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フランス王ロベール2世妃 コンスタンス

2009-01-29 22:28:43 | フランス王妃・王女
猛女現わる!
ロベール2世妃 コンスタンス・ダルル


986~1034/在位 1001 or 1003~1031

ロベール2世はベルタと離婚後、プロヴァンス伯ギョーム1世の娘コンスタンスと再々婚。
これが波瀾万丈の始まりでした。

      

この結婚には先妻ベルタの実家バーガンディー公家も猛反発し
その上、コンスタンスの親族さえも彼女に白い目を向けました。
ロベール2世の友人ユーグ・ド・ボーヴェは王に離婚を進言しますが
コンスタンスは親族の騎士にユーグを殺させるという仕打ちに出ます。

さすがにロベール2世も愛想を尽かしたのか、1010年には前妻ベルタを連れてローマを訪れ
教皇にコンスタンスとの離婚とベルタとの復縁を願い出ます。
これはどうやら受理されなかったようですが
怒りに燃えたコンスタンスは次男、三男の2人を父王に反抗するよう焚き付けます。

次男アンリと三男ロベールは母の言う通りに父王の領土を攻撃し始め
ロベール2世は劣勢にたたされます。
最終的には父子は和解し、王がなくなるまで戦闘は行われませんでしたが
ロベール2世の死後、今度はコンスタンスと息子たちに不和が訪れます。

コンスタンスは自分の領土の、アンリとロベールへの分割と譲渡を拒みます。
アンリは弟の援助を受けて母がいるポワシー城を包囲しました。
さすがのコンスタンスも領土を譲るしかありませんでした。

ところでコンスタンスは諍いの中、王に刺客を差し向けられたこともあったようで
その時には教会の前に仁王立ちになり、ステファン(刺客か?)の両目を
自らえぐり出したと言われています
この中世的な悪行にコンスタンス自身が手をくだしたとは考えられませんが
そう言われかねないほど激しい女性だったと思わせるエピソードですね

1034年、コンスタンスが亡くなるとロベール2世の側に埋葬されましたが
ロベール2世は、せっかくの静かな眠りを3年で妨げられて・・・
本当はベルタが良かったんじゃないでしょうかね?

               
             王妃、お怒りのご様子ですね。
          「離婚してやんないわよっ!」とか言ってるのでしょうか?
                  王の迷惑そうな顔・・・


(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)

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