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SEA side

静けさの中で波の音だけが永遠に響きつづける。
美しいものとの出会いの記憶・・・・。

映画 「チェイサー」

2009年05月14日 | 映画(タ行)

 餌を取られた犬が取った犬にとことん仕掛かっていくような映画だ。

 主人公自身女性を食いものにしている。体調のすぐれない子持ちの女性をデリヘルの仕事に追い立てている。元刑事だ。

 彼が追うのがシリアル・サイコキラーの若者。ハンニバル・レクター博士のような美学を持っているわけではない。極めて現代的な得体の知れなさ、何かによって偶然キレて暴発してしまう。犯人役ハ・ジョンウの造形が底知れない怖さを生む。

 何処にでもあるような迷路のように入り組んだ住宅街に設定された闇空間が恐ろしい。どういう理由で何故?はあえて説明されない。理不尽な恐怖が突然現れるところが現代的と言えるだろう。

 ハリウッドでどうリメイクされるのか今から楽しみだ。

映画 「ダウト/あるカトリック学校で」

2009年04月20日 | 映画(タ行)

 舞台劇のような迫力、と思ったら原作は戯曲、しかも2005年のトニー賞、ピュリッツァー賞ダブル受賞作で、作者のジョン・パトリック・シャンリー自らがメガホンを取っている。が、映画の脚本は多く書いており「月の輝く夜に (1987)」ではアカデミー賞(脚本賞)受賞という経歴の持ち主だ。

 メリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンが、カトリック神学校を舞台に、ある疑惑をめぐって対立する、その二人の芝居が圧巻。メリル・ストリープは「プラダを着た悪魔」と同じくらいキツイ女を演じる。が、今度は神学校の女校長で、真実を追究するためなら神をも欺こうという凄まじさである。

 結局、真相は曖昧なままだが、犯人探しのミステリーと違って、人の心を覆っていく猜疑心の恐ろしさを描く心理劇として見逃せない一級の作品だ。

 物語の核となる少年の、母親を演じるヴィオラ・デイヴィスとメリルの対話場面も見所の一つ。

映画 「釣りキチ三平」

2009年03月31日 | 映画(タ行)

 「おくりびと」滝田洋二郎監督の最新作はコミック作品の映画化。

 須賀健太君がいたからこそ出来た映画だろうな、と思った。

 釣りにはまったく興味を持たないが、楽しく見ることが出来た。肩の凝らない娯楽作品ながら、なるほどという釣りのウンチクも語られ、かつ都会の孤独と家族の絆、都会と田舎の格差、自然環境の問題など深いものがある。

 伝説の岩魚釣りのシーンで突然ファンタジーに変貌、ああ、これはコミックの映画化だったのだと変な納得をする。この部分はネッシーをモデルにした「ウォーター・ホース」のような味わいだ。

 最近は劇場の音響が良いせいか姉役・香椎由宇の声がやたらキンキンと耳に響いた。

映画 「ディファイアンス」

2009年03月05日 | 映画(タ行)

 ナチスの迫害を逃れたベラルーシに住むユダヤ人たちが、森の中に作り上げたコミュニティを描く。

 中心になるのは両親を殺されたダニエル・クレイグを長男とする兄弟たち。次男との反目、グループ内での反目、ロシア人グループとの反目をグループリーダーがどう率いて戦争を乗り切り、ユダヤ人をナチスから守るかが描かれる。

 3男に扮するジェイミー・ベルが雪の舞う森の中でユダヤ人女性と結婚式を挙げる。過酷な状況の中だけに本作のラブシーンは殊のほか美しい。

 当初ひ弱に見えた3男が、ラスト近くには群れを率いる次のリーダーとして成長していることが分かる。

 終戦間近にはコミュニティが1200人まで膨れ上がったというが、これはその成立期の話である。

 同じベラルーシのロシア人もナチスの迫害を受けており、その様子は「炎628」という1985年製作のソビエト映画に描かれている。628はナチスに焼き払われた村の数である。

映画 「チェンジリング」

2009年02月25日 | 映画(タ行)

 クリント・イーストウッド監督の最新作。アンジェリーナ・ジョリーの力演が光っている。

 子供の失踪劇が大きな事件へと発展していく。そのミステリーと権力側の腐敗による人権無視の恐怖がダブルコアになって複眼的構造の大作に仕上がっている。

 アカデミー賞のお膝元、ロサンゼルスの腐敗が摘発されるのだ。

 その二つの裁きが平行して進行する法廷がクライマックスとなる。が、ここで終わりか、と思う個所がいくつかありながらそこでは終わらず、事件が起こした波紋が隅々まで描かれて「その時代」が検証される。

 陰湿な事件を引き起こす腐敗した社会体制の絶望の中で、一人の女性の意思が世界に光を取り戻す。ロス市警は腐敗しているが、もう一方の事件を解決したのもまたロス市警なのだ。

 アメリカの良心再生の希望が込められているようだ。

映画 「誰も守ってくれない」

2009年02月18日 | 映画(タ行)

