「買い物ブギ」を服部良一が作詞しの時のペンネームは村雨まさをという 本当は百人一首の寂蓮法師の「村雨の露のひぬまにまきの葉に霧立のぼる秋の夕暮れ」から 取ったので村雨まきをだったのに印刷やのミスでまさをとなった まあ服部にとって作詞のアイデアは笠置シズ子が出したのでペンネームはなんでも良かったのでそのままにした
田中弘史さんを偲ぶ会
昨年の6月に亡くなったのに時代はコロナ禍の真っ最中お葬式は勿論さようなら会すら開ける状況ではなく長らく延期されていた田中弘史さんを偲ぶ会が5月12日梅田のビアホールで行なわれ賑やか好き、酒好きの田中さんに相応しい会となった
長らく関西俳優協議会の役員(1970~事務局長、1988~副会長1998~会長、2014~顧問)を務めたので大勢の役者、スタッフ、演劇関係者が集まった
梅田千恵現会長始めベテラン三島ゆり子、中川雅夫夫婦、田中さんの飲み仲間、楠年明、多賀勝一、我らが紅壱子、大竹修造 西園寺章夫前会長、先週難波でお茶したばかりの美術の竹内志朗先生、もと鳥プロの社長鳥取さん 藤山直美の芝居の稽古終わりの大原ゆう、透析中で役者引退の真田実ら
コロナ禍で会えなかった演劇関係者が一堂に集まったことにこの会が開かれる意義があった
亡くなる半年程前だろうか堺市民病院にお見舞いに行ったがコロナのせいで遠くからのお見舞いとなった すっかりやつれて小さくなった田中さんは寂しく笑い 制限時間で帰っていく我々をいつまでも見送ってくれた
思い出話の中で一番多かったのはセリフ覚えの苦手な田中さんのユニークなカンニング方法だった そう言えばセットのアチコチにカンニングペーパーを貼り付け、こんなにも準備をしていたらセリフを覚えるだろうと思わせた
大親友の「部長刑事」の楠年明さんは献杯ならぬ献歌としてアカペラで岡晴夫を歌った
逢いたかったぜ 三年ぶりに
逢えて嬉しや 飲もうじゃないか
昔なじみの 昔なじみの お前と俺さ
男同士で酒酌み交わす
街の場末の ああ縄のれん
梅沢武生聞き書き(5) 富美男VS武生
祖母の家に預けられて学業に励んていた武生は昭和30 年中学を出ると劇団に戻ったがそこは天才子役、弟富美男の人気におんぶに抱っこの劇団だった 芝居感の戻らない武生は口立てで教えてもらう長いセリフもおぼえられず淀みなく喋る富美男と絶えず比較された 判らないことは富美男に聞けと父親は云うしそんなときはセセラ笑う富美男に頭を下げて教えを乞うた
「伊那の勘太郎」の踊りで歌に乗って出て来た富美男に立ち回りのカラミの武生が掛かってヤラれ足蹴にされ下馬になって(それも足が短いので出来るだけ低く)その上で富美男がキマるとヤンヤの歓声とオヒネリの雨、それをマトモに顔に浴びて涙を流した そして「クソっ! いつかこいつより上手くなってコイツをアゴで使ってやる」と決めた
それでも武生は長男だから貰った少ない給料を貯めて弟の好きそうなものをプレゼントしようとする ところが富美男はオヒネリで貰った小遣いがヤマ程持っているので新しいオモチャは何でも手に入った 兄貴の初めてのプレゼントはコルクの玉が出るいかにも安物のピストルだったので富美男は「何だこんな物」とポイと捨てたらしい 武生はその屈辱を一生忘れない
梅沢武生は今や名優と云われているがその影に「クソ生意気」な東北の天才子役、梅沢富美男がいたのである
昭和32年富美男は兄貴たちと同様 学業のため祖母の家に預けられるが大衆演劇の世界は空前の映画ブームで瀕死の状態に追い込まれていた わずかな仕送りでは昌子、智也、隆子、修、そして富美男たちの生活は無理で姉、兄たちは別の親戚に預けなければやっては行けなくなる 昭和36年武生はやっと一座の花形まで出世してそのお披露目に近くまで来た時 家に寄ると髪は伸び放題、服はボロボロ、靴はなく裸足に下駄を履いたが小学5年の富美男を見る 劇団の本拠地である前橋の親戚の家に姉昌子、隆子を呼び富美男の世話をさせた
その年武生は梅沢清から二代目座長を引き継いだ
武生は次々と新機軸を出していく 幕開きは全員で歌い踊る歌謡ショウで開け、キリ狂言はお涙頂戴のズッシリとした芝居だったのを全員が女形の舞踊ショウに変えた 芝居には重きをおかず軽い涙と笑いのものにする
