白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(398) 「お祭り提灯」考

2021-11-23 11:31:34 | 松竹新喜劇

  「お祭り提灯」考

(写真は映画 漫才提灯 より)

 この「お祭り提灯」は新喜劇がブロードウェイにだしても恥ずかしくない狂言だとだれかが言っていた

 ところが松竹座の新喜劇の錦秋公演が終わったら僕が観劇したことをFBで知った若い役者たちから「お祭り提灯」はいかがでしたか、との質問や「誰がやっても面白い訳ではない」ことが思い知らされましたとの悩みの相談を多く頂いた

確かに今回の「お祭り提灯」は全く面白くない 普通なら追っかけで最高に盛り上がるのに さほど満員とは言い難い客席は白けっ放し これはどうしたことだ

ましてやこの「お祭り提灯」は来春南座でも再演が決まった狂言だ 

そうだ! 思い出した 

面白くない理由の一つ、徳兵衛の金が必要な「枷」を付けた方が「出来心」よりずっといい 例えば母親が病気で直すのに大枚の金がいることにしたらどうだろうと提案したヒントはこの短編映画だ 病の床に伏した老母を診察していた医者竹庵が去る処からはじまる 2両の薬代さえあれば母親の病気は直ると言われ悩む提灯屋夫婦、この振りが効いてくる

この映画「漫才提灯」は1956年6月封切で

原作 館直志 脚本 松村正温 監督 天野信

配役

提灯屋弥吉 南都雄ニ

女房おすみ ミヤコ蝶々

妹 お光  小町瑠美子

丁稚三吉  西岡タツオ

幹太    秋田Aスケ

佐吉    秋田Bスケ

山路屋幸兵衛 中村是好

原作も短いがこの映画も42分の短編だ

この映画の良さは母親の病気のおかげでどうしても金が必要な夫婦に最後に山路屋がいやいやゴモク箱代として出すところだ

それに比べて今回の舞台の山路屋はこのママだと町中の人達に集団リンチされてもおかしくない極悪非道の金貸しにしてしまった

その上ご丁寧にも山路屋の嫁、息子、若嫁まで新たに出して家庭でも嫌われ者扱いされていることを強調している

思うに山路屋幸兵衛は所詮「鬼ゴッコ」の鬼で ひとのいい親父に過ぎない 今回はあまりにも極悪人にし過ぎた

 この「お祭り提灯」はもともと家庭劇時代の昭和4年館直志が書いた「渦」という茶碗屋を舞台にした現代劇だという 家庭劇で何度か上演されていたが戦後新喜劇が誕生した後(これは想像だが文芸部の星四郎が命令されて)時代劇に翻案させられたとおもわれる 以降上演の度に星さんに脚色料が入る (こういう仕事が回してもらいたいものだ、松竹さん)

その頃のベストメンバーがこれだ

提灯屋徳兵衛   曽我迺家明蝶

山路屋幸兵衛   曽我迺家五郎八

幹太       高田亘

佐助       曽我迺家五九郎

おすみ      石河薫

お近       宇治川美智子

丁稚三太郎    曽我迺家十吾

昭和30年代後半十吾さん退団により 三太郎は藤山寛美の当り役となる

二代目天外は座長だからこんな「追い出し狂言」には出演しなかった そのかわりこのベストメンバーを大事に使って株式会社松竹新喜劇を作るぐらい劇団を育てた それが座長の仕事である

この「お祭り提灯」はお祭り当日の話であるがその雰囲気が全く出ていない お祭りのお囃子に乗って人々は走り回るのである 町中の若者が集まって本物の楽器(太鼓、三味線、笛など)で生演奏出来たらもっと盛り上がるのに

追っかけが終わって提灯屋夫婦には母親の薬代が転がりこんできたし、フトンを奪われそうになったおしげさん親子の借金も山路屋が払った提灯代でチャラとなるし 誠にいいお祭り日和でした(そういえばおしげ役の璃賀さん怪我して休演だって、お大事に)

