まりっぺのお気楽読書

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フランス王アンリ1世妃 マティルダ

2009-02-05 01:32:38 | フランス王妃・王女
              肖像画は二人目の妃アンヌ・ド・キエヴ

婚約者と同名だった
アンリ1世妃 マティルダ・ド・フリーズ


~1044/在位 1034~1044

アンリ1世はカペー家の慣例に従って、父王の存命中に戴冠を受け
1027年から共同君主となっていましたが、王として即位したのは1031年、
結婚はその3年後の1034年でした。

アンリは神聖ローマ皇帝コンラッド2世の娘マティルダと婚約していたのですが
彼女が子供の早産が原因で死亡したため
ブルンスウィック伯の娘であるマティルダと結婚することになりました。

詳しい経緯は分かりませんが、両マティルダともドイツ方面出身なので
なにかドイツ方面に対して思惑があったのかもしれません。

フランスはまだ各公領君主の力が強く、王権が及んでいませんでしたから
ドイツ(旧東フランク)に同盟国を見いだしたかったのでしょうか?

しかし、婚約中に子供を早産って? できちゃった婚約?
結婚していたという説もあります。

     


遠い国からやって来た
アンリ1世妃 アンヌ・ド・キエヴ


1024?~1075/在位 1051~1060

マティルダを失ったアンリ1世はふさわしい家柄から再婚相手を探そうとしますが
これは…と思う娘は法的に結婚が許されない血縁者ばかりという問題にぶつかります。

そこで、ここなら縁も薄かろうと思われるキエフ公国に使者を出し
大公ヤロスラヴ1世の娘アンヌを選びます。

1053年にアンリ1世の義理の甥にあたるノルマンディ公ギョーム
(後のイングランド王ウィリアム1世)がマティルダ・オブ・フランダースと結婚すると
アンリ1世はものすごく脅威を感じ、二度ほどノルマンディーに攻め入りますが敗れます。

そんな不安定な情勢の中、1060年に王が亡くなると
アンヌは8歳で即位したフィリプ1世の摂政になります。

フランスには “ サリカ法 ” というものがあって、女性は王になれないのですが
アンヌは摂政という名で女王の座についた最初の女性と言われています。
彼女は才女だったらしいのですが、フランス語が未熟だとして
反対意見を唱える人々もいたようです。

まだ若いし、摂政という重責にストレスもあったでしょう。
1年後にアンヌは野心満々のヴァロア伯レイフ3世に接近し略奪婚します。
レイフの妻が教皇に訴え出て二人は破門されてしまいました。
しかし息子であるフィリプ1世は母を許します。
(後年、フィリプ1世自身が似たような境遇に陥ります フランスって…)

1074年にレイフが亡くなると、アンヌは息子が君臨するフランス宮廷へ戻り
1年後に亡くなりました。

教皇に破門されたアンヌではありますが、フランスのにミサを持ち込んだのは
彼女だったらしいですよ。

(参考文献 Wikipedia英語版)

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