突然なのだが、ある理由から札幌の歴史を伝える石碑や史跡を巡る「札幌歴史散歩」なる企てを始めることにした。(冬が間近なので、そうたくさんは巡ることができないが)その理由は、しばらく秘密にしておこうと思う。そのうち、私の文章から明らかになるであろうから…。先ずは、北区・屯田地区にある「屯田開拓顕彰広場」へ向かった。
北区の屯田地区にある「屯田開拓顕彰広場」は、我が家から地下鉄を乗り継いで「麻生駅」まで行き、そこからバスに乗り換える。バスに揺られること10分、郊外の様相が濃い「屯田小学校」バス停で下車した。
問題はここからである。何時のときも初めて訪れるところは、マップやガイドブックでおおよそのところは分かるのだが、現地についてからピンポイントでその場所を突き止めるのが難しい。
私はバス停の近くにいた地域の人らしいご夫妻に「このあたりに『屯田開拓顕彰広場』というところはありませんか?」と問うた。ところがご夫妻は「聞いたことがない」という。そして「住所は?」と問われたので、ガイドブックにあった「屯田7条7丁目です」と答えると、「この辺りですね。するとあれかな?」と交差点向かいのところを指さした。確かに石碑らしきものが見えたので確信し、そちらを目指した。
「屯田開拓顕彰広場」は想像していたよりずっと小さな広場だった。広場には大小さまざまな記念の碑が7つも建っていた。
その様を見て私は、以前は地域のいろいろなところに散在していた石碑を「一か所に集めましょう」ということが地域で話し合われて集められたのではないだろうか、と想像してしまったのだが、はたして真相は?
※ 「屯田開拓顕彰広場」全体を概観したところです。以外に小さな広場でした。
それでは「屯田開拓顕彰広場」に建てられていた石碑を順に紹介したい。
①「屯田兵第一大隊第4中隊本部跡」の碑
屯田の開拓を進めた第4中隊の本部が建っていた地点を示すため。開基100年を記念して昭和63年に建てられた。なお第4中隊とは、主として篠路地区に入植した屯田兵を指揮した部隊である。
② 篠路兵村「開拓碑」
昭和22年、屯田地区に屯田兵が入植し、村を作ったのを記念して開基40年の昭和3年に建てられた。
篠路地区に入った屯田兵の出身地は、九州・四国・中国・北陸など西日本が中心で、明治22年に220人が入植したことになっている。
③ 水田開発記念碑
水田開発から45年になるのを記念して、昭和33年に屯田兵第4中隊練兵場跡に建てられた。
④ 屯田兵顕彰之像
この地を開拓した屯田兵をたたえるため、屯田開基100年記念の際に建てられた。
⑤ 馬魂之像
農耕につくし倒れた馬の慰霊碑。屯田開基100年に記念して建てられた。
⑥ 戦没者顕彰碑
この顕彰碑は「日露戦争」と「満州志那事変太平洋戦争」で戦没者となった地域出身31名が祀られていると碑文には書かれていた。
⑦ 忠魂碑
こちらも戦死者を祀るものですが、どこの地域へ行っても地域の神社などの境内に見られるものだ。この「忠魂碑」は一般に日露戦争以降の戦死者を祀っているということなので、ほとんどが⑥の戦没者顕彰碑に祀られている方と重なることと思われる。
※ 江南神社の鳥居から境内を見たところです。
続いて、「屯田開拓顕彰広場」と道路一つ隔てて、やはり石碑があるという地域の神社「江南神社」に向かった。
江南神社の境内には、三つの石碑など歴史をつたえるものがあった。
⑧ 望郷のアカマツ
明治27年に屯田兵中隊本部が入植した屯田兵たちに、故郷をしのぶ縁としてアカマツとオンコの苗を配布したという。それを「望郷の松」と名付けたそうだが、そのうち4本が実存しているそうだが、その1本が神社境内で育てられている。
⑨ 篠路兵村「移住記念碑」
明治22年、屯田地区に屯田兵が入植し兵村を開いたのを記念して明治29年に建てられた。
⑩ 屯田開基九十周年記念顕彰碑
屯田開基90年を記念して建てられた。碑には吹田晋平の歌が刻まれている。
その晋平の歌は次のようなものである。「神をうやまい 祖をとうとびて 九十年 にい宮はなる 江南のさとに」とある。
私は碑のなかに「晋平」の文字を見たとき、一瞬あの詩人の中山晋平を思い浮かべたが、すぐに「そんなことはない」と打ち消したが、後になって地元の詩人であることが判明する。
以上、10の石碑を巡ったが、札幌の市内各地において屯田兵が開拓したところが多いが、ここ篠路地区もまぎれもなく屯田兵によって開拓された地域であることが石碑などからも明白である。これからの歴史散歩でも、札幌のおいて屯田兵が築いた足跡をたくさん目にすることができるであろう。
なお、近くには「屯田郷土資料館」もあるのだが、私は以前に訪れていたこともあり、今回は訪れることをパスした。
札幌歴史散歩…、けっこう楽しいかも?
