田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

手稲の歴史を学ぶ

2017-10-05 17:55:16 | 講演・講義・フォーラム等
縄文後期の土器が手稲から発掘されていたという。さらには戦前、北海道としては唯一の石油精製所がやはり手稲にあったという。などなど…、目から鱗の話を次々と聞かされた興味深い講話だった。 

 私が所属する退職組織は、札幌市内全区(10区)に支部があり、その10支部で毎年「札幌10支部連絡会」という交流会を開催している。
 その交流会が9月29日(金)午後、市内のホテルで開催された。今回の主管支部は手稲支部が担当した。その手稲支部の会員であり、「手稲郷土史研究会」の一員である菅原直氏「手稲の歴史あれこれ」と題して講話された。

               
               ※ 講話をする手稲郷土史研究会の菅原直氏です。

 手稲区のホームページによると、手稲の人口は昭和10年に人口が6,700人だったものが、平成25年には14万人へと大膨張した地域である。
その手稲に人々が住み始めたのは昭和5年に仙台藩白石城主・片倉小十郎の家臣たちが入植したのが初めだそうだ。
 実はこの人たちは当初、現在の白石区に移住予定だったものが、すでに先着していた同じ白石城主の家臣によって土地割り当てが決まってしまっていて、入植する土地がなく、現在の手稲に土地を求めたそうだ。

 それよりはるか以前、4,500年から3,500年前の縄文中期から後期にかけて手稲地区に縄文人が生活している跡があると判明したという。その証拠となるのが、縄文土器の発見である。発掘された縄文土器は「手稲式土器」と命名されたそうだ。

               
               ※ 明治期に空知地方から小樽港に石炭を輸送するために敷設された幌内鉄道を走っていた機関車「弁慶号」です。

 また、現在の手稲地区の北側は広大な湿地帯で、長い間人間が手を付けられないほどの泥炭地が広がっていたという。そのため明治19年から21年にかけて湿地帯を掘削し、排水路を造った。それが現在の新川だそうだ。
 湿地帯の様子を表すエピソードとして講師の菅原氏は、明治13年から始まった幌内鉄道の建設に際して、米人鉄道技師クロフォードは湿地帯を避けるように扇状地の先端部分を巧みに利用して現在のような函館本線の礎を築いたそうだが、手稲付近だけは路盤の沈下が大きく、保線工事に苦労したという記録が残っているという。

               
        ※ 明治時代の手稲の地図です。赤線の部分が幌内鉄道(現在の函館本線)。それより手前は湿地帯です。青色は新川のようです。

 菅原氏の知識は豊富で、与えられた時間ではまったく不足のようだった。そんな中、講話の最後に「手稲には戦前、北海道では唯一の石油製油所があった」ということに触れられた。
 石狩市の高岡地区、五の沢地区では昭和初期には年間10,000キロリットルの石油が産出されていて、それを手稲の軽川に建設した日本石油北海道製油所まで運んで精油していたという歴史があるそうだ。製油所は昭和25年まで稼働し、手稲の基幹産業だったそうである。

               
               ※ 石狩市高岡油田から軽川製油所までパイプライン(破線)が延びていたようです。

 このような興味ある話が、菅原氏から次から次へと語られた。残念ながら時間の関係でその全てを聞くことができなかった。
 いつかまた、機会があればさらに手稲の歴史を聞いてみたいものである。