スポーツイベントにおいて、今やボランティアの力なくして運営はできなくなっている実態があるという。そのボランティアの在り方について、「現状のままでいいのだろうか?」ということが本講座の主題だった。
10月15日(日)午後、紀伊国屋札幌本店のインナーガーデンにおいて「東海大学公開講座ヒューマンカフェ」が開催されたので参加した。
テーマは「スポーツの『ボランティア』を考える」と題して、順天堂大学スポーツ健康科学部准教授の渡正氏と、北海道大学教育学研究院助教の山崎貴史氏が登壇し、東海大学札幌キャンパス助教の植田俊氏がコーディネーターを務めて講座は進められた。
コーディネーター役の植田氏がまず、自らが学生を率いて今年2月に札幌市を中心に開催された「第8回アジア冬季競技大会」に大会ボランティアとして参加された際の印象や疑問を呈された。
その際感じたことは、スポーツイベントにおいて主役はあくまで選手であり、ボランティアは脇役として『分離』された状態にあることに疑問を呈された。氏が言うには、ボランティアもまた、そのイベントにおいて主役としての扱いを受けることができないのか、という疑問を呈した。
その疑問に対して、今回登壇した二人の研究者は障がい者スポーツのボランティアといった側面から多々論じられた。
※ 同じような写真を私も撮ったのだが、東海大のHPの写真の方がよりクリアだったので拝借させてもらった。
渡准教授は、2020東京オリンピックにおいては、①大会ボランティアと②都市ボランティア併せて9万人が必要とされているとした。そして氏はスポーツイベントのおけるボランティア必要論に疑問を呈した。
というのも、オリンピックにおけるボランティア必要数が集まりにくい状況の中、よりボランティアを必要とするパラリンピックにはたしてボランティアが集まるだろうか?という現状への不安から発されたものと解した。
そこで氏は、障がい者がボランティアとしてイベントに参加するという形態についてもっと積極的に考えても良いのではないか、と提案された。
山崎氏は、北翔大学が取り組んでいる「車椅子ソフトボール」チームに野球部の現役学生がサポートする例を紹介した。
「車椅子ソフトボール」の場合は、障がい者だけではなく、健常者も一緒にプレーできるルールとなっているらしい。そのため、学生はサポートするだけではなく、プレイヤーとしても真剣に「車椅子ソフトボール」に参加している様子をレポートした。そして、ある意味この姿が理想的なスポーツボランティアの形ではないか、と提起された。
その他、障がい者スポーツに対するボランティアの当たり方について多々論じられたが、ここでは植田氏が提起した問題について少し考えてみたい。
植田氏の問題意識は、ボランティアであっても大会の主役の一人としての扱いをされないものか、というものだった。
具体的には、冬季アジア大会において参加したボランティアの中で、通訳ボランティアとか、レセプションで演舞した「よさこい」の踊り手たちは、自分のスキルを伸ばす場であったり、特技を発揮する場であったり、とそれぞれが意味のあるボランティアであった。
しかし、植田氏が引率した学生たちの役割は選手団の入村式における国旗掲揚の役割であったり、選手を案内する役目のような補助的な役割であり、やりがいをあまり感ずるものではなかったという。
植田氏はボランティアといえども、参加することによってそれぞれにとって意味あるものでなければならないのではないか、という趣旨と理解した。
しかし、私は「難しい問題だなぁ」と感じながらお聞きしていた。確かに通訳とか、特技を披露することは、その個人にとってやりがいのある役割だと思われる。しかし、全てのボランティアに主催する側はそうした意味ある役割を用意できるだろうか?それは難しい問題ではないのだろうか、と私には思えたのだが…。
私は過去に、野球、サッカー、ゴルフ、マラソンなどのボランティアを体験した。すべてが補助的な役割であった。私がリタイアした後のボランティアだったから、ということもあるが、私のモチベーションは大会の成功を裏から支えることができた、という自己満足だった。
ボランティアは無償性、自発性、利他性、先駆性だと植田氏も冒頭に述べられた。私はそこにこそボランティアの真髄があると思っている。
そしてボランティアとは、例えスポーツボランティアであってもそれに尽きると思うのだが、はたしてどうだろう?
