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まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世妃 アウグスタ

2009-11-19 01:58:44 | ドイツ系王妃
姑いじめが娯楽? ドイツ最後の皇后
ヴィルヘルム2世妃 アウグスタ・ヴィクトリア
               フォン・シュレスヴィヒ=ホルシュタイン


1858~1921/在位 1888~1918

アウグスタはホーエンツォレルン家の皆さんから“ ドナ ” と呼ばれていました。

ドナは23歳の時にヴィルヘルムと結婚しています。
結婚式は8時間にも及ぶものでした。

ホルシュタイン家ってそんなに悪い家柄だとは思えないんだが
ドナはヴィルヘルムの一家に見下されていたみたいなのね。
このクールな親戚付き合いはずっと続きました。

後にザクセン=マイニンゲン公妃になるヴィルヘルムの妹のシャルロッテは
とるに足りない領主の娘がヴィルヘルムの妃に、ひいてはドイツ皇后になるなんてっ!
というわけで、かなり冷たかったみたいですよ。

また、同じく妹のギリシャ王妃ゾフィアは、1890年に
ギリシャ正教への改宗についてドナに逆らい、ドナは逆上して流産してしまったそうです。

        

じゃあドナが可哀想かというと、そうでもない…

実は姑のヴィクトリアは、息子との関係が悪かったでしょ?
それをドナがとりなしてくれるんじゃないかと期待していたのですが
逆にドナは姑とのいざこざを楽しんでいました。

例えば、あるパーティーでヴィクトリア皇太后に
「どうしてわたくしが薦めたドレスを着ていないんですの?」とちくりと言ったり
娘のヴィクトリア・ルイーゼの名は(姑ではなく)祖母と曾祖母からとった名前だ、と
わざわざお知らせにあがったり、とか。

意地悪されたからってさらに弱い者をいじめるなんて、いかんじゃないか!
でも宮廷ではそうでもしないとストレスがすごいのかもしれないですよね。

そんなドナも、夫ヴィルヘルムが皇帝に即位して軍事に明け暮れるようになると
寂しくなってしまったのか皇太后と親しげにつき合うようになります。
仲良く馬車で出かけたり、ちょくちょく子供を連れて訪ねて行ったりね。
それでも(自由主義を吹き込まれると困るので)子供たちと皇太后だけにすることは
決してありませんでした。

皇帝になったヴィルヘルム2世は、それまでの慎重な外交を捨て
世界政策(強国政策)を打ち出していきました。
そんなつもりはなかったのかもしれないけれど、ことごとく英国に対抗するような政策は
次第に両国の関係を悪化させていきます。
また、ロシアとフランスを近づけ、敵に回すことにもなりました。

1914年のサラエヴォ事件を発端に勃発した第一次世界大戦に中央同盟国側で参戦しましたが
国内での反戦運動は革命になり、ついに1918年、ヴィルヘルムは退位し
オランダへ亡命しました。

退位と亡命にショックを受けて弱っていたドナに追い打ちをかけるように
1920年夏、皇子ヨアヒムが自殺します。
体調を崩したドナは1921年の春、オランダで亡くなりました。

ドナは亡骸となって、やっと、ドイツ(ヴァイマール)共和国から帰国を認められ
ポツダム宮殿近くの寺院に埋葬されました。
ちなみに夫ヴィルヘルムが再婚したヘルミーネも同じ寺院に埋葬されています。
ヴィルヘルムはドイツでの葬儀を禁止されたためオランダに埋葬されました。

               
                “ The Empress ” という感じですね

(参考文献 阿部謹也氏『物語ドイツの歴史』 Wikipedia英語版)
コメント (3)
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ドイツ皇帝フリードリヒ3世妃 ヴィクトリア

2009-11-18 00:49:24 | ドイツ系王妃
姑も嫁もパワフルで…
フリードリヒ3世妃 ヴィクトリア・フォン・サクス=コバーク=ゴータ


1840~1901/在位 1888

大英帝国女王ヴィクトリアの王女ヴィクトリアは、厳しい管理下で教育されました。
王太子アルバート(後のエドワード7世)は勉強が苦手とされていますが
ヴィクトリアは聡明で、5歳で読み書きができ、子守りからフランス語も学びました。

      

11歳の時、ロンドン博覧会を訪れていた王太子フリードリヒに出会い
お互いに恋心を抱いたようですね。
ヴィクトリアが14歳の時にフリードリヒがバルモラル城を訪れて求婚し
彼女も即OKしたそうです。