(2017/10/26)
※ なお、各石碑の解説については、北区発行の「歴史と文化の八十八選コースガイド」を参考にさせていただいた。
北区の屯田地区にある「屯田開拓顕彰広場」は、我が家から地下鉄を乗り継いで「麻生駅」まで行き、そこからバスに乗り換える。バスに揺られること10分、郊外の様相が濃い「屯田小学校」バス停で下車した。
問題はここからである。何時のときも初めて訪れるところは、マップやガイドブックでおおよそのところは分かるのだが、現地についてからピンポイントでその場所を突き止めるのが難しい。
私はバス停の近くにいた地域の人らしいご夫妻に「このあたりに『屯田開拓顕彰広場』というところはありませんか?」と問うた。ところがご夫妻は「聞いたことがない」という。そして「住所は?」と問われたので、ガイドブックにあった「屯田7条7丁目です」と答えると、「この辺りですね。するとあれかな?」と交差点向かいのところを指さした。確かに石碑らしきものが見えたので確信し、そちらを目指した。
「屯田開拓顕彰広場」は想像していたよりずっと小さな広場だった。広場には大小さまざまな記念の碑が7つも建っていた。
その様を見て私は、以前は地域のいろいろなところに散在していた石碑を「一か所に集めましょう」ということが地域で話し合われて集められたのではないだろうか、と想像してしまったのだが、はたして真相は?
※ 「屯田開拓顕彰広場」全体を概観したところです。以外に小さな広場でした。
それでは「屯田開拓顕彰広場」に建てられていた石碑を順に紹介したい。
①「屯田兵第一大隊第4中隊本部跡」の碑
屯田の開拓を進めた第4中隊の本部が建っていた地点を示すため。開基100年を記念して昭和63年に建てられた。なお第4中隊とは、主として篠路地区に入植した屯田兵を指揮した部隊である。
② 篠路兵村「開拓碑」
昭和22年、屯田地区に屯田兵が入植し、村を作ったのを記念して開基40年の昭和3年に建てられた。
篠路地区に入った屯田兵の出身地は、九州・四国・中国・北陸など西日本が中心で、明治22年に220人が入植したことになっている。
③ 水田開発記念碑
水田開発から45年になるのを記念して、昭和33年に屯田兵第4中隊練兵場跡に建てられた。
④ 屯田兵顕彰之像
この地を開拓した屯田兵をたたえるため、屯田開基100年記念の際に建てられた。
⑤ 馬魂之像
農耕につくし倒れた馬の慰霊碑。屯田開基100年に記念して建てられた。
⑥ 戦没者顕彰碑
この顕彰碑は「日露戦争」と「満州志那事変太平洋戦争」で戦没者となった地域出身31名が祀られていると碑文には書かれていた。
⑦ 忠魂碑
こちらも戦死者を祀るものですが、どこの地域へ行っても地域の神社などの境内に見られるものだ。この「忠魂碑」は一般に日露戦争以降の戦死者を祀っているということなので、ほとんどが⑥の戦没者顕彰碑に祀られている方と重なることと思われる。
※ 江南神社の鳥居から境内を見たところです。
続いて、「屯田開拓顕彰広場」と道路一つ隔てて、やはり石碑があるという地域の神社「江南神社」に向かった。
江南神社の境内には、三つの石碑など歴史をつたえるものがあった。
⑧ 望郷のアカマツ
明治27年に屯田兵中隊本部が入植した屯田兵たちに、故郷をしのぶ縁としてアカマツとオンコの苗を配布したという。それを「望郷の松」と名付けたそうだが、そのうち4本が実存しているそうだが、その1本が神社境内で育てられている。
⑨ 篠路兵村「移住記念碑」
明治22年、屯田地区に屯田兵が入植し兵村を開いたのを記念して明治29年に建てられた。
⑩ 屯田開基九十周年記念顕彰碑
屯田開基90年を記念して建てられた。碑には吹田晋平の歌が刻まれている。
その晋平の歌は次のようなものである。「神をうやまい 祖をとうとびて 九十年 にい宮はなる 江南のさとに」とある。
私は碑のなかに「晋平」の文字を見たとき、一瞬あの詩人の中山晋平を思い浮かべたが、すぐに「そんなことはない」と打ち消したが、後になって地元の詩人であることが判明する。
以上、10の石碑を巡ったが、札幌の市内各地において屯田兵が開拓したところが多いが、ここ篠路地区もまぎれもなく屯田兵によって開拓された地域であることが石碑などからも明白である。これからの歴史散歩でも、札幌のおいて屯田兵が築いた足跡をたくさん目にすることができるであろう。
なお、近くには「屯田郷土資料館」もあるのだが、私は以前に訪れていたこともあり、今回は訪れることをパスした。
札幌歴史散歩…、けっこう楽しいかも?
(2017/10/26)
※ なお、各石碑の解説については、北区発行の「歴史と文化の八十八選コースガイド」を参考にさせていただいた。