万福寺 大三島のつれづれ

瀬戸内・大三島 万福寺の日記です。
大三島の自然の移ろいと日々の島での生活を綴ります。

蓮如上人のご往生

2009年05月13日 | Weblog
 応仁の乱以後急速に一般大衆の拠り所となり吉崎を中心に教線は広がって行きました。しかし、在地の大名との権力闘争に巻き込まれる恐れもあって蓮如上人は文明7年(1475)吉崎を海路退去、若狭に上陸されて陸路教化されながら畿内河内の出口辺を拠点に教化をされました。
 江州金ヶ森の道宗の進言もあって山科野村の地に坊舎(本願寺)の建立をはたされました。大津近松へ安置されていた親鸞聖人ご真影をお迎えし御正忌報恩講をお勤めされたのが文明12年(1480)上人66才のことでありました。
75才の折、門主を実如上人に譲り、山科御坊南殿に隠居されました。しかし、近畿一円への足を運んでの教化、『御文章』を認めての伝道は弛むことなくつづけられました。また、大坂石山御坊の建立は82才の折に起工されて明応6年に完成されています。ご往生は明応8年、石山御坊から山科御坊へお移りになられ、旧3月25日正午ご往生になられたのです。
 画像は一家衆、門弟の方々へ遺誡を述べられ、愛馬にまでお別れをされてご往生になられました。
 もし、蓮如上人が本願寺にでられなかったら恐らく、親鸞聖人の教えは埋没してしまっていたでしょうし、残っていたとしても全く似ても似つかない教えになっていたに違いありません。中興上人とお讃え申し上げますのはむべなることであります。
 5月中は、蓮如上人4幅のご絵伝を地下室へおかけしておりますのでご拝観ください。
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血染めの聖教

2009年05月13日 | Weblog
文明6年(1474)3月18日夕方、吉崎御坊の南大門の他屋辺りから出火し、本堂、諸堂宇が焼け落ちました。その折、蓮如上人の居室書院に置いてあった『教行信証』を出し忘れたことに気づいた本向坊了顕は燃えさかる火の中に飛び込み、自らの腹を短刀で切り開き、臓腑掻き出して聖教を押し入れて俯せになって聖教を守ったのでした。このお聖教を「血染めの聖教」と呼ばれていたと伝えています。
 これらの事柄から蓮如上人が如何に親鸞聖人の書かれたお聖教を大切にされ、精魂込めてお読みになられていたことがうかがえます。
 「聖教は読み破れ」とか「読書百遍、意自ずから通ず」と縁ある人たちにお聖教を詠むことを勧められました。
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嫁おどしの面

2009年05月13日 | Weblog
43才にして本願寺第8代門主となられた蓮如上人は親鸞聖人のみ教えを誰にでも分り易く受けとれるようにと伝道活動にいのちを懸けて行かれました。
 寛正元年(1460)畿内に大地震、全国未曽有の大飢饉が起こり、京都での死者8万2千人に及んだと記録に見えます。その大飢饉の最中、蓮如上人は最初の『御文章』を書かれています。この世に因縁あって生まれ合わせて私どもはまた、様々な因縁によっていのち終って行くのですが、最も理解しがたい、納得しがたい私のいのちは阿弥陀さまのご本願(やるせないお心)に遇いお聞かせにあずかることによってしか知り得ないこと、そこにおいて生死を超えた安住と安穏な世界が展開されてくることを実に精力的にお説き下さったのでした。
 そのようなことが比叡山僧徒の反感をかい、東山大谷の本願寺は破却されると云う大事に至ったのでした。
 しかし、蓮如上人はひるむことなく、近江の堅田にそして北陸の吉崎へと身を移され教化活動を行われたのです。
 画像は蓮如上人が吉崎居られた頃、ある嫁女が夜な夜な吉崎御坊へ聴聞に行くことを邪慳に思ったその姑がある夜鬼の面を着けておどそうとしたのです。しかしどうしたことか顔に被った鬼面が取れなくなってしまい苦しみもがいていたその姑を嫁女は蓮如上人の所へ連れて行き上人のご法話を聞いてもらうとその鬼面がハラリと取れたと云うエピソードが描かれている画面です。
 今、吉崎へ参りますと3ヶ所にその時の鬼面と云われるものが展覧されています。これはどうも江戸時代に上方歌舞伎で『嫁脅しの面』が何度も演じられ、その時使用された鬼面が奉納されたものと聞いたことがあります。
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鹿の子の小袖

2009年05月13日 | Weblog
5/14、今日は浄土真宗の中興、本願寺8代蓮如上人のご正当です。
明応8年(1499)3月25日に山科の本願寺において85才で
もってご往生になられたのでした。その御命日を太陽暦に換算いた
しますと、本日がご正当になります。
 当万福寺には蓮如上人の4幅のご絵伝が伝わっていましてただ今
地下の納骨室予備室に展覧しております。親鸞聖人の4幅のご絵伝
は大方の寺に伝わっているのですが蓮如上人のご絵伝は極めて珍し
いものだそうです。
 画像の絵は「鹿の子の御影の段」、上人6才の折、上人の母は鹿
の子絞りの小袖を幼名布袋丸と呼ばれた上人に着せて、絵師に肖像
を描かせ、母は布袋丸に浄土真宗を興隆するようにこんこんと諭し、
「鹿の子の御影」を胸に抱いてどこへともなく姿を隠されたのでし
た。
 長い部屋住み生活であられましたが、43才で本願寺第8代門主
を継承された蓮如上人はあらゆる手だてで母を探索されましたが、
消息はありませんでした。ただ、「ビンゴ」(備後)の人であられ
た由の風聞はあったようです。
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