17歳の時に、ヴィクトリア女王の強い主張でセント・ジェームズ宮殿で挙式しました。
この結婚にはお互いの両親の大きな期待が込められていました。
まず、フリードリヒの母アウグスタは、ヴィクトリアが英国のリベラルな影響を
プロイセンにもたらしてくれると考えていたわけね。
また、ヴィクトリアの父サクス=コバーク=ゴータ公子アルバートは
ふたりの結婚でドイツ統一が実現できれば… と望んでいました。

ふたりはとても愛し合っていて、結婚生活は万々歳 と言いたいところですが
プロイセンでの生活はあまり愉快なものではなかったようです。

1861年、義父ヴィルヘルム4世がプロイセン王に即位します。
ヴィルヘルム4世はどちらかというと保守派で、ビスマルクも保守派、
急進的な自由主義は退けられていました。
フリードリヒとヴィクトリアのリベラルな考え方は受け入れられず
ふたりは孤立してしまいます。

また、皇太子ヴィルヘルム(後の2世)は英国的民主主義に基づいて教育され
リベラルな祖母アウグスタも目をかけていたというのに
なぜだかガチンガチンな権威主義者の家庭教師になついてしまいました。
長じるにつれてヴィクトリアとヴィルヘルムの親子関係はぎくしゃくしていきます。

次第にビスマルクに理解を示していくフリードリヒとヴィクトリアに
義母アウグスタもよそよそしくなり、特に嫁のヴィクトリアに対しては
「主義が無い」などと嘲るようになりました。

1871年、ビスマルクとフリードリヒの説得で父王がドイツ皇帝に即位し
フリードリヒが1888年に皇帝の座を継いで、フリードリヒ3世として即位しました。
ビスマルクは引き続き重用され、ドイツは大国間の危ういバランスの中で
平和的な政策を模索していました。

しかし、フリードリヒ3世が咽頭癌のため99日で亡くなります。
息子ヴィルヘルム2世が即位し、ドイツは次第に危険な道を歩みはじめました。

ヴィクトリアにしてみりゃあ、ビスマルクが退いて義母アウグスタは返り咲くし
嫁のアウグスタがさぁ、これまた上手くいかなくて…
ヴィクトリアは宮廷から退き、フランクフルトに近いクロンベルクに建てた
思い出の城に退きました。

皇太子妃時代にはベルリンに看護学校を建てたり、美術工芸のパトロンになって
産業芸術展を開催したりとアクティブに活動していたヴィクトリアですが
息子の代になってからは目立たずにいようと決心したようです。
まだ若いのに、惜しいことですよね。

ヴィクトリア女王は娘ヴィクトリアに3777通の手紙を送ったそうですが
娘からは4000通の手紙を母に送っています。
息子の統治下でのドイツを心配する内容が多かったそうです。

1899年、バルモラル城にヴィクトリア女王を訪問中、乳癌が見つかります。
すでに手遅れだったそうです。
苦痛による彼女の悲鳴がすごかったので、召使いや女中は他の棟に移ったそうですよ。
かわいそうに… モルヒネか何か、痛み止めはなかったんですかね?

1901年、母ヴィクトリア女王より7ヶ月早く、ヴィクトリアは亡くなりました。
夫フリードリヒ3世と夭逝した息子たちの側に葬られました。
繁栄を誇ったヴィクトリア女王の娘に生まれ、統一を果たしたドイツへと嫁いだ
華々しい経歴の女性でありながら、ひっそりと控えめな一生でした。

1914年には帝国主義を押し進めた息子フリードリヒ3世によって
ドイツは第一次世界大戦に参戦し、イギリスは敵国になります。
そんな両国の姿を目にすることがなくて、かえって幸せだったかもしれませんね。

(参考文献 鈴木晟氏『面白いほどよくわかる世界の王室』 Wkipedia英語版)
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ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世妃 アウグスタ

2009-11-14 01:43:30 | ドイツ系王妃
ビスマルクを敵にまわした皇后
ヴィルヘルム1世妃 アウグスタ・フォン・ザクセン=ヴァイマール


1811~1890/在位 1861~1888

ヴァイマール=アイゼナハ大公カール・フリードリヒと
ロシア皇帝パーヴェル1世の皇女マリア・パウローラを両親に持つ公女アウグスタは
画家から絵を習ったり、指揮者から音楽を学んだりと幅広い教育を与えられた少女でした。

15歳の時に従兄弟のヴィルヘルムと会っています。
その時ヴィルヘルムははとこのエリーゼと愛し合っていたので
縁談はでなかったのではないかと推測しますが
アウグスタはヴィルヘルムに想いを寄せたみたいなのね

        

ではなぜアウグスタにヴィルヘルムとの縁談が舞い込んだかと言うと
兄の王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム(後の4世)になかなか跡継ぎが生まれず
ヴィルヘルムに王座がまわってくる可能性がでてきたからです。

