白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(390) 曽我迺家五郎の死

2021-07-17 09:56:44 | 松竹新喜劇

白鷺だより(390)  曽我迺家五郎の死

低迷を続ける松竹新喜劇にかすかな光が射した(?)
今度の11月の松竹座公演で曽我迺家の襲名が行われることが決まった
有望な若手?、植栗芳樹と竹本真之、桑野藍香の三人だ
植栗なんぞは新婚早々自分を捨てて金持ちの男に走った元女房に一泡ふかす絶好のチャンスだ
ぜひ頑張ってもらいたい



昭和23年11月曽我迺家五郎が72歳で阪大病院で死んだ時、いかにも巨星墜つ!!という感じで戦後の紙不足の折にも関わらず号外が出た

その時曽我迺家明蝶の説によると天下の松竹が借金のカタに五郎劇の台本をぜんぶ持ち帰ったという お見舞い金20万円がその借金に変わったのだ
事の重大さに気付き金を返し台本を引き上げたというが果たしてこの話は本当なのか? 
噂では2つの全集(大鐙閣「曽我迺家五郎喜劇全集」、アルス出版「曽我迺家五郎全集」)に収録されてない作品は返していないという これらの資料は松竹の資料室に眠っている?
ともあれ五郎側に松竹に対して遺恨だけが残ったのは事実だ


この前年に五郎劇団の大スボンサーだった堺天薰堂の鬼頭勇治郎は自ら開発、販売していた「毎日香」の権利を東京孔官堂(現日本香堂)に譲り渡して悠々自適の老後を送ろうと考えていたのでいかに病気が長引いていたとは云え金に困ることもない筈なのに 恐らく台本を買い戻すにも勇治郎の資金を使ったと思われる

(鬼頭家の言い伝えでは勇治郎は同郷堺の五郎劇団の大スポンサーであり「一堺漁人」という名前で台本を次々にしたため演出もしたと云う)

さて五郎の死後の劇団をどうする?

実は二代目五郎を名乗ったのは二人いた
一人は五郎の姉の息子で蝶太郎、もう一人は五郎の未亡人、和田秀子さんだ

蝶太郎は芝居が上手くなく五郎から「役者はやめろ」と云われ釣り堀屋なんかやっていたのを五郎がなくなった翌年呼び戻された そして新喜劇の創立メンバーだった曽我迺家大磯が翌24年やめて後見人になって芝居の一からやり直させ五郎の型を全部教えだんだん上手くなった 
押し出しはあるし調子はいいし顔も五郎に似ていた
襲名興行は東京三越劇場、大磯、桃蝶、秀蝶らがメンバーだった
大磯、秀蝶らの元五郎劇団員の新喜劇大量脱退は天外が女形に対して扱いが悪かったからという定説は間違いで もしかしたら新劇団立ち上げに馳せ参じたからではなかろうか
その後ときたま巡業もいれて三越劇場で常打ちしていたが残念ながらこの二代目は三年後の昭和26年に56歳で早死にした 日に日に腕を上げ死ぬ前の舞台は桃蝶曰く「本当にうまかった」
勿論この公演、劇団は松竹は一切関係していないので演劇史から消えている

亡くなったあと残った残党は昭和27年名古屋大須に出来た新歌舞伎座のこけら落としに招かれ、そこへ大阪の奥さんが来て 残った元座員の生活の保証を考えて自ら二代目曽我迺家五郎を名乗る事になって あっと言う間に奥さんの二代目五郎劇団が出來あがった
しかし奥さんは若くて美人だったのでワザと顔にヒゲなどを描きハゲカツラをかぶった男装主役をみせられた客には哀れを誘ったというし それ程 長くは続かなかったと思われる
上記の3名の他、弁天、泉虎、寿栄蝶など地味なメンバーであった

少し年月を戻す
松竹は五郎が亡くなった1ヶ月後 昭和23年12月「家庭劇」の十吾、「すいーとほーむ」の天外、浪花千栄子、藤山寛美らに加え「五郎劇」から明蝶、五郎八、鶴蝶らを入れて「松竹新喜劇」を発足する 

結局 新生五郎劇が名古屋以西に来ることはなかった

注 新喜劇創立時 五郎劇団から新喜劇創立に参加したのは
明蝶、五郎八、鶴蝶、大磯、秀蝶、水扇、三郎、蝶次、小次郎、寿栄蝶

出典 香川登志緒 「大阪の笑芸人」曽我迺家桃蝶との対談 晶文社


白鷺だより(389) 中国共産党100周年を支えた和製漢語

2021-07-02 09:49:58 | 近況
 白鷺だより(389) 中国共産党100周年を支えた和製漢語

 2021年7月1日 中国共産党100周年記念式典が開かれ周近平が高らかに一党独裁の堅固を宣言した 

 1017年(大正6年)周恩来少年は天津の南開中学で学び終え日本に留学すべく第一高等学校と東京高等師範学校を受験するが日本語の習得不足がたたり失敗した
滑り止めに入った明治大学政経科にいきながら東亜高等予備学校に通っていたが母校の南開学校が大学部を新設するのを知り帰国を決意して神戸港に向かう途中に京都によりかねてから愛読していた「貧乏物語」の作者であり「資本論」の訳者河上肇の京都大学での講義を聴いた 
初めてマルクス主義に触れた感動を「雨中嵐山」なる詩作にぶつけた
帰国後彼は南開大学文学部に入学、ちょうど五・四運動が起こり彼は学生運動のリーダーとなっていく
そしてこの五・四運動に積極的に参加したのが中国共産党の前身である「マルクス主義研究会」である

 そのメンバーを中心として細々と活動していたが、1921年(大正10年)コミンテルンの主導により東京帝国大学に留学していた李漢俊の上海の自宅に毛沢東らが集まり中国共産党第一次全国代表大会を開催、結成したのが100年前中国共産党の始まりである

このあとコミンテルンが孫文の革命を支持したため毛沢東らは全員中国国民党に入って活動をする いわゆる第一次国共合作と云われる
その時ソ連から呼び戻されたのがスパイ教育を受けていた周恩来である

 このように当時の新しい事物、思想を日本人が理解するために作られた漢語が和製漢語である 
これにより日本人や中国人はヨーロッパの新しい思想に触れることが出来たのである 中国語翻訳本をもてなかった中国人留学生は日本語に訳された「資本論」や「空想より科学へ」など当時最先端の思想書を読むことが出来たのである
科学、社会主義、共産主義、国家、左翼、右翼、幹部、階級、唯物論、形而上学、共和国など

中華人民共和国の共和国や中国共産党の共産党は紛れもなく和製漢語と言えよう

さて日本では中国に遅れること一年1922年7月15日堺利彦、山川均、渡辺政之輔、近衛栄蔵らが渋谷の高瀬清の間借り部屋に集まり日本共産党を設立したのが最初と云われ来年が100周年を迎える
果たして今回中国共産党100周年の祝辞を送らなかった日本共産党は今回の中国のように華々しく100周年を迎えられるのであろうか?