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SEA side

静けさの中で波の音だけが永遠に響きつづける。
美しいものとの出会いの記憶・・・・。

映画 「題名のない子守唄」

2008年01月15日 | 映画(タ行)
 いきなり女性の下着審査から始まる。一人合格したらしい女性はさらに「裸」を点検される。

 異常な何かが潜んでいるらしい前置きから一転、物語はスタートする。

 何が何でもある一家の家政婦として働きたい、イレーナという女性の物語。それがなぜかというミステリーである。その理由は彼女の過去にあるようだ。冒頭の異常なシーンと繋がるらしい場面が繰り返しフラッシュバックされる。ただならぬ過去なのだ。

 おそらく生きるために他に余地が無く選んだ人生の中で、ただ一つの真実、ただ一つの希望、ただ一つの愛と呼べるものにすがり付いていたいという切ないまでの感情が次第に明らかになっていく。

 しかし、過去は容易なことでは断ち切れず、新たな生活の中にも執拗にまとわりついてくる。そのスリル、サスペンスの味付けの中で立ち上ってくる濃厚な人間のドラマに圧倒される。

 すべてが思い込みにすぎなかったという真実が明らかになって絶望の中に投げ込まれた人間に、再び一筋の光が差すその幕切れ、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の見事な話芸に酔う。

映画 「ディスタービア」

2007年11月30日 | 映画(タ行)
 身動き出来なくなり、暇に任せて隣を覗き見していて事件に巻き込まれる、というプロットを聞けばヒッチコックの「裏窓」のリメイクかと思ってしまう。

 が、それをベースにした翻案というわけでもなく、まったく別のストーリーが作り上げられている。

 「裏窓」では主人公のジェームズ・スチュワートを事故で身動き出来なくしたが、さて本作ではいかにして主人公を拘束するか?そのためだけのエピソードに結構手間隙がかけられている。

 高校生の主人公は学校で教師を殴って謹慎処分にあい、家から出ることが出来なくなってしまうのだ。そのために警察がとる処置=センサー技術を応用した最新装備にも驚いてしまう。さすがアメリカというべきか。

 さて、なぜを教師を殴ったか?ある決定的な言葉が主人公の癇に障ったからなのだが、そのためには主人公の父親が死ぬ必要がある。ではどのような設定で父親を死に至らしめようか、という順序で脚本の構想は練られたのではないだろうか。

 しかも全編住宅周辺の閉塞感の中で、その冒頭のパートは遥かな山並みを望む美しい川での父と子のうらやましい情景を綴っており、その後の悲劇の描写も含めて、単なる状況設定のプロットにしては金のかけ方にも風格がある。

 主人公は「トランスフォーマー」に続いてシャイア・ラブーフが演じており、全体は青春ミステリーとでも呼ぶべき楽しめる作品に仕上がっている。
 それにしてもよく大事件に遭遇する高校生だ。

 「マトリックス」シリーズのキャリー=アン・モスが主人公の母親で、豪華といえば豪華な配役だが彼女ならではの見せ場があるわけではなく、他の誰かでも十分な気はした。

映画 「遠くの空に消えた」

2007年09月11日 | 映画(タ行)
 三池崇史監督の「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」予告編に続いて本作が始まった。ああ、これも同じ無国籍映画かという第一印象。でも一応日本ではあるらしいので「無国籍風」と言うべきか。

 空港建設にゆれるの大人同士の確執と、一方で、転校生を巡る子供たちの世界がファンタジーとして描かれる。そのための誇張し、デフォルメされた演技が一見、ユーゴスラビアの映画作家エミール・クストリッツァ作品的な雰囲気である。

 リアルな映画と一線を画するこの雰囲気に入り込めるか、最初に感じた違和感を最後まで引きずるかで評価の別れる作品だろう。
 オリジナル脚本で「芸術的」であろうとした意欲は分かるが、それが芸術作品になりえたかどうかはまた別の問題である。ただ行定監督の最近作「世界の中心で・・・」「春の雪」などに比べるとはるかに面白かった。

 冒頭で青年(柏原崇)が語る回想が描かれるわけだが、その相手が「2001年宇宙の旅」のPanAmスチュワーデスのような時代錯誤的デザインのコスチュームに身を包んでいたり、回想でそこから10数年さかのぼる主人公・神木隆之介少年は現代語をしゃべっていたりと、国籍だけでなく時代も特定しない作りになっている。

映画 「トランスフォーマー」

2007年09月10日 | 映画(タ行)
 超Aクラスの衣装をまとったB級怪作。将来とんでもないカルト作品に化ける可能性も無いわけではない。

 異星のロボット生命体が敵味方で「キューブ」という謎の物体を奪い合う、そのバトルを楽しむ映画。その「キューブ」は大昔に地球に流れ着いており、現代の地上がそのバトルの舞台となる。

 どこか既視感の漂う映画だ。「宇宙戦争」「ターミナーター」など、どこかで見たようなエッセンスが寄せ集まっている。すでにハリウッドではあらゆるものが描かれ尽したのかも知れない。