そうすると一介のポーランド貴族の娘エリーゼではプロイセン王妃には不十分という
父王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の考えでアウグスタに白羽の矢がたったわけです。

アウグスタは幸せ一杯で結婚を承諾したのですが
ヴィルヘルムはエリーゼに心残りがありました。
妹のロシア皇帝ニコライ1世妃アレクサンドラ に宛てた手紙には
“ エリーゼは心から愛せるただひとりの女性。
 アウグスタは可愛らしく聡明だが熱くなれない ” なんてぇことを書いています。

しかもエリーゼは他の男性と婚約した後亡くなっちゃうのよ。
男性にとっては一生の心の恋人ですよね?
こんな女性を抱えている男性はやっかいですよー

1829年、18歳のアウグスタは32歳のヴィルヘルムと結婚します。
ヴィルヘルムの愛妾や多大な圧力からか、やはりハッピーな結婚ではなかったようで
アウグスタは1840年頃から狂乱状態になることがありました。

アウグスタは政治への関心が高くて自由主義を好んでいました。
革命後のコブレンツ滞在中には進歩主義者や革新派と親交を深め
1861年にヴィルヘルムが即位すると多くの知人が入閣しました。

でもそれもビスマルクが表れるまで…
即位から数ヶ月後、ヴィルヘルムは自由主義中心の議会を解散し内閣を組閣します。
首相はオットー・ビスマルクで、王から政治的信頼を得ていた人物。
アウグスタはビスマルクを敵視するようになります。

案の定ビスマルクはアウグスタに批判的な意見を議会で述べるようになり
妻のヨハンナも皇后に対して無礼な態度をとったりします。
夫ヴィルヘルムまでが首相に同調したことでアウグスタの狂乱は重くなりました。

それでも、孫のヴィルヘルムは見込みあり!と思ったのか自ら教育しようとしました。
また戦争が嫌いで、ナイチンゲールの意見を取り入れて全国婦人連合を設立しました。
活動的な女性だったみたいですね。
政治には口を出さず慈善とか教育や芸術の振興など
王妃らしい活動に力を入れていたら、ビスマルクも黙っていたかもしれないですね。

1866年と1870年の戦争を経てヴィルヘルムはドイツ皇帝になり
アウグスタも皇后になりましたが、ビスマルクによって葬り去られていました。
そんな彼女がふたたび表舞台に姿を表したのは1888年、孫のヴィルヘルム2世即位後です。
夫ヴィルヘルム1世は1888年に80歳で亡くなり
息子フリードリヒ3世が即位したものの、99日後に癌で亡くなってしまったのです。
ヴィルヘルム2世は、「気が合わない!」ということでビスマルクを早々に追いやりました。

1890年、69歳で亡くなったアウグスタ。
愛する孫の戴冠も見られたし、27年におよんで自分を追いやっていた
ビスマルクもいなくなって、最後の最後は幸せだったんじゃないでしょうか?

ただアウグスタには幸せでも、それがドイツのために良かったのかどうかは… つづく

(参考文献 阿部謹也氏『物語ドイツの歴史』 Wikipdia英語版)

物語 ドイツの歴史 中央公論社


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プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世妃 エリーザベト

2009-11-13 01:19:38 | ドイツ系王妃
双子姉妹の王妃
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世妃 エリーザベト・ルドヴィカ
                       フォン・バイエルン


1801~1873/在位 1840~1861

エリーザベトはバイエルン王マクシミリアン1世王女で
ヴィッテルスバハ=ツヴァイブリュッケン家出身、こちらも名家です。

       

双子の妹がおりまして、ザクセン王ヨーハン1世妃になっています。
ちなみにザクセン王家もヴィッテルスバハ家の家系です。

              
                こちら双子の姉妹アマーリエ
                一卵性だそうですが、画家によってちがうものですね…


小さくなってしまうので家系図からは省きましたが
エリーザベトの姉妹のうち、ゾフィーはオーストリア大公フランツ・カールに、
ルドヴィカはバイエルン公マクシミリアン・ヨーゼフにそれぞれ嫁いで
その子供同士、すなわち皇帝フランツ・ヨーゼフとエリーザベト(シシィ)が
後に結婚することになりました。
ホントに入り組んでて素敵な家系図が書けますね!

エリーザベトは22歳の時にフリードリヒと結婚しました。
当時の王女としては晩婚なのではないかしら?

