万福寺 大三島のつれづれ

瀬戸内・大三島 万福寺の日記です。
大三島の自然の移ろいと日々の島での生活を綴ります。

還相の菩薩(げんそうのぼさつ)

2010年08月12日 | Weblog
 盂蘭盆(うらぼん)の季節になりました。墓参で帰郷される方が目立ちはじめました。

 過日8/6の広島での原爆記念式典のことが心中を駆け巡っています。孫の樹南が「平和への誓い」を申させて頂いたこともあるのですが、65年前に兄綜智(そうち)が被爆死して両親をはじめとして家族が悲嘆のどん底に落ち込んだことなどの幼少時の記憶が鮮明によみがえって来たのです。

 父三智が昭和22年の日記に認めていた一文を改めて読んでみました。この一文を題して「還相の菩薩」(げんそうのぼさつ)としてみました。全文を紹介させていただきます。

    還相の菩薩
 第二十二還相回向(げんそうえこう)の願は欣慕の願(きんぼのがん)として味あう時、限りなくなつかしまれる。別れた子供にもう一度会いたいのは凡夫(ぼんぶ)の迷情(めいじょう)である。どこであってもいゝたゞ会いたいのである。
 然し一度他界した以上いかにもだえても会うことは出来ない。こゝに還相回向の願が子供を慕う思慕の情に応じて建てられたのである。他界した子供に会う道は唯仏願(ぶつがん)に乗じて浄土往生するほかにはない。
 たとえ、浄土にいなくとも還相回向の願によっていづこにでも行って、子供に会えるのである。大悲の心をもって子供に向かうことが出来るのである。
 然し、聞法(もんぼう)によって本願に帰ってみればもはや子供は救済(きゅうさい)の対象ではなく、却って私の迷情を破って本願に帰せしめたところの還相の菩薩(げんそうのぼさつ)であったのである。
 かくてこそ第二十二願が欣募の願(きんぼのがん)として無限の意趣をたゝえて来る。

 自作短歌が添えられていて次のように詠じていました。

  めぐりくるこの日は悲しされどまた涙のうちに念仏にかえる

 味読して頂ければ幸甚に存じます。私としてみればこの一文は時空を超えた、60数年昔の文章ではなくて生き生きとして今の私にささやき続けてくれている心であると感じます。

 画像は平和公園内の「折り鶴の塔」。全国から高校生らがおびたゞしい数の折り鶴が捧げられていました。
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広島平和記念式典

2010年08月07日 | Weblog
 8/6(金)広島平和記念式典に参列すべく午前6時過ぎ平和公園に着きました。早沢山の参列の人たちが並んでいました。
 6時30分開場、比較的中央の席となり、樹南(みきな)の担任の先生の席も坊守の従妹後藤さん(お父さんが医師で勤務中被爆死)の席も確保できました。

 8時15分平和の鐘が撞かれる中に黙祷(合掌お念仏)、秋葉市長の「平和宣言」ーー2020までの核兵器廃絶のため更に大きなうねりを創りますーーと宣言されました。数百羽の鳩が放たれ青空に舞いました。

 続いて樹南と横林和宏君の「平和への誓い」文朗読。(前略)ーーこの地球を笑顔でいっぱいにするために、ヒロシマの願いを、世界へ、未来へ、伝えていくことを誓います!ーー
 
 数万の参列者を前にしてだけに大丈夫かな、失敗しなければいいがと思っていましたが、落ち着いて力強くできたと思いました。

 菅直人総理、県知事、潘基文国連事務総長の感動的な挨拶。
最後に広島市内の中高生編成の吹奏楽、合唱による「ひろしま平和の歌」演奏で閉式となりました。

 65年目にして式典に孫のご縁で参列できました。深謝

 世の中安穏なれ、仏法ひろまれかし!(親鸞聖人)

 画像は原爆ドームの上空を舞う鳩。
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八月の法語

2010年08月03日 | Weblog
 八月のカレンダーの法語は

  本願を聞きて 疑うこころなきを 聞(もん)というなり

と、掲げられています。

このご文は親鸞聖人のご撰述『一念多念文意』(「一念多念証文」とも)の中の一節です。法然聖人の高弟寛律師(りゅうかんりっし)が著された『一念多念分別事』を親鸞聖人が詳しく注釈をされたのが『一念多念文意』です。
 法語のお言葉はこの著書のなかの本願成就文(諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転)を深くご解釈されたご文です。

 「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこ  ころなきを「聞」といふなり。信心をあらはすみのりなり。
                             (注釈判「浄土真宗聖典」P678)

 私と云う存在を知るということは如来さまの願いのおまことが名号となり私に至りとどいている、その名号のおいわれを聞かせていただくことであります。聞かせていただくままが疑う余地のない、やるせないみ心に包まれる。そのことを信心の身ともすがたとも云われるのです。お念仏を申さずにはおれない身ともお育てにあずかることであります。

 暦の上では立秋が過ぎましたが、まだまだ猛暑が続きそうです。この暑さに喘ぐこの私の一刻一刻に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と歩をともにしてくださってあることをフツと味わうことがありす。

         
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夏休み子ども会

2010年08月02日 | Weblog
8/1(日)午前11時より夏休み子ども会を開催いたしました。子どもたち24、5名にお母さん

たち6名の参加でした。

 先ず、本堂で「らいはいのうた」のお参り、お話、ゲーム、お内陣の説明。

正午より玄関前のスロープを利用して「流しソーメン」を組み入れた昼食。

 メインデッシュは三色おにぎり、フランクフルトソーセイジ、チキンナゲットなどですが、子ども

たちはそれらはそこそこに流しソーメンに熱中します。一人宛2把ゆでたのですが無くなってしまい

ました。おにぎりは半分残りました。

 若院と若坊守が暑い中を孟宗竹を切り倒し、半分に割って樋を用意した所為があったと云うことで

しょう。

 3時に会が終わり子どもたちは帰って行きました。

 寺族4人で後片付けをしながら「流しソーメン」を食べてみよう、と云うことになり、ソーメンを

新たに湯がき、一人がソーメンを流し、3人が竹樋を流れるソーメンを食べてみました。実は4人と

も「流しソーメン」を食べるのは初めてなのです。

 「おいしい!」と歓声が上がるほど実に美味しいのです。ざるにあげられたソーメンと水に流され

たソーメンとの違いは生きの良いおさしみとそうでないおさしみとの違いくらいあることには驚きま

した。

 子どもたちが熱中したのは流れてくるソーメンを二本の箸ですくい取るスリル感とその生きたおい

しさに熱中したのでしょう。

 新しい発見でした。でも一人では楽しみも美味しさもありません。集まってくれることは有難いこ

とです。

 画像は流しソーメンの模様、子どもたちの真剣な眼差しを見てください。
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