白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(429) 朝日新聞「野球有毒論」キャンペーン

2023-02-26 17:52:07 | 近況

朝日新聞「野球有毒論」キャンペーン

まだ薄ら寒い沖縄に行き、やれ巨人だ、中日だ、広島だとキャンプ地を廻ったがそれにしても日本人は野球が好きなんだなとつくづく思った 朝早くから練習を観るためにだけ遠き沖縄に足を運ぶ人の人数は半端ではない 3月に入るとWBCに参加するために大谷がやって来たらさらにその熱はヒートアップするだろうし やがてそれが終われば日米共にプロ野球開幕となる そして選抜高校野球も始まる それにしても改めて日本人は野球がよくよく好きなんだなと思う

そんな野球に「有毒論」キャンペーンを張った新聞社がある

明治44年1911年8 月29日から9月22日まで東京朝日新聞が「野球と其有毒」と題したキャンペーン記事で2週間に渡って掲載した それは「野球は青少年に悪影響を及ぼし、学生にとって好ましくない活動である」という趣旨で著名人の野球批判や全国の中学校の校長へのアンケート結果などで構成されたものだったが著名人の豪華さに読者は驚いた

まず第一回の筆者が第一中学校校長の新渡戸稲造(そう、あの五千円札の)  新渡戸は自らの学校が野球部をもっており当時早稲田、慶応と並んで人気チームだったからである 新渡戸は「野球は賤技なり、剛勇の気なし」と決め打ち、相手を常にペテンにかけよう、計略に陥れよう、塁を盗もうなど四方八方に目を配り神経を鋭くしてやる遊びで米人には適するが英人や独人には決してできない と説いた あと中学校校長の意見として「全校生の学力低下」「徴兵に合格しない」「選手は悉く不良」、元陸軍大臣で学習院長乃木希典は「必要ならざる運動」と一刀両断だ

朝日新聞は反応の良さに気をよくして満を持して元早稲田のエース河野安通志に「旧選手の懺悔」なる河野が野球の有毒を懺悔する記事を載せた 河野はインタビューは受けたが新渡戸稲造批判しかしていないと記事は捏造であると抗議するが無視されライバル紙東京日日新聞に反論を投稿、それでようやく反論を掲載した(朝日は戦後サンゴ落書き偽造事件も起こす) この事件で発行部数を大幅に減らすことになる さらに「野球をやると利き手が異常に発達して片輪になるので有害」という説に異論を証明するため ライバル紙読売新聞主催「野球問題演説会」に出て両手で投げてみせた 河野はその後プロ野球設立に活躍した 

東京朝日新聞がこのようなキャンペーンを張った理由は大阪で部数を増やしてきた毎日新聞が東京に進出してきて危機感を感じたことが大きい  他には早慶戦が異常な人気で学生野球であるのに入場料を取っていること 無理に留年して職業にしている輩が多く現れたことなど学生野球に批判が高まったことなどが挙げられる

他のライバル紙は朝日に対抗して当然ながら野球擁護に走り、やがて読売巨人軍や毎日オリオンズのように後にプロ野球に参入することになる(他にはサンケイアトムズ、中日ドラゴンズ、がある)

大阪朝日新聞は東京のキャンペーンには乗らず東京の掲載が終わると野球に好意的な記事を増やしていき 4年後の1915年「国内野球を正しい方向に導くため」として全国中等学校野球大会を主催するに至る

 

 

 


白鷺だより(428)立田豊さんのこと

2023-02-01 11:57:53 | 演劇資料

立田豊さんのこと

1935年昭和10年大阪生まれ

父親は当時引き抜いたワカナ一郎らを擁し破竹の勢いだった(当ブログ 引抜き参照)新興芸能が仕切っていた浪花座はじめ道頓堀のいくつかの劇場の棟梁を務めていた そのような環境に育ちながら彼は。演劇というものを見た事がなかった むしろ建築の仕事がしたくって専門の学校に進み、さる建築会社に就職したが3日で家に帰された そんな彼が初めて生の舞台をみたのは無理やりアルバイトとして連れて行かれた中座のOSKの公演だった 19歳の若い彼が若いダンサーたちが繰り広げる華のような世界に惹かれるのは当然のことだった 当時中座を仕切っていたのは藤田大道具という父親の友人が棟梁をやっている会社でアルバイトが終わって正式に中座に就職させられた(1954年) 

そしてその友人が亡くなり中座の後を父親が継ぐことになった(立田組)

10年ばかりした頃 中座で働きながらこっそり京都太秦にある東映の入社試験を受けたことがある 映画の宣伝の仕事がしたかったのである 試験が受かり「出社日は追って連絡する」と云われて待っていたが一向に連絡が来ない たまりかねて電話すると「母親から断りの電話があった」とのこと 母親が父親に相談してのことだった 親にくってかかると昔から会社にいてる人から「東映に入ったら定年まで只のサラリーマン、ここで働いていたら大将、棟梁にもなれる」と諭された 彼の言ったように1972年父親が亡くなり、3年前「立田舞台」と改めた会社の社長に就任した 

昔で言ったら「家業を継ぐ」と云うことだがOSKの華やかな世界にだまされました

僕が立田さんと初めて会ったのは丁度彼が社長に就任した直後で「よっしゃん」と呼んて親しくして貰った

中座と松竹新喜劇はきっても切れない関係だが数々の寛美さんとの思い出を少々

初日の朝、6時ころ大道具を作成していると いかにも遊び帰りの寛美がやってきて「お前らまだやっとんのか?」と云われ「やらな幕あきまへんがな」といいかえした

松竹芸能勝社長曰く「芝居にはダメがつきものや ダメ出されて嫌な顔するのも解るけど なんぼ嫌でもどうせやらなアカンのやったらニコッと笑って受けんかい ほんなら云うたほうかて気持ええ」

新喜劇がリクエスト狂言をやった時、「大道具も舞台に出て道具飾るのをみせてくれ」と云うので「それはおかしい お客さんに顔晒して大道具を飾るんなら役者になってるわい」といいかえした そしたら寛美が「定式幕の前で俺が喋ってる間に幕の後ろで飾ってくれ」と  渋々承知して幕裏で飾っていたら急に幕を開いて「これが大道具の仕事です」と観客に見せ更にマイクを差し出してインタビューを始めた ペテンにまんまと引っかかりました

平成2年     藤山寛美死去(60歳)  中座にて劇団葬 舞台一杯の藤の花

平成9年 中座閉館

同    松竹座開場 大道具一切を担う

平成18年   社長を長男 薫に譲る 会長に就任

平成24年   文化庁長官表彰

平成29年  日本演劇興行協会 表彰

この文章は興行協会会報に載ったインタビュー記事をまとめました