エリーザベトは、フリードリヒの知的趣味や芸術活動の良き理解者でしたが
1840年に夫が即位して王妃になると、政治的なことにも関わるようになります。
特に、オーストリアとの間に友好関係を築こうと精力的に活動しました。

ドイツは父王の時代にウィーン会議で連邦国家になっていましたが
まだ統一されていたわけではありません。
これは、大国を作るまいとするオーストリアの意向で
これに対してドイツ連邦では統一運動がおこりつつありました。

フリードリヒは、小ドイツ主義による国家統一を目指している最中の
1857年に脳卒中で倒れます。
エリーザベトは王弟ヴィルヘルム(後の1世)に政治を任せ
献身的な看護で夫の世話をしました。

1816年、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が亡くなると表舞台からは身を引き
慈善に奉仕しながら静かに暮らしました。
ヴィルヘルム1世は義姉を真の友人として尊重していたそうです。

1873年12月、エリーザベトはドレスデンの妹アマーリエを訪問中に亡くなりました。
アマーリエは10月に夫のヨーハン1世を亡くしているので
慰めに行ってあげたんじゃないかしら?
ふたりとも未亡人になったし、これからは気兼ね無しで会えるわね!って
募る話しをしていたんでしょうに…

プロイセンに運ばれ、夫の側に葬られました。

              
                 こちらの肖像画もどうぞ
                「お前に食わせるタンメンは…」に似てる気が…


(参考文献 坂井榮八郎氏『ドイツ史10講』 Wikipedia英語版)
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プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世妃 ルイーゼ

2009-11-12 01:42:03 | ドイツ系王妃
ナポレオンを手こずらせた王妃
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世妃 ルイーゼ・アウグステ・フォン
                  メクレンブルク・シュトレリッツ


1776~1810/在位 1797~1810

ルイーゼの母フリーデリケ・カロリーネはヘッセン=ダルムシュタット家出で
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世妃フリーデリケの叔母にあたります。
だからルイーゼはフリーデリケの…なににあたるのかしら? はとこ? いとこだ。

メクレンブルク家も大変な名家のひとつです。
ルイーゼは父方で英国王室と、母方でフランス王室と繋がりがありました。

       

1793年、ルイーゼはフランクフルトで王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムに会いました。
ルイーゼの美しさと高貴さに魅せられた王太子は彼女に求婚して
ふたりはその年のうちに結婚しました。
これまで不幸な王妃が続いていますから、幸せな王妃に登場してもらいたいところですね。

ちなみに妹のフリーデリケもプロイセン王子ルートヴィヒと結婚しています。

結婚から4年後にフリードリヒ・ヴィルヘルム3世が即位します。
ルイーゼは王妃になると国民の尊敬と愛情を一身に集める存在になりました。

しかし世は激動の時代です。
プロイセンは1789年のフランス革命の後、マリー・アントワネットの処遇に憤っていた
オーストリアと手を組んで1792年から戦争に突入していました。
一度は講和を結んで中立の立場をとったものの、ナポレオンの勢力が拡大していた
1806年、何を思ったか宣戦布告しました。

この戦争はプロイセンの大敗に終わります。
ルイーゼはなんとか講和の条件を良くするために、個人的にナポレオンに訴えかけようと
あの手この手を駆使しますが失敗します。
プロイセンはティルジット条約で国土の大半を失う事になりました。

しかしルイーゼの果敢な行いは国民から多くの賞賛を浴びたそうですよ。
ナポレオンは戦争中、影響力が強いルイーゼの評判を打ち砕こうと試みましたが
結局プロイセン国民の反感をかっただけでした。

故郷のシュトレリッツに父を訪問している最中の1810年
ルイーゼは夫の腕に抱かれて亡くなりました。
34年の短い生涯でしたが、夫にも国民にも愛され、幸福な人生だったのではないかしら?

プロイセンはこの後ロシアと手を組み、打倒ナポレオンを主導します。
ナポレオンの前にひれ伏していたヨーロッパ各国もこの戦いに加わり
1814年にはナポレオンからの解放を勝ち取りました。

きっとルイーゼもこの勝利を夫とともに喜びたかったでしょうね。
一緒に戦ってきたんですもの。

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は愛人を持ったことはありませんでしたが
ルイーゼの死後アウグステ・フォン・ハラハという女性と貴賤結婚しています。

(参考文献 鈴木晟氏『面白いほどよくわかる世界の王室』
      坂井榮八郎氏『ドイツ史10講』 Wikipedia英語版)
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プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世妃 フリーデリケ

2009-11-08 11:48:41 | ドイツ系王妃
風変わりな王妃
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世妃 フリーデリケ・ルイーゼ・フォン
                    ヘッセン=ダルムシュタット


1751~1805/在位 1786~1797

フリーデリケは、またまたフリードリヒ大王が
エリーザベトと離婚したフリードリヒ・ヴィルヘルムの妃にと選んだ女性です。
ヘッセン=ダルムシュタット家… こちらも名家ですね。

      