昭和40年中学卒業を控えた富美男は前橋から兄武生に呼ばれ上野に着いた 卵が乗ったハンバーグをご馳走になり小遣いとして1万円も呉れた 暫く楽屋で遊んでいろと云われボーッとしていると(タイミング良く)座員の一人が腹痛を起こし「悪いが替わりに出ろ」とメークをしながら台詞を教えられ、喋ったら福島、前橋、祖母の青森弁まで混ざった東北訛りが受けに受け、だんだん面白くなりそのまま居付くようになった そのうちいやいややった女形が大当り
と ここまで書いていたら16日、早朝妹泰子さんより武生座長が亡くなったとの知らせ、明治座公演中なので千秋楽まで公表が出来ないが 看板(富美男さん)が「吉村君には知らせてやれ」と云うのでお知らせしました とのこと 明治座には初日からずっーと通っていて楽屋入りはしてましたが5日目に倒れ入院そのまま旅立ちました と云う
武生座長の最後が大好きな明治座の舞台で良かったです
大好きな座長に合掌
映画「男の花道」は昭和16年 長谷川一夫、古川ロッパ主演で大ヒット
監督はマキノ雅弘
次年のお正月映画だった 脚本の小国英雄は講談の「名優と名医」から盗んだ
その人気ぶりは翌年6月 大江美智子の鈴鳳劇ですぐ舞台化南座で公演されたことで判る
東京松竹座で一か月60回の続演の記録を打ち立てた
ちなみに瀬川春郎作並びに演出となっている
以降南座では瀬川如皐 名義になっている(大江美智子座長公演に限る)
次に書く梅沢はそれ以外の劇団で初めて南座で「男の花道」を公演したのである
戦後は 昭和31年 中村扇雀 伴淳三郎で再映画化
小国英雄 作 関沢新一 脚色とクレジットされている
扇雀は昭和44年梅コマ コマ歌舞伎で「男の花道」を上演(共演は島田正吾)
この時は小国英雄 原案 巌谷慎一 脚本演出 となっている
コロッケ 梅沢冨美男公演の楽屋にお邪魔して出し物が「男の花道」だったのでてっきりラストの殿様役で出てるだろうと思っていたら芝居は出てないという 僕が来ると聞いて早い目に楽屋入りをしてくれていて僕を待っていてくれたらしい ありがたいことである
モニターの舞台中継を見ながら武生座長は南座公演のことを思い出していた
僕が梅沢劇団に初めて会ったのは昭和59年、その二年後のことである
記録によると 昭和61年7月4日~15日 京都南座
昼の部 1男の花道 2母を訪ねて 3トミー魅惑のすべて 4今模様狸御殿
夜の部 1津田騒動二人娘 2ある夜の忠治 3,4 昼と同じ
これは前年12月梅田コマでやった内容と全く一緒だった
昼の部「男の花道」が著作権侵害(梅沢武生脚本)だと当人(小国英雄と思われる)がチョット筋ものを連れてやってきたが(おそらく南座のことだ 話はつけてあって)客席で大笑いして帰しなに中村歌右衛門は加賀屋歌右衛門にするようにと言ったという
この話を後で調べると歌右衛門は四代目から成駒屋を名乗り それまでは加賀屋だった
突然京唄子の娘さん(せっちゃん)前回の新歌舞伎座に挨拶にやってきて「母は一度ほ梅沢劇団に出たい」と言っていたという話をした
京唄子は中座、新歌舞伎座、御園座までやってきて 座長がサービスで「今日は唄子師匠が観に来られています」と紹介すると大きな拍手をするというのが定番だった 武生座長はいつも一度出て下さい 冨美男と躍らせますからというと「冨美男さんより武生座長と踊りたい」と言っていたらしい
武生さんには唄子さんにこの「男の花道」に出て貰いたいという夢があった
梅沢バージョンでは加賀屋豚衛門(梅沢冨美男)という売れない女形と本物の歌右衛門とを土生玄碩(コロッケ)が間違ったことから悲劇(喜劇)が始まるのであるが京唄子バージョンでは冨美男は豚衛門一役で通し 玄碩共々いざ切腹となった時に歌右衛門が出て
弟子の豚衛門の代わりに踊るという
「誇りはいずれ捨てるもの その捨て場所を選んだだけでござります」
しからばとスックと立って流れる山本リンダの曲で「ウララ ウララ ウラウララ~」
ずっこける一同 幕
この話を武生さんは何度したであろう
想えば大江美智子らの女剣劇芝居に憧れた少女時代
この「男の花道」の南座初演の時は17歳
おそらく小遣いを工面して見ているに違いない
3年後終戦の年に唄子は女剣劇宮城千賀子の劇団に入る
さて新歌舞伎座の公演は新歌舞伎座開場60周年記念とやらで人気歌手の組み合わせ公演が目白押しだ
今回もコロッケ 冨美男の異色の組み合わせの公演であるが 組み合わせの妙なんてものはサラサラなく 芝居以外では共演もなくそれを楽しみにしてきたお客を裏切ることになる
幸い人気者二人で客の入りは好調だというが 疑問の残る公演ではある
(2019年 8月5日 新歌舞伎座 観劇)