早すぎる死が悼まれた
カルロス1世妃 イサベル・デ・ポルトゥガル
1503~1539/在位 (スペイン王妃)1526~1539
(神聖ローマ皇后)1530~1539
イサベルの母マリアは、フェルナンド2世とイサベル1世の娘ですから
カルロス1世とイサベルはいとこ同士になります。
1521年にイサベルの父ポルトガル王マヌエル1世が亡くなり兄ジョアン3世が即位すると
スペインとポルトガルはすぐさま縁談の交渉を始めました。
2国はカルロス1世とイサベル、ジョアン3世とカルロス1世の妹カタリーナの
ダブル結婚で合意しました。
スペインはフェルナンド2世とイサベル1世の結婚、グラナダの併合で生まれた大国ですが
あわよくばポルトガルも・・・なんていう気がなかったとは言わせません。
ポルトガルもそれだけは避けたかったでしょう、というわけで両国の間では
以前から多くの縁談が結ばれていました。
ところでカルロス1世は、父方の血を受けて神聖ローマ皇帝カール5世としても
即位したので、イサベルも皇后エリーザベトといわれる場合もあります。
ただ神聖ローマ帝国を訪れたことがあるのか・・・私には分かりません。
1526年、ふたりはセヴィリアで結婚しました。
イサベルの持参金はスペインに莫大な収入をもたらします。
もちろん、この結婚は政略結婚だったのですが、ふたりはまるで恋愛結婚のように
愛し合い、ものすごく睦まじかったそうですよ。
記録によると “ ハネムーンの間、まわりに誰がいようとふたりには関係なかった ” と
いうことで、まさに “ 世界はふたりのために “ 状態だったようです。
イサベルは大変魅力的な美しい女性であっただけでなく、才知にも恵まれた
申し分のない伴侶でした。
カルロス1世が不在の間は摂政にもついて大国を治めました。
なんだか・・・そんなに完璧な人っているかしら? と僻みたくなりますねぇ。
カール1世は1517年に共治王として即位するまでフランドルにいて
スペイン語があまり話せず、8年間は通訳を要したといいます。
また、真面目で思慮深かった反面寡黙で鈍重でとっつきにくい人物でした。
フランドルからつれてきた廷臣たちの大きな態度への反発もあって
1530年までは反乱などが頻発し気が休まる時がありません。
そんな状況の中では美しい王妃と一緒に過ごす時間が
至福のひと時だったのかもしれませんね。
1539年、イサベルは6人目の子供を生んだ直後に亡くなります。
彼女の早すぎる死はカルロス1世に大きな悲しみをもたらしました。
その後19年、カルロス1世は再婚せず、生涯黒い服で過ごしたそうです。
1556年には自ら退位して、粗末な庵へ隠居し孤独と静寂の中で余生を送り
1558年に痛風で亡くなりました。
(参考文献 岩根圀和氏『物語 スペインの歴史』
江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
カルロス1世妃 イサベル・デ・ポルトゥガル
1503~1539/在位 (スペイン王妃)1526~1539
(神聖ローマ皇后)1530~1539
イサベルの母マリアは、フェルナンド2世とイサベル1世の娘ですから
カルロス1世とイサベルはいとこ同士になります。
1521年にイサベルの父ポルトガル王マヌエル1世が亡くなり兄ジョアン3世が即位すると
スペインとポルトガルはすぐさま縁談の交渉を始めました。
2国はカルロス1世とイサベル、ジョアン3世とカルロス1世の妹カタリーナの
ダブル結婚で合意しました。
スペインはフェルナンド2世とイサベル1世の結婚、グラナダの併合で生まれた大国ですが
あわよくばポルトガルも・・・なんていう気がなかったとは言わせません。
ポルトガルもそれだけは避けたかったでしょう、というわけで両国の間では
以前から多くの縁談が結ばれていました。
ところでカルロス1世は、父方の血を受けて神聖ローマ皇帝カール5世としても
即位したので、イサベルも皇后エリーザベトといわれる場合もあります。
ただ神聖ローマ帝国を訪れたことがあるのか・・・私には分かりません。
1526年、ふたりはセヴィリアで結婚しました。
イサベルの持参金はスペインに莫大な収入をもたらします。
もちろん、この結婚は政略結婚だったのですが、ふたりはまるで恋愛結婚のように
愛し合い、ものすごく睦まじかったそうですよ。
記録によると “ ハネムーンの間、まわりに誰がいようとふたりには関係なかった ” と
いうことで、まさに “ 世界はふたりのために “ 状態だったようです。
イサベルは大変魅力的な美しい女性であっただけでなく、才知にも恵まれた
申し分のない伴侶でした。
カルロス1世が不在の間は摂政にもついて大国を治めました。
なんだか・・・そんなに完璧な人っているかしら? と僻みたくなりますねぇ。
カール1世は1517年に共治王として即位するまでフランドルにいて
スペイン語があまり話せず、8年間は通訳を要したといいます。
また、真面目で思慮深かった反面寡黙で鈍重でとっつきにくい人物でした。
フランドルからつれてきた廷臣たちの大きな態度への反発もあって
1530年までは反乱などが頻発し気が休まる時がありません。
そんな状況の中では美しい王妃と一緒に過ごす時間が
至福のひと時だったのかもしれませんね。
1539年、イサベルは6人目の子供を生んだ直後に亡くなります。
彼女の早すぎる死はカルロス1世に大きな悲しみをもたらしました。
その後19年、カルロス1世は再婚せず、生涯黒い服で過ごしたそうです。
1556年には自ら退位して、粗末な庵へ隠居し孤独と静寂の中で余生を送り
1558年に痛風で亡くなりました。
(参考文献 岩根圀和氏『物語 スペインの歴史』
江村洋氏『ハプスブルク家』 Wikipedia英語版)
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