再婚は離婚から数ヶ月に無理矢理行われたもので、またもや不幸なものでした。
フリードリヒ・ヴィルヘルムにはすでに多数の愛人がいて
とりわけヴィルヘルミーネ・エンケという強力な愛妾にのめりこんでいました。

フリーデリケは8人の子供と、前妃エリーザベトの娘の教育などに
力をそそいで過ごしたようです。

フリーデリケは一風変わった女性でした。
たとえば、幽霊や幻が見えると言って、昼間寝て夜は起きているという
昼夜逆転の生活を送ってたらしいですよ

それからまったく愛嬌が無かったとも言われています。
でもものすごく気前は良かったらしいのよね。
無愛想で気前が良い… 実はいい人っていうパターンかしら?

フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の死から8年後にベルリンで亡くなりました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世妃 エリーザベト

2009-11-07 09:54:31 | ドイツ系王妃
駆け落ちを図った王太子妃
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世妃 エリーザベト・クリスティーネ
          フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク


1746~1840/在位せず

エリーザベトの母はフリードリヒ大王の妹シャルロッテ・フィリッピーネで
大王直々に姪のエリーザベトを後継者の花嫁に選びました。
後継者のフリードリヒ・ヴィルヘルムも大王の甥でエリーザベトとはいとこ同士
舅と姑はおじ、おばという一族をあげての縁談でした。

       

けれどもこのふたりの結婚も不幸なものでした。

名君の後の王はしおしおになるパターンが多いのですが
フリードリヒ・ヴィルヘルムはポーランドも手中に収めるなど
強大なプロイセンをさらに強くしていきます。

戦争に強い英雄のご多聞にもれず、生涯に多数の愛人を持ちましたが
新婚当初から妻に不誠実だったようです。

フリードリヒ大王は早く嫡子を生めとやいのやいの言ってきますが
女の子が生まれたことでふたりにはさらにすきま風が…

夫から無視され、傷ついたエリーザベトは「わたくしも」と
音楽家やポツダムの将校たちと浮気を始めます。
夫に対抗して自分も浮気を…という妃は多いのですが
あまりいい結果をもたらしたことはないような気がするんですけどね…

エリーザベトは1769年に妊娠し一大スキャンダルになります。
しかも、駆け落ちをしようとした相手の男(不明)には裏切られてしまいます。

エリーザベトは離婚を言い渡されて、ポーランドのシュチェチン城に監禁されました。
居心地には配慮があったようですが監視がついていました。
娘のフリーデリケ・シャルロッテにはその後会う事はありませんでした。

1774年からは、夏になるとシロンスクの古風な修道院で過ごすようになり
1786年にはフリードリヒ大王が亡くなって監視はゆるむものの、ずーっと監禁状態です。
離婚したなら自由にさせてあげればいいじゃない?

1810年に町がフランス軍に占領されるとエリーザベトは市外の小さな村に移りました。

結局71年にわたり囚われの身で過ごしたエリーザベトは94歳で亡くなりました。
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は40年以上も前に亡くなっていたし
兄弟姉妹もこの世にはいませんでした。

エリーザベトは誰とも一緒に葬られなくてすむように、自ら墓の準備をしていました。
希望どおり埋葬されたのですが、その後クラクフの大聖堂に移葬されています。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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プロイセン王フリードリヒ2世妃 エリーザベト

2009-11-04 00:15:50 | ドイツ系王妃
完全に無視された王妃
フリードリヒ2世妃 エリーザベト・クリスティーネ・フォン
          ブラウンシュヴァイク=リューネブルク=ベーヴァン


1715~1797/在位 1740~1786

フリードリヒ2世は、父王から引き継いだ軍事力を用いて戦功をあげ
母ゾフィアから受け継いだアカデミックな部分も活かして学術を奨励しました。
また、農民保護、産業振興、税金政策、国土開発に入植政策などを行い
啓蒙専制君主として名高い人物です。

フリードリヒ大王とも呼ばれた名君。
だのに、女性に対しては学習能力がなさ過ぎじゃなくて?

フリードリヒ2世妃エリーザベトは、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公
フェルディナント・アルベルト2世の公女です。
名家同士の結婚式は、1733年、エリーザベトの父の地所であるザルツダーラムで
牧歌劇やオペラなども開催して盛大に行われました。

家系図からも分かるように兄弟姉妹3組が婚姻関係を結んでします。
双方に強い結びつきが必要だったようですね。

       

ところがフリードリヒはこの結婚には不本意でした。
式の後ふたりでラインスブルク城に移りますが、すぐにエリーザベトを無視し
その後もずっと相手にしませんでした。

1740年に父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が亡くなって即位すると
フリードリヒ2世は直ちに行動を開始します。
エリーザベトにショーンハウゼン宮殿を贈り別居しました。
どうやら恐ろしい父王に無理矢理おしつけられた結婚みたいですね。
積もり積もった反抗心をエリーザベトにぶつけたのかもしれません。

その後ふたりは訪ね合うことも無く、行事の場でしか顔を会わせませんでした。

オーストリアとの7年戦争の間、エリーザベトはザクセンのマグデブルクに
避難するように強いられました。
戦争後6年ぶりに会ったエリーザベトに対してフリードリヒがかけた言葉は
「太ったね」のひと言だけだっていうのよ! どう思います?

