹新喜劇に入団して「瀧見すが子」と名乗って幹部女優の一人として活躍していた 高卒の頃(1975) 母が藤山寛美に「そういやあお前の娘どないしてるねん 女優にならへんのか?」と言われ すでに呉服屋に就職を決めていたのを辞めて入団 滝由女路と名乗る 名付け親は寛美と当時劇団付の作家香川登志緒先生 

その翌年2代目澁谷天外の息子天笑が入団
母親に「気いつけや あの男は」と小指を立てて「あれはこれが早いからな」
当時天笑は学生時代「子供が出来て」結婚した嫁と二人の娘がいた
劇団の二世通し 寛美はこのコンビを売り出そうと画策 共演も増えた
そして若い二人は結ばれるべくして結ばれる
これが寛美にバレて 当時は劇団員同士の恋愛はご法度、(自分のことは棚に上げて)すぐにほされた
 
当時天笑が干されて東京に行ったという噂は近くにいた僕らにも聞こえて来た 
しかしそれが劇団内恋愛だとは知らなかった
そして東京に出た天笑はとある有名女優との恋に落ち マスコミを賑わせる
kとの同棲だ 僕はこの頃本多劇場に梅沢公演を見に来た二人を見ている
kが大スターのように立派なコートを羽織っていたから お正月公演だったと思う その脱いだコートを後ろで抱えていたのが天笑だ 
これによって天笑は新喜劇を休団させられる

実は後に中座の新喜劇公演でこの二人を共演させたのは僕だ 
天外こと澁谷喜作 作の「おくてと案山子」という本だ
ダメで元々の提案だったが 巧い具合に誰も反対するものがいなくて拍子抜けだったことを覚えている
この本を読むと滝ちゃんは反対だったろうなあ

僕が新喜劇に関わった頃は滝由女路はもうすでに劇団を辞めていて芝居でご一緒したことはなかったが天外が個人事務所「オフィスてん」を作った頃はよく今里のマンションにお邪魔したのでちょうど同居し始めた天外の娘さん共々お世話になった

今月おっちゃんは東京に他流試合に出掛けている
友人の勝野洋さんの自主公演「スナック・ラ・ボエーム」に出演中だ
なんとうらぶれたオカマ役だ
稽古が長いため その間滝ちゃんは病院に入って おっちゃんの帰りを待っている

この5月で告知から丸3年を迎える
余命3か月が3年だ

         (5月19日)

追記
6月8日 澁谷久代さん死去

     これまでの頑張りに拍手を送りたい
     そして残された天外氏の頑張りに期待したい