 生命体は日常の生活用品にまでトランスフォーム(変身)しており、すでに地球上に多くが生息していると言う設定。それが再びロボットに変身する様が見事で、「映像革命」と呼ばれている。

 ロボットはそれぞれ名前をもっており、「おれ様は○○だ」と名乗りをあげて登場、バトルを繰り広げるところなどポケモン・バトルを見ているようでもある。

 そもそもは日米合作のアニメ作品があったと聞いて納得、その実写版なのだ。CGによるメカニカルな変身シーンを楽しめばそれで良しとせねばなるまい。

 人間ドラマは安直で薄っぺらだし、話の核になる「キューブ」というのも一体何なのか最後まで良く分からない。

 そもそもロボット生命体と言っているが彼らはどうやって増殖するのか。工場でロボットを作ったからと言って生命をどう吹き込むのか。彼らを作り出した、さらに上位の知性がその星には存在しているのか?

 謎は解けないが、そういうことを詮索してはいけない映画なのだ。

映画 「デス・プルーフ in グラインドハウス」

2007年09月05日 | 映画(タ行)
 サイコキラーの元スタントマンとその標的になる現役スタントウーマンの対決映画。

 スタントウーマン役に本職のスタントウーマンを起用、本来スクリーンに顔をさらさないスタントの本格的演技デビューだ。したがって危険シーンもCG無しの実写ですべてを見せてしまう。

 主人公が登場するのは映画の後半で、それまではヒッチコックの「サイコ」のように、話の主役と思っていた人たちがあっさり死んでしまい、観客は感情の移入先をなくして途方にくれてしまう。
 ただ感情移入したくなる主役と間違うような人物は出てこず、若いお姉ちゃんたちがどうでもいいようなことを延々と喋り捲っている風景がB級テイストというべきか、タランティーノ的というべきか。

 その緩い感じが急に殺気を帯びてトーンが一変するあたりの感覚は見事だ。カート・ラッセルがサイコキラー=中年の元スタントマンを怪演している。
 スピルバーグのデビュー作「激突!」('71)は最後までドライバーの顔がわからないが、こんな人だったのかもしれないと思わせる。

 本作ではその「激突」ではなく、同じ年に公開されたアメリカン・ニューシネマの「バニシング・ポイント」(リチャード・C・サラフィアン監督)がキーになっている。

 ラストはあまりに唐突に終わってしまうのが可笑しいが、相手が悪党だとはいえ、その報復は一種の凄惨なリンチであり、こんなことでスカッとしてはいけないのではないか、とややうしろめたい気持ちになる。

映画 「天然コケッコー」

2007年08月31日 | 映画(タ行)
 第1印象は「松ヶ根乱射事件」に似ている、だった。

 私の場合、映画を見に行く時は次の二つの基準で選ぶ。
 1 内容で選ぶ。
 2 監督で選ぶ。

 本作の場合、内容で見に行ったのだが、ラスト・クレジットで監督名を見て「第1印象」に納得がいった。どちらも山下敦弘監督の作品だったのだ。
 両極端のような二つの作品を、同じ監督が同じ年に発表しているなんて、普通なら考えられない。何でも出来る監督なのだ。しかも何を描いても山下ワールドになっている。

 両作とも物語の中に村の床屋や郵便局が重要な舞台として出て来る。そしてどちらも主人公の父親は床屋の女性と微妙な関係にある。
 主人公は、方や交番の巡査であり、方や中学生である(公務員的なものが好きな監督なのか?)。

 ど田舎の同じ村(山下村?)で二つの物語が並行的に進行しているようなものともいえるだろう。
 「松ヶ根」では冒頭で幼い小学生がギョッとするようなことをやる。同じ状況なら「天然コケッコー」の子供たちもこんなことやるわけだ。子供は天使であり、時に残酷な悪魔でもありえる。

 でも本作で描かれるのは、天使の顔を持つ子供たちの、かけがえの無い、ひたすら豊かで幸せな日常的時間である。

映画「ダイハード4.0」~ あるいは「16ブロック2」?

2007年07月23日 | 映画(タ行)
 「4.0」の心憎いタイトルは日本配給時の邦題アイデアを本家が逆採用したとか。NTT docomo2.0は依然として意味不明だが・・・・。

 「スパイダーマン3」「パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド」とヒットシリーズ最新作がイマイチだった中でこれは文句無く面白い。

 前3作までは「何で俺が・・・」とボヤキながら仕方なく戦っていたが、今回は「俺がやらなきゃ誰がやる」と真のヒーローに目覚めたようだ。その分シリアス度アップ、ユーモア度ダウンだ。

 悪役も超大物起用がない。その分、見た目の華は無いがウィリスを頂点に良いアンサンブルだと思う。スターを持ってくるならあの役はジュード・ロウあたりか?