ひどいよね
ゾフィアが不幸な結婚生活に泣いている姿を目にしていながら
自分の妻を同じ目にあわせるとは、どういう神経の持ち主でしょ?
父王は横暴、フリードリヒはネグレクトと方向性は違うとはいえ
女性に対して冷徹ではありませんか?

エリーザベトは文学好きで、道徳に関する本をフランス語で書いたりしています。
それから絹の培養をプロイセンに広めました。
実は聡明で王のサポートも立派に果たせる女性だったんじゃないかしらね?

フリードリヒ2世が亡くなった1786年以降のことは詳しく分かりませんが
13年後の1797年に亡くなりました。

結婚から53年間、まったく夫に顧みられることのない毎日なんて悲しすぎる。
いやなら離婚すりゃあいいのにね!
そうしたらエリーザベトだって再婚できたのに。

ふたりの間には子供がいなかったので
フリードリヒ2世の弟アウグスト・ヴィルヘルムと
エリーザベトの妹ルイーゼの子、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が即位しました。

(参考文献 鈴木晟氏『面白いほどよくわかる世界の王室』
      坂井榮八郎氏『ドイツ史10講』 『Wikipedia英語版』)
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プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世妃 ゾフィア

2009-11-03 11:14:35 | ドイツ系王妃
横暴な夫に耐えて34年
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世妃 ゾフィア・ドロテア
                     フォン・ハノーファー


1687~1757/在位 1713~1740

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はプロイセンを軍事的に強化した王で
彼がいなければ息子フリードリヒ大王の繁栄も無かったかもしれないんです。
立派な君主です。
でも女の目から見れば横暴としか言いようがないね

ゾフィア・ドロテアは大英帝国王ジョージ1世の王女です。
母は悲劇の王妃ゾフィア・ドロテア

          

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は “ 軍人王 ” と呼ばれたほどで
軍事一本やり、芸術や学問にまったく興味がない男性でした。
一方ゾフィアは芸術に学問に造詣が深い女性でした。

1706年に結婚したいとこ同士のふたりでしたがあらゆる面で意見が一致せず
ゾフィアの結婚生活は不幸なものでした。

細かい事にまで口うるさく、万事を支配せずにはいられなくて
命令に背く者には容赦ない罰を浴びせたというフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は
家族にも同じように接していました。
家にいたら嫌だわ、こんな人

ゾフィアや子供たちは、絶えず王に怯えながら暮らしていました。
王太子フリードリヒ(後の2世)などは、ゾフィアと同じように芸術が好きだったため
虐待のような扱いを受けていたということです。
ゾフィアと王太子は図書室で何時間も語り合うのが好きで、仲の良い母子でしたが
これも王の怒りに火をつけたみたいですね。

あまりの仕打ちに王太子はゾフィアの生家英国に逃亡することを企てたことがあり
ゾフィアも手を貸すことにしたのですが、計画は結局失敗に終わります。
王太子は身柄を拘束されてしまいました。
一国の王太子が国を捨てようと決心するって… よっぽどのことですよね。

ゾフィアは天然痘の痕があり、決して美しいとは言えなかったそうですが
スタイルは良く、子供を14人 生んだ後も維持していました。
う、うらやましいですね どうしたらそんなミラクルな事が?

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は浮気をしなかったという珍しい王で
子供も14人生まれていますが、これはゾフィアを愛していたからではありません。
王は、女性は男性に支配されるのが当たり前で、子供さえ生めばいいという
柳沢元大臣な考えの持ち主でした。

だから、ゾフィアは志も高く学問も積んでいた女性だったのに
決して彼女に意見を求めようとはしませんでした。
すごい男尊女卑! いくら中世でもひどい。

1740年、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は旅行中に持病が悪化して亡くなります。
ゾフィアもやれやれ… だったでしょうね
大好きな息子フリードリヒ2世も即位して、晩年は幸せだったのではないかしら?
横暴な亭主が死んだ後の未亡人てけっこう長生きするものなんですよね。

