歌江師匠死す
〽うちら陽気なかしまし娘
誰が言ったか知らないが
女三人寄ったら かしましいとは愉快だね
very good good very good good
お笑い、おしゃべり、ミュージック
明るく歌って Night & Day
ピーチク パーチク かしましい
かしましのお姉チャン 歌江さんが亡くなった 19日の夕方女優のOから「歌江師匠が亡くなったらしいんですけど聞いていませんか?」との電話が入った ご主人の平井さんにきいてもいいんですけど何か斎場の空きが無く今必死で探してはるんで悪いし、何か噂では23日まで空いてなくて仮押さえしてるらしいんですけどドライアイスで冷凍して持たすというんです、という ハッキリ日にちが決まったら電話します と言ったが一向に返事がない あったのは23日の夕方で葬儀も終わった後の事後報告だった 平井さんが人数制限してヒトには言わないでくれと言った為に連絡もなかったのである
極めて少人数の式だったらしく、花江師匠は出席だったが照枝師匠は欠席と「かしまし娘」は揃わなかった
実は平井さんとはお正月に「年賀状じまい」の話をしたばかりだった ずーっと自宅での看病はかなりの負担だと思うしそのことを言うと寂しそうに「だって先に行くわけにはいかないやろ」との返事、明日は我が身の年に近づいた僕の胸にグサッと刺さった
その死は24日最後に所属していたワハハ本舗から発表された「かしまし娘」が松竹芸能のタレント第一号なんて今の漫才しは知っているのだろうか 「かしまし娘」全盛期の昭和31年から昭和56年までマネージャーをやっていた社員はもういない この時松竹芸能の勝社長が「もう25年もやったんやかしましはもうええやろ」とコンビ解消させた真意を知る人はもういない
この時歌江師匠は 何故「かしまし」が突然終わることになったのか悩んで高野山に行きました 以前から親しくさせて貰っていた宝亀院の宮武峰雄僧正に今後どうすればいいのか相談したところ 得度を受けなさいと言われました 得度とは出家のこと、普通なら長年修行しなければいけないのですが彼女のことをよく知っている僧正は「あなたの今までの人生が良い修行になっています」と秀明尼(しゅうみょうに)という法名を戴きました
東京に出て大きなプロダクション( アクターズプロ、社長が自殺)に入って順調にお芝居( 中村鴈治郎、長谷川一夫に教えを乞う)や講演会( 芦屋凡々曰くミヤコ蝶々のスケを引き受けてくれた )をこなしていた頃 ふと昔かしましを辞めなさいと言われた勝社長とずーっと会っていなかった事を思い出し、1995年阪神淡路大震災で家を潰されホテル住まいだと聞いてお手紙をしたためました その手紙が縁で久しぶりに社長に会いました 何がしたいと言われたので 三人で「三婆」を演りたいといいましたが社長は原作者の有吉佐和子さんの娘さんに電話して原作権を押さえてくれました
さてこのあたりから僕と「かしまし」とのお付き合いが始まる この「三婆」(平成8年結成30年記念作) は三人の空白期間を忘れさせる名演技によって翌年には巡業(平成9年) その翌年からは年一本一ヶ月公演が僕の演出で公演が決まった
平成11年 南座 「なにわ三姉妹」
平成12年 名鉄ホール「なにわ看護婦ものがたり」 「花も枯葉も踏み越えて」
平成13年 名鉄ホール「花も枯葉も踏み越えて」
平成14年 西日本巡業 「花も枯葉も踏み越えて」
平成16 年 名鉄ホール「花も枯葉も踏み越えて」再演 「花も枯葉も踏み越えて」 東京三越劇場
平成17年 結成40年記念作 名鉄ホール、南座 「清く正しく美しく」
平成19年 名鉄ホール 「女の花時計」
正司照枝のお別れ(亡くなったことは理解出来たのか)
「穏やかな最後たったようですが 今はただ寂しい」
正司花江のお別れの言葉
「面倒見いのいい芸達者な姉でした、歌江姉ちゃん、ありがとう」
〽 これでお終い、かしまし娘
又の会う日を愉しみに
それでは皆さん、
さ〜よ〜なら〜
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます