
掲載の写真は何だか判らないと思います。これは御煎茶を点てる時に使う
茶合と云う道具なのですが。この二つとも万福寺の先々代住職慈朗法師の手
作りになるもののようです。両方とも煤竹で作られていますが、興味をそそ
るのはどちらにも印刻刀で漢詩が行書体で彫り込まれていることです。
写真の右のものには制作の年号が彫り込まれていますので製作年次が良く
わかります。「明治已酉仲春 於教法精舎階上 慈朗」とありますから明治
42年の今頃の季節でしょうか、製作場所は江田島の教法寺の庫裏の2階居
室であることが分ります。年齢は25才、万福寺へ入寺する前年の年に当た
ります。この茶合の詩は表が「廬せん」の「去国三巴遠云々」裏側には細か
い刻りで白楽天の「慈烏夜啼」の詩が全て刻られています。
写真左の茶合は万福寺へ入寺以後の製作と思われますが、右下に髑髏が彫
られていて、平安時代の21才で早世した優れた歌詠みでもあった藤原義孝
の七言絶句「朝有紅顔跨世路 夕成白骨朽郊原」(朝に紅顔あって世路にほ
こり、夕べに白骨となって郊原に朽ちる。「和漢朗詠集」)
この詩は蓮如上人が「白骨の御文章」に使われていますのでよく知られて
いるものです。
慈郎法師は大正11年秋38才で境涯を終えています。現住職である私の
祖父に当たるのですが、遺されている数少ない遺品類を通して祖父と真向か
いとなる時をいつしか楽しむようになりました。
茶合と云う道具なのですが。この二つとも万福寺の先々代住職慈朗法師の手
作りになるもののようです。両方とも煤竹で作られていますが、興味をそそ
るのはどちらにも印刻刀で漢詩が行書体で彫り込まれていることです。
写真の右のものには制作の年号が彫り込まれていますので製作年次が良く
わかります。「明治已酉仲春 於教法精舎階上 慈朗」とありますから明治
42年の今頃の季節でしょうか、製作場所は江田島の教法寺の庫裏の2階居
室であることが分ります。年齢は25才、万福寺へ入寺する前年の年に当た
ります。この茶合の詩は表が「廬せん」の「去国三巴遠云々」裏側には細か
い刻りで白楽天の「慈烏夜啼」の詩が全て刻られています。
写真左の茶合は万福寺へ入寺以後の製作と思われますが、右下に髑髏が彫
られていて、平安時代の21才で早世した優れた歌詠みでもあった藤原義孝
の七言絶句「朝有紅顔跨世路 夕成白骨朽郊原」(朝に紅顔あって世路にほ
こり、夕べに白骨となって郊原に朽ちる。「和漢朗詠集」)
この詩は蓮如上人が「白骨の御文章」に使われていますのでよく知られて
いるものです。
慈郎法師は大正11年秋38才で境涯を終えています。現住職である私の
祖父に当たるのですが、遺されている数少ない遺品類を通して祖父と真向か
いとなる時をいつしか楽しむようになりました。