 アクションはシュワルツェネガー物や「マトリックス」の既視感があるし、娘の救出一途な親父は「24」だ。さらに今回は孤立無援ではなく、無力ながら「旅のお供」がいるところは「スターウォーズ」系だし、同じブールース・ウィリス主演の「16ブロック」続編のようでもある。その良い所取りが非常にうまい方向に作用している。

 肉体的にも家庭的にも精神的にも満身創痍の戦いだ。年齢を考えると超人級の活躍だろう。まさに英雄(ヒーロー)だ。

 派手なアクションとの対比で、微妙なコンビのバランス、娘との関係などベースの部分の味わいがなかなか良い。

 ハリウッド大作を見て久々に満足できた。

映画 「憑神」

2007年07月11日 | 映画(タ行)
 降旗康男 監督作品。豪華な配役ながらアンサンブルがうまくない。

 佐々木蔵之介と妻夫木聡はなかなか良い。脇も芸達者が揃っているのだが、肝心の憑神が西田敏行以外パッとしない。その西田も達者すぎて浮いているし、期待の子役・森迫永依も、テレビで見るほど今回は良くない。夏木マリを除くと総じて女優陣が弱い。

 コメディタッチで、笑いながら見ているとジワッと切なさが出てくる、本来はそういうタイプの映画なのだと思う。その切なさは主人公が影武者役を兄から継ぐところからくるはずなのだが、その兄は酒ばかり飲んでいて何をやっている人なのか途中までまったく分からない。

 仕える主君(妻夫木の二役)にまったく魅力が無く、とてもそのために影役として命をかける気にはならない。主人公を駆り立てるのはむしろそういう主君に仕える多くの部下を不憫に思う気持ちなのだ。
 死神は宿替えしてその主君に取り付いたはずなのだが、また主人公の元に戻ってくるのも何故なのかよく分からない。

 ラストは取って付けたように原作者・浅田次郎が登場するのだが、これも何やら、にやけた風であえて出してくる意味も無いようだ。

 最近の下級武士もの時代劇はなかなか秀作が多いのだが、今回はスタッフ、キャストの顔ぶれから期待が膨らんだだけに残念な結果に終わった。

映画 「デジャヴ」

2007年03月29日 | 映画(タ行)
 よく出来た娯楽作品。タイトルの前の制作、配給会社ロゴマークからすでに本編の音楽とシンクロしていて、そういうところからも丁寧に作られている感じがする。
 開巻まもなくの爆破シーンには度肝を抜かれた。

 犯罪映画のようなので、捜査段階でタイトルがらみの超能力がでてくるのかっと思っていたらまったく違った。タイムマシンもののパラレルワールドがテーマの映画なのだ。
 そういえば大林監督のタイムトラベル・ムービー「時をかける少女」でも最後にデジャ・ヴュの感覚が描かれている。本作の場合はそれが、切なさというよりはハッピーエンディングの切り札になっている。

 ラスト直前に一つの悲劇が起こるが、もしこれが回避されているとタイムパラドックスに関する重大な問題が発生する。悲劇と見せて、ハッピーに導くためのうまい作りだ。

 タイトルは「いつか見た」感じを表すフランス語だが、原題も「DEJA VU」。アメリカでもそのまま使われているのだろうか。
 「ブ」ではなく「ヴ」にしたのだから、どうせなら「ヴュ」にして欲しかった。

 ちなみに1987年のダニエル・シュミット監督作品(スイス・フランス合作)に「デ・ジャ・ヴュ」がある。ただし、こちらは原題とは異なるオリジナルの邦題である。

映画「どろろ」

2007年02月19日 | 映画(タ行)


 原作は読んだ、テレビアニメはリアルタイムで楽しんだ。芝居も見たし、小説(映画のノベライズが出版されているが、今回の映画化で話題にすらならない学研文庫版小説「どろろ:鳥海尽三著」は傑作)も読んだ。

 だから期待は特大だった。しかしそれが残念なしぼみ方をしてしまった。

 配役は悪くないし、無国籍風の展開も悪くない。CGや特撮がチープといえばチープだがそんなことはさておいて、肝心なドラマ部分の弱さがいかんともしがたい。
 百鬼丸の父に対する憎しみ、母に対する慕情、弟との葛藤など、全体のクライマックスというべき部分が感情の吐露も何もない、役者にとって演じがいのないビジュアル中心の画面に納まってしまっている。

 加えて、どろろの百鬼丸に対する微妙な感情や百鬼丸の成長にまつわるエピソードなど十分に描き困れておらず、映画としては長尺ながら、原作を表現するにはまだまだ短い時間の中で消化不良の印象が残ってしまう。

 柴崎どろろの叫びまくる台詞回しだけがキンキン頭に響いた。

 途中、まるで旅の風景がバックミュージックに乗って描かれるように何体かの魔物退治が処理される。魔物の数からいって、省略されて画面に出て来ないものも当然あるとは思っていたが、まだまだ退治すべき魔物は半分残っていることが最後の字幕で分かる。
 物語的には終わってしまっているのに、この先続編を作って何を描こうというのか?

 この手の作品はテレビでじっくりドラマ化するのがふさわしいようだ。妖怪一体ずつ退治していっても48話。NHKにはリアルな歴史ものだけでなく、この手の伝奇ドラマにも大河の枠で取り組んでもらいたいものだ。