万福寺 大三島のつれづれ

瀬戸内・大三島 万福寺の日記です。
大三島の自然の移ろいと日々の島での生活を綴ります。

伊予国府周辺の寺社探訪

2014年11月25日 | Weblog

 伊予国(愛媛県)の国府は越智郡に置かれていたことは、越智郡桜井地区に国分寺や国分尼寺が置かれていた遺跡があることからも確かなことでしょうが、その国府庁の設置場所については今も確定していません。上徳や出作、町谷、中寺、八町などがさまざまに推定されているのですがまだ判然とはしていませんが、現在の町谷から蔵敷にかけて営まれている諸社寺を巡拝して見ますと、かつての国庁周辺に平安時代の頃から営まれていた社寺であることを彷彿として感じるものがあります。千年を越える年代の間に激しい戦乱や有力檀那が没落したりの栄枯盛衰の嵐に晒されて、かつての様相、規模ではないかも知れないけれども、歩いて見ると千年を越えた息吹と鼓動が感じられるように思えます。

 

    

 倉稲三島神社

 

        

樟本神社

 長保2年(1000)9月15日に文章博士大江以言(おおえのもちとき)らが樟本道場に於いて勧学会(かんがくえ)が開催されたことを以言が記述(本朝文粋)し遺しています。勧学会とは都の文章生ら20名が比叡山若い学僧20名を叡山の麓の寺院に迎えて仏教講会を春秋2回催していた講会で第1期勧学会は慶滋保胤が中心となり20年も続けられていましたが、長保の頃には慶滋保胤が比叡山に出家(寂心)したこともあって中断していた頃になります。その勧学会が遠く伊予の国府近くの樟本道場に於いて開催されていることは注目に値します。樟本道場が樟本神社であるとは云えませんが、その付近に存在していたものと考えられます。この樟本道場での勧学会以後に都では勧学会が復興し第2期勧学会となっているようですから意味深いものがあります。 

 平安時代の中期頃からの御所に文章学(もんじょ)で勤める有志ある青年達の真摯な仏教求道活動、勧学会が宮廷の女流文学や平安浄土教興隆に与えた影響は大なるものがあると考えております。

 そしてまた、海を隔てた伊予の国府近辺にも少なからず影響を与えていると考えられます。

     

 常明寺(真言宗醍醐派)          浄土宗長明寺

  

  来島山附属寺

    

  東禅寺

     

  鴨部神社       越智益躬の墓塔

実は、伊予国府近くで行われた「勧学会」の興行の機縁はこの地が慶滋保胤(よししげのやすだね)が撰述した『日本往生極楽記』の在家男子往生人4人の中に伊予国の「越智益躬」(おちのますみ)が収録されていることにあったと考えられるのです。その「越智益躬」の墓塔が蔵敷町の鴨部神社境内に建っていることには大変な驚きでした。越智益躬の出自は鴨部(現玉川町)であるようで、釈迦ヶ嶽にあった宝蔵寺とも因縁の厚い人であったことが諸記録から覗えます。

 八町、蔵敷辺の寺社を巡拝して感じることは、どこにも楠の大樹が境内に植わっていることです。大三島宮浦の大山祇神社にあるような2千年、3千年と云うような樹ではありませんが、大切にされていることが共通しているようです。これは「越智益躬」を「樹下大神」などと呼ばれていたことと何らか関係があるように感じながら、近い内にゆっくりと探訪しようと思ったことです。

 

 

 

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