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北大法学研究科公開講座「アジアと向き合う」②

2018-08-07 19:31:37 | 大学公開講座

 「海禁」、「抜荷」などというワードをご存じだろうか?恥ずかしながら私は知らなかった。その昔、中国と我が国の間には「海禁」の制度が敷かれたり、抜荷による密貿易が密かに広まっていたそうだ。

 

 北大法学研究科の公開講座「アジアと向き合う ~温故知新~」の第2回講座が先週2日(木)に開講されたが、ようやくレポしようと重い腰を上げた。

 第2回講座のテーマは「近世日本の抜荷とその文芸化にみるアジア観」と題して、同大法学研究科の桑原朝子教授が講義された。

 

 桑原氏の講義は一風変わったものだった。今では一般的となっているパワーポイントはまったく使わず、黒板もほとんど使用されなかった。そして、まるで用意した原稿を読み上げるがごとく、滔々と淀みなく終始講義された。

 そのため私は効果的なメモを残すことができず、今回のレポは私の中の記憶をもとに掘り起こしてみたい。

 

 まず、講義前に私が調べた前記「海禁」と「抜荷」について記しておくことにする。

 「海禁」とは、「中国明朝時代に行われた領民の海上利用を規制する政策のこと」、

 「抜荷」とは、「抜け荷は江戸時代に幕府の禁令を破って行われた密貿易のこと」ということだ。

 

 近世東アジアにおいては、その「海禁」体制の中で、民間人における「抜荷」によって密かに密貿易が横行していたという。

 江戸幕府はご存知のように鎖国体制を敷いていたが、長崎など四口(長崎、対馬、薩摩、松前)を通して細やかな交易が行われていたことも多くの知るところである。

 

 こうした体制の中で、海外との交易で一儲けをたくらんだり、海外への関心をいだく民間人が「抜荷」という形で密貿易という形で唐との間で交易をしていたという。

 交易品は、日本からは銅、銀、金、俵物が輸出され、唐からは生糸、絹織物、毛織物、薬種、砂糖、獣皮、書籍などを輸入していたそうだ。

 こうした「抜荷」が明らかななったときには、幕府は厳罰で臨んだということだが、なかなか根絶は難しかったようだ。なぜ幕府が厳罰で臨んだかというと、やはり幕府としては貿易の利益を独占したいという背景があったという。また、国内で産出される金・銀などが流出することを恐れていたともいわれている。

 

 桑原氏の講義はここまではある意味で前置きであって、氏の講義は前置きのような時代背景の中で国内に広まった文芸の世界について解説することだった。

 この時代、浄瑠璃作家として一世を風靡した近松門左衛門が「博多小女郎波枕」という作品を発表している。この作品は抜荷で捕捉された田中屋半兵衛事件を取材しながら、直截的には表現せずに、庶民への共感を呼ぶような物語に仕立て上げたところが受けたようである。その粗筋についても紹介されたが、その内容を私が伝えるのは至難であるので省略したい。

 

 近松に続き、浄瑠璃や歌舞伎の世界で次々と類似のものが発表されたという。

 例えば、並木正三の歌舞伎「三千世界商(やりくり)往来」とか、近松の「博多小女郎波枕」を歌舞伎に翻案した「和訓(やまとことば)水滸伝」などがあるという。

 このように庶民は逞しく生き、そしてまたそのことを浄瑠璃や歌舞伎の世界に変えて楽しんだという。

 

 このことから、桑原氏は江戸幕府時代において幕藩体制は変わらない中、民間においては抜荷によって大きな変化があったという。

 このことから、桑原氏は今回の講座の統一テーマの「アジアと向き合う」意義について、民間レベルの個人的な対外交流の存続と意義の大きさを指摘した。欧米や、南米、アフリカなどの諸国と比べ、民間交流が比較的容易なアジアの重要性を見直す機会となってほしいと結んだ。

 

 桑原氏の講義は、その特異(?)な講義方法もあって私には難解な部分もあった講座だった。しかし、近年東アジア、あるいは東南アジアとの共存共栄は日本の重要なテーマとなっているが、違う角度からその重要性を指摘された講義だったと受け止めた。