焼尻島は相当に風の強い島らしい。特に冬期間は相当なようで家々の囲いを見てもそのことが想像される。それがさらに島の内部に生育している木々の状態を見せられるとその凄さを実感させられる。
午後は焼尻島の内陸部を巡ることにした。内陸部にはオンコ(イチイ)などの奇木が群生していると聞いた。
その群生しているところへは島内各所から行くことができるが、集落が集まっているところからは羽幌町役場支所があるところからが一般的なようである。
私も役場支所のところから入ろうとしたのだが、その入口に「会津藩士の墓」というのがあった。それを見て、歴史に疎い私は会津藩が戊辰戦争に敗れ賊軍となり、藩士たちは塗炭の苦しみを味わう中、その一部が屯田兵として北海道に渡ったとは聞いていたが、それが焼尻島まで至ったのだろうか、と疑問に思った。
そこでその疑問を役場支所で明らかにしようと、役場支所に赴き質問したが支所員は答えを用意していなかった。(それは用意しておいた方がいいと思うよ)
彼は「4月赴任したばかりだから…」と言い訳を言っていた。そこで話を変えて、離島への赴任について話をした。すると、役場職員は2年の任期で島の支所に赴任するという。今の時代である。当然のように単身赴任だということだが、毎週自宅に帰れるかというとそうはいかないらしい。所員が2人ということで、どちらかは島に残り、緊急事態に備えなければならないという。離島を抱える自治体職員にとっては人事異動の季節は戦々恐々のようである。
あっ、ところで「会津藩士の墓」ですが、時代は戊辰戦争よりずっと前の1800年代初頭に江戸幕府から北方警備を命じられて樺太警備に当たっていた会津藩士が帰藩するさい時化に遭い遭難して焼尻島で弔った藩士の墓のようです。ちなみにお墓は写真のように二つ立っていました。
話が横へそれてしまった。さっそく、島の内陸部に足を踏み入れてみた。内陸部は草木が鬱蒼と茂っていて、陽の光も木洩れ日状態である。車が入る道はなく、簡易舗装された細い道を歩くか、自転車で見て回るしかない。噂に聞いていたが、なるほど曲がりくねったような木が目立った。
そうしているうちに、曲がりくねったりした奇木に名前が付けられている木が散見するようになってきた。それらを順に写真と共に紹介することにする。
最初は「鶴の木」と書かれたオンコの木である。
続いて、近くに「亀の木」と書かれたオンコがあった。亀の木と言われれば、なんとなく全体が亀の甲羅のように見えてくるが…。
次は「エゾ鹿」と書かれたナラの木である。どう見たらエゾ鹿のように見えるのだろうか?
次もナラの木で「知恵の輪」と書かれていた。こちらは一目見て納得である。
続いて「幻想の径」と名付けられたナラの木だが、同じように名付けてよいナラの木が周りにもたくさんあった。
そして「木精の舞」と名づけられたオンコの木である。
これら奇木・珍木が数多く見られる原因は、焼尻島に吹き付ける強烈な風のせいであろう。私自身これまで風が強いために傾いたまま成長した木を見たことは何度もあったが、ここまでひねくれてしまった(?)木を見ることはなかった。それだけ焼尻島に吹き付ける風は想像を絶するような強烈な風なのかもしれない…。
他にもまだ名付けられた木があったが、そこを抜けて「オンコの荘」というところに向かった。ここはオンコの木が焼尻島に吹き付ける日本海からの強く激しい季節風や雪のため、上には大きく伸びることが出来ずに、横へ横へと広がって成長したため、高さは2m足らずなのに直径が10m以上にも広がったオンコの木が集まって生えているところである。腰を屈めながらオンコの木の中に入ってみると、たくさんの枝が驚くほど横に伸びていた。
焼尻島には、この他にも写真的には紹介できなかったが「ウグイス谷」とか、「雲雀ヶ丘公園」など、自然を生かした魅力的なところが小さな島ながらいっぱいあり、予想外に魅力的な島だった…。
※ 高校野球選手権予選の小樽支部予選でまた番狂わせがあったようですね。昨年の甲子園出場校で、今年春の北海道大会を制した小樽北照高校が予選敗退をしたというニュースを耳にしました。選手権大会の北海道予選は波乱含みのようです。