白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(439) 北島三郎の漢字一文字の歌

2023-04-27 14:26:40 | 思い出

北島三郎の漢字一文字の歌

北島三郎の楽曲には漢字一文字の曲がかなりの数がある

 僕が初めてコマで北島公演を担当した頃は一文字のタイトルは「步」(昭和51年)だけだった  (昭和45年に「盃」、「誠」をだしているがヒットせず)  そして昭和62 年 デビュー25周年記念曲で一文字の「川」を出す その前年、北島が暴力団との付き合いが発覚して紅白歌合戦を降板した年であった 順風満帆で成長して来た北島音楽事務所の初めの躓きだった しかし北島は記者会見の席で一切余計なことは言わすただ「北島三郎の不徳の致すところです」以外何も言い訳も言わななかった 翌年の正月2日 我々スタッフも事務所のメンバー全員が八王子のご自宅に集合して新たに決起集会を行なった

専属司会の及川洋は川のイントロ前にこんなナレーションを付けた

「貸した情けは流しても 受けた恩義を忘れちゃならぬ 怒涛の道に生きるとも せくな、騒ぐな、男なら 奥歯を噛んて時を待て 男の挽歌、漢字で一文字、川です」

川の流れと 人の世は/ 澱みもあれば 渓流(たに)もある/ 義理の重さを 忘れたら/ 立つ瀬無くして 沈むだろ/ 黙って男は   川になる

この曲は当時の北島の心情を見事に歌い上げてヒットした

その後同じ人生路線の「年輪」がヒットした

「幾星霜の人の世に 耐えて忍んていればこそ 冬は必ず春となる 振り向かず 立ち止まることなく 明日を拓け そこに生きてる者の証しを刻め 年輪です」

「雪の重さを 跳ね除けながら/背伸びしたかろ 枝も葉も/  山に若葉の 春がくりぁ/ よくぞ耐えたと 笑う風 /苦労年輪樹は育つ」

平成になり「山」がでる 

「流れる雲の 移り気よりも/動かぬ山の 雪化粧 /  ガンコ印の 野良着を纏い/  生きるオヤジの 横顔に/  俺は男の山を見た 俺もなりたい山を見た」

ショウの担当としてこの3曲をひとまとめにしてワンコーナーをつくった 

あと同じ路線の「橋」や「竹」などがヒットした

そう言えば一文字の曲としては他に「一」(いち)、「斧」、「鉈」(なた)、「舵」(かじ)、「道」、「狼」「空」、「母」、「峠」、「風」「友」「宴」、「道」「和」、「緑」「友」などもある

難読漢字としては「魂」(こころ)   、「拳」(こぶし)、「纏」(まとい)、「塒」(ねぐら) 、「鬣」(たてがみ)、「轍」(わだち)、標(しるべ)などがある

 

 

              

 

 


白鷺だより(438) 梅田コマ一年生

2023-04-21 16:38:11 | 思い出

梅田コマ一年生

 竹内志朗先生描く昔の梅田コマである この建物の左手には環状線が走っていてそのガード横の通路に楽屋口があった

  • 僕はこの劇場に昭和50年から平成7年までお世話になった いや話はその前年昭和49年からと言っていい(まだトップホットシアターに在籍していた )  中日劇場での「中日喜劇」公演でコマ文芸部のMさんがチーフの仕事に参加した(芦屋雁之助、有島一郎W主役) 翌年(その時はもうトップホットは辞めていた)  Mさんが構成・演出のショウの舞監の話が来た 東宝芸能所属の元宝塚の南原美紗緒を中心とした有名キャバレーを廻る大人向けのショウでコマミュージカルチームのダンサーやヌードさんまでいた   京都、神戸を無事終え東京の赤坂のキャバレーで稽古中、Mさんから電話があり「旅はもういいから明日僕と一緒に打ち合わせに行ってくれ」と云われ旅はもう一人の舞監Tさんに任せて打ち合わせに参加した 行った先は大スター阪妻の旧邸で息子さんの田村高広さんと演出の山本紫朗さんとの梅田コマ6月公演の打ち合わせであった そのまま6月公演に演出部で付いた そして何となくコマの契約社員となった

翌月はまだ短期公演(20日間)だった)北島三郎公演のショウ担当 後に友人となる北島の末弟拓克さんと知り合う

 その頃梅田コマの夏の恒例となっていた渡辺プロとの提携公演(アグネスチャン、天地真理、小柳ルミ子、森進一)を一つも覚えてないのは他の仕事をしていたせいか?