閑話休題

松竹のWEBコラム「余白の楽しみ」(和田尚久)の第二回目追いつ追われつを読んでいるとまさしく「お祭り提灯」の話で何年か前に観た演舞場で婆さん(世話人の一人)の紅壱子の走りっぷりを絶賛していた 本人(紅)に聞いてみると千草英子さんが演っていたのをたまたま見て面白かったので真似しただけさ と言われた こうして芸は伝承されるんだと思った

 

 

 

 

 

 

 

 

 


白鷺だより(397) 松竹座 松竹新喜劇 錦秋公演を観て

2021-11-11 09:45:39 | 松竹新喜劇

  松竹座 松竹新喜劇錦秋公演を観て

 コロナのおかげでアトリエ公演から約一年、本公演なら二年ぶりの松竹座公演となった松竹新喜劇であるから是非とも観なくてはならないと制作のMさんにお願いして席を用意して貰った 新しく蘇我迺家を襲名した三人も観てみたい

 出し物は朝ドラ「おちょやん」(そういえば新喜劇にとって何の効果もなかったなあ)の中で新喜劇と思われる劇団、鶴亀新喜劇の旗揚げ公演の演目だった「お家はんとお直どん」と相変わらずの「お祭り提灯」である

ブログの(394)おちょやん(5)にも書いたが「お家はんとお直どん」は新喜劇創立二年目の昭和25年11月中座にて初演

その時の配役は

伊藤庄一郎   曽我迺家明蝶

弟 芳夫    藤山寛美

お家はん てる 曽我迺家十吾

辻直吉     渋谷天外

直吉娘     宇治川美智子

初演は好評のうちに終り翌26年の南座、御園座でも再演12月でも創立3周年記念公演でも再演となった しかしこの間劇団では芝居以上の「揉め事」が起こっていた 座長天外がよりによって座員(九重京子)と出来てしまい5月には出産の為休団12月には出産するという事態にまでになる しかし本妻である浪花千栄子は離婚を承知せずしかも劇団に居残り続けるといい張る

尚浪花千栄子は出産の翌年4月まで在籍した

結局浪花千栄子は二人目の喜作(現三代目天外)が産まれる年まで離婚しなかった 長男成男は婚外子であった やっと晴れて夫婦となった天外は同じく結婚式を挙げていなかった曽我迺家五郎八と共に中座で合同結婚式を挙げる

さてこの「お家はんとお直どん」はその後も十吾さん在団時は何度も再上演されていたが十吾さんが辞めてからは上演はなかったが 昭和53年南座にて十吾さん以外で公演されたのが残っている

ビデオ化された その時の配役は

庄一郎  藤山寛美

弟芳夫  中川雅夫

辻直吉  伴心平

娘妙子  御園恵美子

お家はん 酒井光子

やはり十吾さんなしではこの芝居は成立しないことが判り封印された その芝居の再演なので現存の戦力を最大限生かすならばお家はんを文童に回して天外が直吉を演るとばかり勝手に思っていたが  な、なんとお家はんを井上恵美子(いつの間にか名前が変わっている)を演ると聞いて まさか座長である天外が「お祭り提灯」の金貸し一役で済ますとは夢にも思わなかったのでショックを受けた 劇団員に聞いてみると天外が文童と共演NGなのだそうだ そういえば昔僕の芝居で二人が共演した時に思い切り文童にバカにされていたっけ

今では十吾さんの演技を見る事は叶わないがこの「お家はん〜」の芝居は観てみたかった そういう意味で弟子の文童さんのお家はんは見てみたかった

なおタイトルは「おいえはん」と言っているが正しい大阪弁は「おえはん」である このハンナリさに意味がある

もう一本のあいもかわらずの「お祭り提灯」

この狂言を初めて日本香堂で上演した平成16年、ラストの追っかけに客席が割れんばかり拍手と笑いとどよめきに包まれたことを忘れることが出来ない それがこの「しらけ」っぷりはどうだ あまりにも辛い