 警察には加害者側の家族を護衛するという任務もあるらしいことが分かる。

 少年による幼児殺害事件が話の核になるが、その犯行がミステリーとして描かれるわけでもなく、動機を描く心理劇でも法廷劇でもない。

 犯人の家族がその後晒されることになる状況を描く社会派ドラマになっている。

 犯人の家族を社会的な制裁から保護するための手段としてその姓を変える必要があることから、いきなり離婚させられたのち、母方の姓で再婚手続きが取られる事を初めて知った。有無を言わせないこの権力も怖いと言えば怖い。

 主人公の刑事になる佐藤浩一は家庭の問題も抱えており、仕事と家族の板ばさみになる。さらに犯人の妹を保護する過程で以前担当した事件の被害者側家族とも接触することになる。この四者すべてから拒否され、文字通りの四面楚歌の状態からそれぞれの信頼を再び回復するまでの物語である。

 それにしても恐ろしいのはネットによる暴力だ。中世の魔女裁判やカルト教団のような一種の集団ヒステリーに近い怖さがある。何をどうするという明快な目的があるわけではない。誰かを槍玉に挙げて糾弾する、その行為自体が目的化している。

 したがって次の標的が見つかればそれまでの話となる。そういう時代に主人公たちも観客自身も生きているのだ。

映画 「トウキョウソナタ」

2009年02月17日 | 映画(タ行)

 昨年公開の黒沢清監督最新作。

 異常な設定の多い黒沢作品では珍しいホームドラマ。デヴィッド・リンチ監督が「ス
トレイト・ストーリー」を撮ったようなもの、と言えるのかどうか?

 ただ、ホームドラマといっても団欒のないバラバラの家族だ。「父親の権威」の虚構
性がテーマになっている。父親はリストラに遭遇するが、公開時よりさらに不況が深刻
化してきた今、一段と身につまされる話として目に映る。

 それぞれが家庭の外の何かと微妙に繋がっている。いずれも危うい繋がりだが唯一
次男の「ピアノ」だけがポジティブな方向性を持ち、家族再生への微かな希望の光となっ
ている。

 ラストシーンで演奏されるドビュッシーの「月の光」が余韻を残す。

映画 「007 慰めの報酬」 ~ 暴走の報酬?

2009年01月28日 | 映画(タ行)
 6代目ボンド=ダニエル・クレイグの第2作目。前作「カジノ・ロワイヤル」の続編という異例の作りなので、事前に再度見ておくべきだったかという反省がある。が、それが致命傷にはならない。

 冒頭から高いテンションでボンドはすでに満身創痍。アクションに次ぐアクションで間にドラマが挟まるがバランスが悪い。

 アクション部分は倍速再生でもしているかのようなテンポで敵か味方か、何がどうなっているのか分からない。ドラマ部分もパートナーがいつの間にか死体になっていたり、単純な対立関係ではない複数の「組織」の関係が複雑だ。

 で、上映時間は106分、といういつにない短さのため説明も不足気味だ。

 前作の完成度が高かっただけに期待が大きすぎたのだろうか。役者が揃っているのに役の深みが無い。前作にあったボンドの苦悩が、今回は復讐の憎悪一色で暴走するという筋立てなので、その設定が作品の構造に素直に反映されているというわけか?

映画 「同窓会」

2008年12月25日 | 映画(タ行)

 冒頭で「勘違いは 人生最高の悲劇であり 喜劇である」という格言?が字幕で披露される。

 そういう話だとインプットされるので、途中で、ああこれがその勘違いかと思いながら見ていると、とんでもない「勘違い」が出現してビックリ仰天。最初の勘違いはその後どんどんシリアスに進み、号泣寸前で、やっぱり勘違いだったとわかって誠にハッピーなエンディング。

 劇団主宰、TV脚本の経験を積んできたサタケミキオの、第1回監督作品だというが素晴らしい才能だ。

 回想の高校時代は胸キュンだし、島原の町は魅力的だし、コテコテの九州弁も面白い。永作博美の笑顔満開でうれしくなる映画だ。

「まぼろしの邪馬台国」と合わせて島原ご当地映画が並んだ。

映画 「天国はまだ遠く」

2008年12月19日 | 映画(タ行)

 自殺を決意した若い女性が再び人生を歩み始まるまでの癒し系作品。

 睡眠薬をあれだけ大量に飲んで、丸一日半ぐっすり眠ることが出来ただけというある種特異な、というかラッキーな体質であったがゆえにそこからドラマがスタートする。

 主演は加藤ローサと徳井義実。黙って画面に映っているだけで絵になる美しさだ。むしろ台詞をしゃべらない方が良いくらいだ。

 日本三景の一つ天橋立の景観を初めて見ることが出来た。山里の素朴な暮らしも、すぐ隣には利便性に満たされた町の生活がある。

 その自然に包まれた環境での中で徐々に心を癒されていくヒロインの物語だが、癒すものは癒される、という一方的でない相互の関係になっていることに気付かされる。

 そうなるといいな、と観客が想像する安易なハッピーエンドは用意されない。映画は終わるが彼女の人生は再び時を刻み始めたわけで、まだここから先のストーリーがあるのだから。