 京阪枚方パークで菊人形をやっていてその期間中コマミュージカルチームのショウをやっていたことがあった そのメンバーの間で公園前の喫茶店「コハク」にかわいい男の子がいると評判になった その道の大家であったMさんと見に行くと なるほどかわいい男の子であった 翌年その子はジャニー喜多川さんに引き抜かれ上京、川崎麻世と名乗りあっと言う間にスターとなる

 Mさんのことをその道の大家といったがMさんは僕には手を出さなかった 名古屋での公演ででも「風俗帰り」の僕を「女臭い! クサイ! クサイ!」とからかったが僕の仕事には一目おいてくれた 同じコマの文芸部のKさんが女子社員へのセクハラで厳重注意されたとき Mチャンはええなあ相手が男だとセクハラにならん(当時) とくやしがった

この年は9月藤田まこと「浪花放浪記」(安達靖人作・竹内伸光演出)、10月美空ひばり「弁天小僧」(まだ哲也さんは出所していない)  11月森繁久彌「にっぽんサーカス物語・道化師の唄」(小幡欣治作・演出)12月Mさん構成演出の「アデュー1975 」12月後半のミュージカル「蟻の街のマリア」は翌年1月公演ミヤコ蝶々「おんな寺」の稽古で不参加

 

 

 

 


白鷺だより(437) ミヤコ蝶々「おんなの橋」

2023-04-18 13:26:45 | 思い出

ミヤコ蝶々「おんなの橋」

芦屋凡々こと中村朋唯さんより古いパンフレットを貸していただいた中に 僕の名前〜演出補吉村正人〜がスタッフの一人として明記されている作品を見付けた 昭和58年10月南座公演「おんなの橋」がそうだ 何故梅田コマ文芸部の僕が松竹の作品のスタッフに入ったたかは記憶にない 当時「売れっ子」だった脚本の大西信行先生の引きか、あるいは制作に故大谷幸一さんの名前があるので彼の引きかも知れぬ 実は僕はこの作品の初演のスタッフなのだ 梅田コマに入ってすぐの昭和52年サンケイホールでの「蝶々リサイタル」の手伝いに行かされてその中のお芝居がこの作品の原型「大阪の橋」であった 第一部で使う屋台を高津小道具に注文したら後に関西美術を興すSさんが「人生双六」で使う屋台を持ってきた そう言えばこの「リサイタル」を制作したのは我らが師匠竹内伸光であり、その事務所「ショウビジネス」のスタッフの一人が大谷さんだった

昭和58年の8月に中座で「おんなの橋」と改題して再演 日向鈴子作・演出 大西信行脚本 この時に当時天笑と名乗っていた三代目天外が出ていて花道で出を待っていた蝶々先生が僕の耳元で「観てみい、親がダイコンなら子もダイコンや、何とかならんか」と言ったのを聞いた記憶があったので新喜劇の公演記録をみてみたらこの月新喜劇は演舞場に出演していて天笑も出演していた では天外=ダイコンの話をきいたのはいつの中座であろうか?

一杯セットの大阪堂島川にかかる水晶橋がいわば主人公  彼(橋)が見守る戦前、戦中、戦後にわたる様々な人生

第一部 いとはんの橋

第二部 かあさんの橋

第三部 たそがれの橋

この「おんなの橋」の大劇場版(中座、南座、名鉄)は好評を得てその後何度も再演された そのうち何度かお手伝いした記憶がある 

ある時大西先生がその後の再演作品に大西信行脚本の名前が無い、名前を復活してギャラを払えと松竹を訴えたことがある 確かに昭和60年名鉄ホールでは「日向須津子作・演出」となっているし、関西の役者岡大介さんより頂いた中座の平成二年の台本には日向すず子作・演出となっている

当時の中座のパンフレットの松竹永山会長の挨拶文によると「今回は日向鈴子ことミヤコ蝶々さんの原作を俊才、大西信行氏がこの公演のために密度の高い娯楽大作とすべく練りに練り上げて脚本化した愛と感動の珠玉編」云々とあって当時一般的ではなかった日向鈴子=ミヤコ蝶々の箔を付けるために大西先生の名を使ったのは明白で例え実際は演出補のOさんやNさんが口述筆記したものであってもこの裁判は大西側の勝利であった 

ここで僕の疑問だが初演のサンケイホールでの「大阪の橋」の口述筆記は誰がやったのか? 怪しいのは竹内伸光先生?

