天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

井上靖著『孔子』井上氏は「天命を知る」を天から与えられた使命とそれを天が守ってくれない時の覚悟と語る

2011-04-02 21:48:31 | 日記
今日の続編日記は、私の愛読書、井上靖著『孔子』(1989年新潮社刊)を再読して、論語『天命を知る』の著者井上靖氏のとても含蓄に富んだ解釈のことです。添付した写真は、その著書です。
この著書は、孔子の架空の愛弟子(井上靖氏の分身と考えられ、その語りは彼の想いに他ならない)が、孔子の死から33年後、若い孔子の研究者に向かって語る歴史的人物・孔子の人間像に関する物語です。
私は今再度読み直し熟読してみて、自分自身のブログのタイトルにも拝借している「天命を知る」には、とても奥深い解釈があることを知りました。以下に、その該当する記述を引用・掲載します。
『子は五十歳の時、この紊れに紊れた世の中を、自分の周辺から少しずつでもよくして行こうというお考えを、はっきりと天から与えられた使命として自覚され、改めてそれを御自分に課せられたかと思います。・・併し、天から与えられた仕事であるからといって、必ずしもそれを天が守って下さるとはお考えにならなかったと思います。いつ思わぬ障害が起るかも知れないし、いつ中道で斃れるかも知れぬ。大きい自然の摂理の中で生きている小さい人間のすることである。思いがけぬ障害が、思いがけぬ時にやって来ても、いっこうに不思議はない。だからと言って、己が天から与えられている使命に対して、いささかも努力を惜しんでいけない。・・御自分のお仕事を天から受けた大きい使命だとお悟りになったことが一つ、それと同時に、その仕事が天の弛みない自然の運行の中に置かれる以上、すべてが順調に運ばれてゆくということを期待することはできず、思いがけない時に、思いがけない困難に、いろいろな形で曝されることもあるであろうということを、確りとお悟りになったことが一つ、~この二つを併せて、このことが天命を知るということになるのでございましょうか。』
『天命を知る』との解釈には二つあると、著者井上靖氏は語っています。そのことを知り、今私は愕然としています。この論語『天命を知る』の井上靖氏の二つの解釈の内、「確りとお悟りになったこと」を私は完全に失念していたからです。
私はブログ日記タイトルに記載した通り、その使命(ストリッパー嬢を劇場で応援する)が成就されないこと(悪行客の理不尽な劇場からの排除)を知る覚悟(私自身が観劇を諦める)を、本来の「天命を知る」とは思わず、私は今までその観劇応援の履行できない愚痴ばかりを日記で語っていたのです。
だから、私のブロク日記のタイトルを、不覚にも不徳な私は『天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録』としてしまったのです。
そして今、私の無知を深く今恥じています。さらに、その覚悟がなかった私は、タイトル通りに、今深く懺悔しています。しかし、このブログ日記のタイトルは変更しません。この日記タイトルを毎日観ながら、不徳な私への強い戒めとしたいからです。
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五木寛之著『元気』著者は元気を望むならば「諦念・観念・放念の三つの立場に徹して生きるしかない」と提唱

2011-04-02 12:31:59 | 日記
今日の日記は、読んで感動した私の愛蔵書、五木寛之著『元気』(2004年幻冬舎刊)に書かれている「元気に生きるための三つの方法」のことです。添付した写真は、その著書の表紙です。以下に、その著書から深く共感した記述を引用・掲載します。
『人はもともと病める存在である。そう考えると、いやでも元気を求める気持ちがわいてくる。病める人間ほど、真剣に元気を望むものだからだ。そのためには、どうすればよいのか。私はずっとそのことを考えつづけて、こういう結論に達した。大きくわけると、つぎの三つの立場に徹して生きるしかないと思うのだ。その三つの立場とは、
「諦める」
「観念する」
「手放す」
この三つである。これを要約して漢字にすると、「諦念」「観念」「放念」ということになる。・・人は老いていくものだと「アキラメル」。人は必ず死ぬのだと「アキラメル」。すべてのものごとは、あすはわからないと「アキラメル」。・・私たちの元気への道は、まず、自己の限界を「諦める」こと、勇気をもって「明ラカニ究メル」ことから出発するしかないのである。・・私は自分流に「元気の海」というものを思いえがくことがある。眠れない夜や、夜明けにめざめた独りだけの時間にである。・・「元気の海」を「観想」する。そのことでなんの効果があるのか。答えは「無功徳」。なにもない。しかしそれは私にとっては大事な時間である。これからもたぶん、天寿の終わり日までイメージしつづけることだろう。さらにこの上に「念ずる」ことがおとずれてくればうれしいのだが。・・世のなかには心配の種は数限りなくある。ひとつのことを追うことをせず、それはそれとしてつぎなる心配ごとに気をむけるのが、「手放し」である。・・要するにひとつのことをふかく追わないというのが「放念」の思想である。・・きのうのことを思いださない。あすを考えない。考えなくても過去は体のなかに生きている。あすの予感も身体のどこかが感じている。・・「放念する」というのは、執着しないということかもしれない。日々、おこるものごとと別れていく。なかなか実際にはできることではないかもしれない。しかし、そういう姿勢で生きようと考えるだけでも、なにかしらちがってくるものなのである。』
私自身は、五木氏が語った二つの「諦念」「放念」の人生姿勢とは、まったく逆の立場を貫いてきました。男の信念・美学に拘り、私が受けた迫害を「放念」せず、心ある正しい者が劇場悪行客を放逐するとの勝手に思い込んだ望みを「諦念」出来ずにいます。
ただ一つの「観念」だけは、今だ私の心の拠所になっています。この著書を再読して、今新たな心境に私は浸っています。すなわち、悪行客は善行客にはならない、悪行客と決別する者はいないとの「諦念」です。しかし、悪行客から受けた仕打ちだけは「放念」できません。だから、五木寛之氏が推奨する元気な老後を、私自身はこれから迎えることは決して出来ないと、今得心しました。
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