植田氏は現状を肯定するだけでは変わらない。だから敢えて問題提起されたのではと受け止めたのだが…。
10月15日(日)午後、紀伊国屋札幌本店のインナーガーデンにおいて「東海大学公開講座ヒューマンカフェ」が開催されたので参加した。
テーマは「スポーツの『ボランティア』を考える」と題して、順天堂大学スポーツ健康科学部准教授の渡正氏と、北海道大学教育学研究院助教の山崎貴史氏が登壇し、東海大学札幌キャンパス助教の植田俊氏がコーディネーターを務めて講座は進められた。
コーディネーター役の植田氏がまず、自らが学生を率いて今年2月に札幌市を中心に開催された「第8回アジア冬季競技大会」に大会ボランティアとして参加された際の印象や疑問を呈された。
その際感じたことは、スポーツイベントにおいて主役はあくまで選手であり、ボランティアは脇役として『分離』された状態にあることに疑問を呈された。氏が言うには、ボランティアもまた、そのイベントにおいて主役としての扱いを受けることができないのか、という疑問を呈した。
その疑問に対して、今回登壇した二人の研究者は障がい者スポーツのボランティアといった側面から多々論じられた。
※ 同じような写真を私も撮ったのだが、東海大のHPの写真の方がよりクリアだったので拝借させてもらった。
渡准教授は、2020東京オリンピックにおいては、①大会ボランティアと②都市ボランティア併せて9万人が必要とされているとした。そして氏はスポーツイベントのおけるボランティア必要論に疑問を呈した。
というのも、オリンピックにおけるボランティア必要数が集まりにくい状況の中、よりボランティアを必要とするパラリンピックにはたしてボランティアが集まるだろうか?という現状への不安から発されたものと解した。
そこで氏は、障がい者がボランティアとしてイベントに参加するという形態についてもっと積極的に考えても良いのではないか、と提案された。
山崎氏は、北翔大学が取り組んでいる「車椅子ソフトボール」チームに野球部の現役学生がサポートする例を紹介した。
「車椅子ソフトボール」の場合は、障がい者だけではなく、健常者も一緒にプレーできるルールとなっているらしい。そのため、学生はサポートするだけではなく、プレイヤーとしても真剣に「車椅子ソフトボール」に参加している様子をレポートした。そして、ある意味この姿が理想的なスポーツボランティアの形ではないか、と提起された。
その他、障がい者スポーツに対するボランティアの当たり方について多々論じられたが、ここでは植田氏が提起した問題について少し考えてみたい。
植田氏の問題意識は、ボランティアであっても大会の主役の一人としての扱いをされないものか、というものだった。
具体的には、冬季アジア大会において参加したボランティアの中で、通訳ボランティアとか、レセプションで演舞した「よさこい」の踊り手たちは、自分のスキルを伸ばす場であったり、特技を発揮する場であったり、とそれぞれが意味のあるボランティアであった。
しかし、植田氏が引率した学生たちの役割は選手団の入村式における国旗掲揚の役割であったり、選手を案内する役目のような補助的な役割であり、やりがいをあまり感ずるものではなかったという。
植田氏はボランティアといえども、参加することによってそれぞれにとって意味あるものでなければならないのではないか、という趣旨と理解した。
しかし、私は「難しい問題だなぁ」と感じながらお聞きしていた。確かに通訳とか、特技を披露することは、その個人にとってやりがいのある役割だと思われる。しかし、全てのボランティアに主催する側はそうした意味ある役割を用意できるだろうか?それは難しい問題ではないのだろうか、と私には思えたのだが…。
私は過去に、野球、サッカー、ゴルフ、マラソンなどのボランティアを体験した。すべてが補助的な役割であった。私がリタイアした後のボランティアだったから、ということもあるが、私のモチベーションは大会の成功を裏から支えることができた、という自己満足だった。
ボランティアは無償性、自発性、利他性、先駆性だと植田氏も冒頭に述べられた。私はそこにこそボランティアの真髄があると思っている。
そしてボランティアとは、例えスポーツボランティアであってもそれに尽きると思うのだが、はたしてどうだろう?
植田氏は現状を肯定するだけでは変わらない。だから敢えて問題提起されたのではと受け止めたのだが…。