僕の勝手な推論、昭和48年「女ひとり」の大ヒット以来日向鈴子原案口述、竹内伸光台本化 たまには逢坂勉さんが手伝った

因みに昭和58年というと梅田コマの公演記録を見ながら思い出してみると1月鶴田浩二公演「関の弥太ッペ」、3.4月JACミュージカル「ゆかいな海賊大冒険」6月北島三郎公演「北島三郎おおいに唄う」7月細川たかし公演芝居「北酒場」8月中座ミヤコ蝶々「おんなの橋」10月南座ミヤコ蝶々「おんなの橋」11月村田英雄公演芝居「人生峠」12月ファミリーミュージカル「愛のシンフォニー」    よくやるわ!!

 

 


白鷺だより(436) 小松政夫のこと

2023-04-13 10:40:33 | 人物

小松政夫のこと

 平成元年の日本香堂は熊谷真実一座の旗揚げ公演だった この公演が翌年からのコロナ禍の影響で日本香堂の最後の作品となろうとは!  そして翌年亡くなった小松政夫さんの最後の作品になろうとは!!

この公演の顔合わせが終わって小松さんが演出の僕とプロデューサーを呼び役の変更を申し出た この公演は二本立てで一本は岡本さとるさんの書き下ろし明朗時代劇「おくまと鉄之助」と堤泰之脚本・吉村演出の「煙が目にしみる」だ それに熊谷真実の口上、小松政夫の「でんせん音頭」「しらけ鳥」速水映人の女形舞踊、音無美紀子の歌謡喫茶、などのショウが付いた三本立てだ

 小松さんの言い分は先月の博多座公演の疲れが取れす、「煙が〜」の北見役がセリフ量が多く覚えられない、もう一本の時代劇は自分の宛書きに近く頑張って演るのでもっと軽い役に変更してくれという この北見役は小松さんが日頃言っている「自分の演技は笑いの奥にある人間の悲しみを表現することこそが大事と気が付いた 哀愁こそ人間が背負う人生そのものと思った」にビッタリな役だと思っていた僕は何とかやってもらえないかと頼んだがガンとして聞いて貰えない 仕方がないので北見役を曽我迺家八十吉に廻し、八十吉の役をアゴ勇に アゴの役を小松さんにやって貰うことにした したがってこのポスターの役どころが本番とは違ったものになった ところがこの変更はまるで最初から決まっていたかのようにはまった 八十吉もアゴも小松さんもピッタリだ 僕はこの巡業中ずーっと公演に付いて廻るほど気に入っていた 

勿論北見役はあまりにも小松さんにビッタリの役だが これをキチンと演じると二本とも「いい役」になってしまう、まるで小松さんの座長公演になってしまう、これでは新座長の熊谷真実が立たない そこまで考えてゴリ押ししてくれたのか‥‥と気が付いたのは翌年彼の訃報を聞いた後だった

我々の勉強不足で彼が「日本喜劇人協会会長」だったこともその訃報で知ったしかしこの歴代の会長の顔ぶれを見よ!

