一度紹介済みですが…
ルイ7世妃 アリエノール・ダキテーヌ
1122~1204/在位 (フランス王妃)1137~1152
(イングランド王妃)1154~1189
イングランド王ヘンリー2世妃エリナー として紹介済みなので省略しようと思いましたが
ちょっと補足を・・・
ご存知のようにフランス国王の3倍の土地を持っていたアリエノール。
ルイ7世と彼女の結婚式はそれはそれは荘厳で、1000人のお客様がいたそうです。
ルイ7世とアリエノールとの間に王子が生まれなかったこと、
そしてアリエノールがこともあろうにヘンリー2世と再婚したことが
この後イングランドとフランスの壮絶な領土争いを激化させます。
なにしろ、国内の半分以上の領土がイングランドのものになってしまうので
フランス王の狼狽と困惑は相当なものだったでしょう。
ワンポイント王妃
ルイ7世妃 コンスタンス・ド・カスティーヨ
1141~1160/在位 1154~1160
ルイ7世とアリエノールが離婚した表向きの理由は “ 近すぎる血縁 ” でしたが
再婚したコンスタンスは、更に近いという・・・
この時代、血縁のない人を同じ階級から探そうって方が難しいんじゃなくて?
13歳で34歳のルイ7世と結婚し、17歳でマーガレットが生まれます。
19歳でアリスを生みますが、コンスタンスはその時に亡くなりました。
野心まんまんの王妃
ルイ7世妃 アデル・ド・シャンパーニュ
1140~1206/在位 1160~1180
アデルの父シャンパーニュ伯ティボー2世は
シャンパーニュ伯領、ブロワ伯領、シャルトル伯領を持つ大領主でした。
アリエノールにごっそり領土を持っていかれたルイ7世にしてみれば
魅力的な縁談だったでしょう。
アデルとその兄弟たちは権力欲が強かったようで
兄のシャンパーニュ伯アンリと弟ブロワ伯ティボーは
ルイ7世とアリエノールの間に生まれた姉妹を妻にしていました。
そのためアデルは王の妻でもあり、義理の妹でもあります。
1180年、息子フィリプがアルトワの女相続人イザボー・ド・エノーと結婚し
王位に就くと、アデルたちの権勢に翳りが見え始めます。
フィリプが王になってからは力を失いつつあったアデルも1190年から2年間
王が十字軍に参加中摂政を努めています。
アデル最後の晴れ舞台ですね。
その後はフィリプ2世が再婚したため表舞台から退き
修道院の創設などに力を注いでいましたが、1206年に亡くなりました。
(参考文献 Wikipedia英語版)
ルイ7世妃 アリエノール・ダキテーヌ
1122~1204/在位 (フランス王妃)1137~1152
(イングランド王妃)1154~1189
イングランド王ヘンリー2世妃エリナー として紹介済みなので省略しようと思いましたが
ちょっと補足を・・・
ご存知のようにフランス国王の3倍の土地を持っていたアリエノール。
ルイ7世と彼女の結婚式はそれはそれは荘厳で、1000人のお客様がいたそうです。
ルイ7世とアリエノールとの間に王子が生まれなかったこと、
そしてアリエノールがこともあろうにヘンリー2世と再婚したことが
この後イングランドとフランスの壮絶な領土争いを激化させます。
なにしろ、国内の半分以上の領土がイングランドのものになってしまうので
フランス王の狼狽と困惑は相当なものだったでしょう。
ワンポイント王妃
ルイ7世妃 コンスタンス・ド・カスティーヨ
1141~1160/在位 1154~1160
ルイ7世とアリエノールが離婚した表向きの理由は “ 近すぎる血縁 ” でしたが
再婚したコンスタンスは、更に近いという・・・
この時代、血縁のない人を同じ階級から探そうって方が難しいんじゃなくて?
13歳で34歳のルイ7世と結婚し、17歳でマーガレットが生まれます。
19歳でアリスを生みますが、コンスタンスはその時に亡くなりました。
野心まんまんの王妃
ルイ7世妃 アデル・ド・シャンパーニュ
1140~1206/在位 1160~1180
アデルの父シャンパーニュ伯ティボー2世は
シャンパーニュ伯領、ブロワ伯領、シャルトル伯領を持つ大領主でした。
アリエノールにごっそり領土を持っていかれたルイ7世にしてみれば
魅力的な縁談だったでしょう。
アデルとその兄弟たちは権力欲が強かったようで
兄のシャンパーニュ伯アンリと弟ブロワ伯ティボーは
ルイ7世とアリエノールの間に生まれた姉妹を妻にしていました。
そのためアデルは王の妻でもあり、義理の妹でもあります。
1180年、息子フィリプがアルトワの女相続人イザボー・ド・エノーと結婚し
王位に就くと、アデルたちの権勢に翳りが見え始めます。
フィリプが王になってからは力を失いつつあったアデルも1190年から2年間
王が十字軍に参加中摂政を努めています。
アデル最後の晴れ舞台ですね。
その後はフィリプ2世が再婚したため表舞台から退き
修道院の創設などに力を注いでいましたが、1206年に亡くなりました。
(参考文献 Wikipedia英語版)