              
               なんとなく幸せそうに見えたりして…

ゾフィアは王の死から17年後、70歳で亡くなりました。
フリードリヒ2世は大好きな母親の死に、深い哀悼の意を表しました。

(参考文献 鈴木晟氏『面白いほどよくわかる世界の王室』 Wikipedia英語版)

面白いほどよくわかる世界の王室 日本文芸社


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プロイセン王フリードリヒ1世妃 ゾフィア・ルイーゼ

2009-11-02 00:07:14 | ドイツ系王妃
宮廷の犠牲者
フリードリヒ1世妃 ゾフィア・ルイーゼ・フォン
               メクレンブルク=シュヴェリーン


1685~1735/在位 1708~1713

ゾフィアとフリードリヒの結婚は、後継者のために再婚しろとうるさく言う
宮廷の実力者ワルテンベルク伯がとりまとめたものです。
ところが、ワルテンベルク伯の妻カタリーナはフリードリヒ1世の愛人なのねぇ…

政治にはあまり関心がなかったと言われるフリードリヒ1世、
ワルテンベルク伯夫妻にがっちり操られていたんじゃないかしら?

ゾフィアの生家メクレンブルク家もかなりの名家です。

        

嫁いで来た時には “ メクレンブルクの女神 ” ともてはやされたものでした。
けれどもゾフィアはすぐにベルリンの宮廷に失望します。

フランス語と音楽以外の教育を受けていなくて、内向的で真面目なゾフィアは
目立ちたがりで機智に富んだ女たちの戦場である宮廷では
うまくやっていけなかったみたい…

それに愛人が大きな顔をしているんですもの。
お嬢様育ちのゾフィアは、権謀術数に長けたカタリーナの敵ではありませんでした。

精神錯乱をおこすようになったゾフィアはフリードリヒ1世を恐れさせました。
フリードリヒは、彼の死を予言する彼女を伝説の幽霊だと思い込んだらしいですよ。
彼女の心の苦しさに比べたら… もっとビビるがいいよね!

ゾフィアの鬱病は悪化して公務も果たせなくなっていきます。

フリードリヒ1世は1713年に亡くなりますが
死の数週間前にゾフィアを実家に帰すことにしました。
彼女を気遣ってなのか、恐ろしかったからなのかは分かりませんけどね。

メクレンブルクに帰ったゾフィアはグラボウで暮らし1735年に亡くなりました。
詳しい事はわかりませんが、実家に帰ってからは健康を取り戻したと思いたいものです。

(参考文献 鈴木晟氏『面白いほどよくわかる世界の王室』 『Wikipedia英語版』)

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プロイセン王フリードリヒ1世妃 ゾフィア・シャッロッテ

2009-11-01 00:25:27 | ドイツ系王妃
孤独を克服!多趣味な王妃
フリードリヒ1世妃 ゾフィア・シャルロッテ・フォン・ハノーファー


1668~1705/在位 1701~1705

ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストの娘ゾフィアは
大英帝国王ジョージ1世の妹にあたります。
母はジョージ1世妃ゾフィア・ドロテア をいじめ抜いたことで悪名高いゾフィアです。

        

少女の頃、母娘のゾフィア・コンビはフランス王子との縁談という期待を胸に
フランスを訪れていましたが何事もおこらず、急遽計画を変更して
フリードリヒとの縁談がアレンジされました。

1688年に結婚し、1701年には夫の即位に伴って初代プロイセン王妃になりました。

フリードリヒ1世は、最初の妻同様ゾフィアと愛し合ったそうですが
フランス王ルイ14世を真似て公妾を宮殿内に住まわせるようになると
ゾフィアをないがしろにするようになります。

1696年、ゾフィアはシャルロッテンブルク宮殿を手に入れました。
愛情の証なのか、追っ払うためか分かりませんがフリードリヒが建ててくれたものです。

ゾフィアはシャルロッテンブルク宮殿の主として、夫から独立した生活を送ります。
フリードリヒも、ゾフィアも、お互い招かれた時にしか相手を訪ねませんでした。
たとえば、1699年にゾフィアはフリードリヒのお誕生パーティーを開いたのね。
フリードリヒはご招待されて、シャルロッテンブルク宮殿を訪れています。
夫婦で招待状の送り合い… せつないね。

ゾフィアは別居を始めると勉学に精を出して
フランス語・イタリア語・英語を習得しました。
1700年頃からは哲学や科学に興味を持ち、学者たちを侍らせて
プロイセン科学アカデミーも設立しました。

音楽にも傾倒します。
自らチェンバロを演奏し、唄い、演奏家を招いてイタリア・オペラを開催しました。
寂しさを酒や浪費ではなく、アカデミックな趣味で紛らわす… 賢明ですね。

