ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

追悼・フリッツ・リッチモンド

2005-11-27 02:56:23 | 北アメリカ

 この20日、ジャグ・プレイヤーのフリッツ・リッチモンドが亡くなった。フリッツは1939年、マサチューセッツの生まれ。死因は肺ガンだったそうな。
 ・・・などと書く以前に、彼が何者であるのかを説明せねばならないのがもどかしい。

 1920~30年代にアメリカの黒人たちの間で流行した音楽の形態の一つにジャグ・バンドがある。ジャグとは大型の瓶、どうやら工業用の酢の瓶らしいのだが、それを口に当てて吹き鳴らし、チューバのような感じでバンドの低音部を担当する、そんな”楽器”である。
 それに洗濯板のギザギザを指にはめたサム・ピックでかき鳴らすパーカッション、オモチャの笛のカズー、ギター、ハーモニカなどが加わり、ブルースやシンプルなポピュラー・ソングをもっぱら演奏する。これがジャグ・バンドである。

 貧しい黒人たちが思いついた代用品バンドのようなものだが、それが独特の楽しさを醸し出し、愛好家も多い。オリジナルのジャグ・バンドは戦前のものだが、それが1960年代のアメリカにおけるフォークブームの際、白人の青年たちの間でリバイバルし、多くのジャグバンドが結成された。
 なかでも人気を呼んでいたのが、大学町ボストン出身のジム・クエスキン率いる”ジム・クエスキン・ジャグバンド”であり、そこでジャグを担当していたのがフリッツ・リッチモンドだった。ともかく楽器というよりは隠し芸のネタに近い物件であるジャグの担当なので、その存在、どうしてもコメディアンの様相を帯びてしまうが、フリッツはなかなかクールにその役をこなし、ある意味格好良くさえ見えた。

 クエスキン・バンド解散後もともかくジャグ一筋、さまざまな場で吹き鳴らしてきたフリッツだった。同様に”代用ベース”であるモップに弦を張った”ウオッシュタブ・ベース以外、他の楽器に手を出した気配さえない。やる気がなかったのか出来なかったのか。いやいや、「俺はジャグ一本で行く」との信念を持ってやっていたのか。そんなバンドマン人生というのも、なかなかに味わい深いと言えよう。

 今、フリッツを追悼するいくつかのサイトを覗いてみたのだが、そこに挙げられていたフリッツのステージ写真は、そこで見られる彼の表情は、ともかく音楽を演奏する喜びに溢れたものであり、すがすがしい印象を受ける。しかめつらしてそこらの国の国家予算くらいもする値段のバイオリンを抱え、”超絶技巧”で弾き倒す事と、どちらが音楽家として幸せかといったら、そりゃ、分かりませんぜ旦那と言わざるを得ません。そうですとも。

 という訳で。フリッツ、楽しい演奏をありがとう。みんな、あなたのジャグの演奏がが大好きだったよ。