僕だったらお囃子を生演奏にするとかもう少し工夫をするだろう 少ない客ながら「追っかけ」はもう少し盛り上がってもいい 見る限り半分は白けてみているだけである

徳兵衛夫婦も母親が重病で高い薬がなければ死んてしまうみたいな金が必要な振りが必要だろう そうでなければ単に出来心だけでは成立しない

次の南座でもこの「お祭り提灯」を演るらしい 是非違うバージョンの「お祭り提灯」となって欲しい

「お種仙太郎」を文童に任せて まさか天外はお祭り提灯だけではないだろうね

おっと忘れるところだった

曽我迺家の三人の勤務評定は

一蝶は幹部俳優という自覚がみえない もっと思い切り良く演ればいい

桃太郎はいずれこのキャラクターが活かせる芝居に当たるまで我慢、我慢

いろはは役に恵まれてまあ順調な出だしだが 先輩女優の犠牲の上だと常に思って下さい

 

 

 

 

 

 

 


白鷺だより(396) 細木数子の死

2021-11-10 16:52:48 | 人物
      細木数子の死
 
 細木数子さんと初めてお会いしたのは昭和54年梅田コマの島倉千代子公演であった それまで島倉千代子公演は東京では新宿コマ、大阪では新歌舞伎座での公演がキマリだったが島倉が借金問題(4億と言われた)で揉めその処理会社(借金の立替、返済会社、ミュージックオフィス)が彼女のマネジメントをすることになり東西とも公演はコマでやることになった
その会社の代表が細木数子という女性でありマスコミが伝えるようないかにも「ヤクザの情婦」然とした人であった
実際細木は当時島倉の借金を立て替えた堀尾某という小金井一家の幹部である男の情婦でありサバークラブを経営していた女であった
彼女は「光星龍」なるペンネームで作詞や島倉のショウの構成、芝居の原案などに名を連ねていた
島倉さんの芝居はそれまで新宿コマは谷口守男、新歌舞伎座では塩田誉之弘だったが両コマとも塩田誉之弘となった
塩田先生は鶴橋のお茶問屋の息子さんで家庭劇文芸部から一本立ちして新歌舞伎座などで仕事をしていた
僕と塩田先生はトップホット時代に一緒に仕事をした仲で気心が知れており その頃は株に凝っており稽古場にラジオを持ち込む入れ込みようで稽古は自然と僕が仕切らざるを得なかった
細木数子(光星龍)はショウでは口を出すが芝居では流石にプロの我々には口出しも出来ず 我々に擦り寄って来てはその頃「勉強中」だった占いをやってくれたが これが後年天下を取ることになるとは夢にも思わなかった
 
光星龍名の作詞作品
昭和54年「噂」「女の私が得たものは」
昭和55年 「春秋の舞唄」「千歳扇の舞」「女がひとり」「綱わたり」
いずれもヒットせず
 
 
島倉が借金を返したのかいつの間にか島倉の前から姿を消したと思った頃(本当は島倉がいくら返しても無くならない借金を疑い所属レコード会社コロンビアに肩代わりしてもらい島倉が会社を出た) 
六星占術なる占いの本がベストセラーになったかと思うと
「六星占術」ブームを巻き起こし あれよ、あれよという間に人気占術師となった(1984)
その素性と風貌によりブームはそう長くは続かないと思っていたが
何と亡くなるまでそのブームは続いた
 
そして「大殺界」を経てマスコミに積極的に進出 高視聴率を取るようになった(2003年頃から)
 
やがてその人気が頂点になった頃 本業に専念するという理由で次第にTV出演から遠ざかり
2021年11月8日呼吸不全の為死去 享年83歳
 
        合掌