ロシア皇帝ピョートル1世はヨーロッパ訪問中の1697年に
母と娘のゾフィア・コンビに会っています。
ピョートルはふたりに圧倒されて口も聞けなかったらしいですよ。
第一印象は「手におえない女」だったそうです。
その後仲良くなったみたいですけどね。

1705年、ゾフィアは肺炎で亡くなりました。36歳でした。

当時の寂しい王侯妃たちには、愛人に溺れたり精神のバランスを崩したりと
不幸な後半生を送る人も多いのですが、自分の生き方、生き甲斐を
しっかり持って生きたというのが立派ですね。
わかっちゃいるけどなかなかできる事ではありません。 見習いたい…

短い在位でしたが、芸術や科学に貢献した彼女にふさわしく
シャルロッテの名は、都市や池、学校などに遺されています。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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プロイセン王フリードリヒ1世妃 エリーザベト

2009-10-31 12:18:24 | ドイツ系王妃
母親の売り込み大成功!
フリードリヒ1世妃 エリーザベト・ヘンリエッテ
                フォン・ヘッセン=カッセル


1661~1683/在位せず

ドイツはですねぇ、ちょっと複雑なので詳しい事は学者の方に任せますが
ものすごーくざっくりご紹介しますね。

現在のEU加盟国並の広大な領土を有していたフランク帝国は
840年代にルートヴィヒ1世の息子たちの争いによって大きく3つに分裂します。
長男ロタール1世は中部フランク(イタリア方面)王国を、
四男シャルル2世は西フランク(フランス方面)王国をそれぞれ手に入れました。

三男ルートヴィヒ2世が手に入れたのが東フランク(ドイツ方面)王国です。
東フランク王国はその後西ローマ帝国になり、神聖ローマ帝国になっていきます。
当時の神聖ローマ皇帝は国内の有力な領邦君主によって選ばれていて、
ドイツ王は、次期神聖ローマ皇帝のための、いわば “ 皇太子 ” の称号でした。
皇帝位はそのうちハプスブルク家の専売特許みたいになっちゃいますが…

もともと領邦君主の力が強かったドイツは、王とか皇帝とか言ったって
国中を支配する力は無く、各領邦君主が王様のような暮らしをしていたわけね。
特に選帝侯といわれる神聖ローマ皇帝を選ぶ権利を所有する領邦君主は名家ぞろいです。

そんなわけで、家系図も複雑だし、歴史も入り組んでて面白いドイツ、
まずは後にドイツ皇帝となったホーエンツォレルン家をご紹介。

ホーエンツォレルン家は、代々ブランデンブルク選帝侯に就いていた名家です。
初代プロイセン王フリードリヒ1世の父、フリードリヒ・ヴィルヘルムは
ブランデンブルク=プロイセンを躍進させ、大選帝侯と呼ばれてます。
フリードリヒ1世は、スペイン継承戦争で神聖ローマ皇帝側につくことを条件に
プロイセン王の称号を手に入れました。

フリードリヒ1世の最初の妃エリーザベトの母は大選帝侯の妹ヘドヴィヒ・ゾフィーで
早くから娘を従兄のフリードリヒに嫁がせようと考えていました。

          

ヘドヴィヒはエリーザベトの売り込みに余念がなかったのですが
一時フリードリヒが神聖ローマ皇帝レオポルト1世の妹と結婚しようとしたために
頓挫しそうになりました。

たぶん、ロートリンゲン公と再婚したポーランド王未亡人エレオノーレ・マリアか
プファルツ選帝侯と結婚したマリア・アンナが候補だったと思われますが
この縁談が叶わなかったため、エリーザベトは晴れてフリードリヒの妃に選ばれました。
良かったね

1678年、母親とともにベルリンへ出発したエリーザベトでしたが
フリードリヒはナイメーヘン条約締結のためオランダに向かっていて
なんと1年間ベルリン宮殿で待ちぼうけを食らう事に…
嫌われている感じでですよね? しつこく縁談をせまりすぎたのかしら?

けれども、結婚後のふたりはものすごく愛し合っていたそうです。
結婚の翌年には娘のルイーゼ・ドロテアも生まれて幸せ一杯だったのですが
エリーザベトは結婚から4年後の1683年、21歳で亡くなりました。

結婚した相手と愛し合えるというのは、当時の王侯貴族にとって
大変幸福なことですね。

この後のプロイセン王妃はけっこうつらい人生を送るのですけれど… つづく

(参考文献 阿部謹也氏『物語ドイツの歴史』 坂井榮八郎氏『ドイツ史10講』
      堀越孝一氏『中世ヨーロッパの歴史』
      鈴木晟氏『面白いほどよくわかる世界の王室』 Wikipedia英語版)

ドイツ史10講 岩波書店


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