榎本健一、柳家金語郎、森繁久彌、曾我迺家明蝶、三木のり平、森光子、由利徹、大村崑、橋達也 小松政夫   (現在は空席)

この点で小松は師匠の植木等を抜いた

1942年博多の街で生まれた小松は子供の頃から「蝦蟇の油売り」や「バナナの叩き売り」などが香具師の口上を覚えては友達に披露するような子供だった

 俳優になろうと俳優座の試験に通ったが入学金が払えす諦め、職を転々としたあと横浜トヨペットに就職、トップセールスマンとなり大卒の初任給が1万円の時代に月収12 万円を稼いて何不自由なく暮らしていた頃「植木等の運転手兼付き人募集!やる気があるなら面倒見るよ」との週刊紙の3行広告に応募、  芸能界の夢を諦めきれないでいたのだ 

植木のことを「おやじさん」と呼び実の父親のように慕った 云うことは何でも聞いて「明日からはタバコ辞めろ」と云われた時もスパっと禁煙した

植木の仕事を身近で学び、4年で独立 ユニークなギャグで時代の寵児となった

「どうしてなの おせーて、おせーて」

「イヤ!イヤ! もうイヤこんな生活」

「知らない 知らない 知らないモーッ」 

「シラケドリ飛んて行く 南の空に ミジメ、ミジメ」

しかし彼の本当にいいところは「人生の悲しみを全身から発して芝居をする」舞台の脇役で発揮された

 


白鷺だより(435)ミヤコ蝶々 ひとり芝居とふたり芝居

2023-04-05 09:57:45 | 演劇資料

ミヤコ蝶々「ひとり芝居」と「ふたり芝居」

 僕が梅田コマに入った頃、蝶々先生は日向企画という会社を興し「蝶々新芸スクール」を始めた その頃大阪三越劇場にて「蝶々ひとり芝居」を竹内伸光先生の演出で上演した 僕はコマに入る前に北條秀司先生の「王将」でこの劇場を使った経験があったので少しお手伝いした 昭和51年1月公演「おんな寺」から翌52年12月の「河内の女」の梅田コマの本公演の間のことであろう 残念ながらこの2作共内容も入りもいいものではなかった それから何年かのちこの「ひとり芝居」は美術家朝倉摂との鳴り物入りで名鉄ホールで再演される   朝倉、蝶々の2大女傑の組み合わせは評判を呼び 翌年8月中座での再演が決まった

ここにその中座公演のチラシがある

昭和59年4月5日〜9日   ミヤコ蝶々ひとり芝居 「おもろうてやがて哀し」  日向須津子 作 竹内伸光 演出

(1)赤線の灯が消えて(2)愚かなる母(3)海暮色 (岩間芳樹原作)

そうだ、思い出した3つ目の「海暮色」は先生がラジオドラマでやって気に入った作品でその頃はまだ著作権が浸透してなかったので吉村がでしゃばって原作者を入れることを勧めたのだ

名鉄ホールの「ひとり芝居」は評判を呼んだので翌61年11月タイトルもズバリ「ふたり芝居」を芦屋雁之助の共演で上演した(詳しい事は判らず)

そして昭和61年中座、南座、翌62年12月名鉄ホールでの「ふたり芝居」決定版が上演される 

蝶々、雁之助のふたり芝居 第一話「電話」第二部「親買います」だ

雁之助は蝶々を「喜劇の頂点に立つ人」と尊敬し、蝶々は雁之助を「色んな色を持ち、滲み出るものがタップリある、夫婦愛、男女の愛、肉親愛、仕事仲間などなど様々な関係の役どころを組める方」と高く評価する こんなふたりがガッチリ組む、面白くない筈が無い

このふたりの共通項を挙げてみると                   (1)小さい頃から旅回りを体験していること                                                              - (2)大阪喜劇の土壌で育ったこと                                                       (3)主演、脚本、演出の兼ねることの出来る俳優であること

あらすじ

第一部「電話」                          

 間違い電話から知り合い、奇妙にウマが合いデートを重ねる中年男女の裏哀しい物語

第二部「親買いますか?」

 老女が一人住まいの豪邸に空き巣に入り、逆に無情な子供たちをおどろかせるために誘拐してくれと頼まれる泥棒の話

もうこの頃の僕は松竹の仕事が増えこの作品は観ていない 

中村朋唯さんこと芦屋凡々さんにお借りした昭和61年南座のパンフレットをみてこんな公演があったことを知った なおこのパンフレットには解説を大阪日日新聞の岡崎文さん(梅田コマ文芸部岡崎公三さんのお姉さん)が担当していてこの一文を書くのにおおいに参考にさせて頂いた 感謝