今日の続編日記は、私の愛読書、井上靖著『孔子』(1989年新潮社刊)を再読して、論語『天命を知る』の著者井上靖氏のとても含蓄に富んだ解釈のことです。添付した写真は、その著書です。
この著書は、孔子の架空の愛弟子(井上靖氏の分身と考えられ、その語りは彼の想いに他ならない)が、孔子の死から33年後、若い孔子の研究者に向かって語る歴史的人物・孔子の人間像に関する物語です。
私は今再度読み直し熟読してみて、自分自身のブログのタイトルにも拝借している「天命を知る」には、とても奥深い解釈があることを知りました。以下に、その該当する記述を引用・掲載します。
『子は五十歳の時、この紊れに紊れた世の中を、自分の周辺から少しずつでもよくして行こうというお考えを、はっきりと天から与えられた使命として自覚され、改めてそれを御自分に課せられたかと思います。・・併し、天から与えられた仕事であるからといって、必ずしもそれを天が守って下さるとはお考えにならなかったと思います。いつ思わぬ障害が起るかも知れないし、いつ中道で斃れるかも知れぬ。大きい自然の摂理の中で生きている小さい人間のすることである。思いがけぬ障害が、思いがけぬ時にやって来ても、いっこうに不思議はない。だからと言って、己が天から与えられている使命に対して、いささかも努力を惜しんでいけない。・・御自分のお仕事を天から受けた大きい使命だとお悟りになったことが一つ、それと同時に、その仕事が天の弛みない自然の運行の中に置かれる以上、すべてが順調に運ばれてゆくということを期待することはできず、思いがけない時に、思いがけない困難に、いろいろな形で曝されることもあるであろうということを、確りとお悟りになったことが一つ、~この二つを併せて、このことが天命を知るということになるのでございましょうか。』
『天命を知る』との解釈には二つあると、著者井上靖氏は語っています。そのことを知り、今私は愕然としています。この論語『天命を知る』の井上靖氏の二つの解釈の内、「確りとお悟りになったこと」を私は完全に失念していたからです。
私はブログ日記タイトルに記載した通り、その使命(ストリッパー嬢を劇場で応援する)が成就されないこと(悪行客の理不尽な劇場からの排除)を知る覚悟(私自身が観劇を諦める)を、本来の「天命を知る」とは思わず、私は今までその観劇応援の履行できない愚痴ばかりを日記で語っていたのです。
だから、私のブロク日記のタイトルを、不覚にも不徳な私は『天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録』としてしまったのです。
そして今、私の無知を深く今恥じています。さらに、その覚悟がなかった私は、タイトル通りに、今深く懺悔しています。しかし、このブログ日記のタイトルは変更しません。この日記タイトルを毎日観ながら、不徳な私への強い戒めとしたいからです。
この著書は、孔子の架空の愛弟子(井上靖氏の分身と考えられ、その語りは彼の想いに他ならない)が、孔子の死から33年後、若い孔子の研究者に向かって語る歴史的人物・孔子の人間像に関する物語です。
私は今再度読み直し熟読してみて、自分自身のブログのタイトルにも拝借している「天命を知る」には、とても奥深い解釈があることを知りました。以下に、その該当する記述を引用・掲載します。
『子は五十歳の時、この紊れに紊れた世の中を、自分の周辺から少しずつでもよくして行こうというお考えを、はっきりと天から与えられた使命として自覚され、改めてそれを御自分に課せられたかと思います。・・併し、天から与えられた仕事であるからといって、必ずしもそれを天が守って下さるとはお考えにならなかったと思います。いつ思わぬ障害が起るかも知れないし、いつ中道で斃れるかも知れぬ。大きい自然の摂理の中で生きている小さい人間のすることである。思いがけぬ障害が、思いがけぬ時にやって来ても、いっこうに不思議はない。だからと言って、己が天から与えられている使命に対して、いささかも努力を惜しんでいけない。・・御自分のお仕事を天から受けた大きい使命だとお悟りになったことが一つ、それと同時に、その仕事が天の弛みない自然の運行の中に置かれる以上、すべてが順調に運ばれてゆくということを期待することはできず、思いがけない時に、思いがけない困難に、いろいろな形で曝されることもあるであろうということを、確りとお悟りになったことが一つ、~この二つを併せて、このことが天命を知るということになるのでございましょうか。』
『天命を知る』との解釈には二つあると、著者井上靖氏は語っています。そのことを知り、今私は愕然としています。この論語『天命を知る』の井上靖氏の二つの解釈の内、「確りとお悟りになったこと」を私は完全に失念していたからです。
私はブログ日記タイトルに記載した通り、その使命(ストリッパー嬢を劇場で応援する)が成就されないこと(悪行客の理不尽な劇場からの排除)を知る覚悟(私自身が観劇を諦める)を、本来の「天命を知る」とは思わず、私は今までその観劇応援の履行できない愚痴ばかりを日記で語っていたのです。
だから、私のブロク日記のタイトルを、不覚にも不徳な私は『天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録』としてしまったのです。
そして今、私の無知を深く今恥じています。さらに、その覚悟がなかった私は、タイトル通りに、今深く懺悔しています。しかし、このブログ日記のタイトルは変更しません。この日記タイトルを毎日観ながら、不徳な私への強い戒めとしたいからです。