”Trio Kazanchis ”
エチオピアン・ミュージックの注目の新人バンド、とはいえこれもエチオピア人一名とヨーロッパの白人二名との合流バンドとのこと。
どうもこの、純正エチオピア人バンド、というのがさっぱり出てこないのはどういうことなのかなあと首をかしげてしまうのだが、どうなっているのか。
いや、その逆方向、なんでエチオピア音楽に外国人はこのような関わり方をしたがるのか、と考えてみるべきかも知れない。
それも、ほかの音楽みたいに「イギリスのバンドがレゲのリズムを取り入れた」とか「ニューヨークのバンドが、アフリカ音楽の影響が色濃い新譜を発表した」なんて具合に”その要素を取り入れる”のではなく、”エチオピア音楽のバンドのメンバーとなり、そのシーンを形成する一人となる”と、”外人”連中が内側に飛び込んでしまう方向を選びたがるのはなぜか、という不思議。
まあとりあえず、「さっぱりわからん」という結論しか出てこないのはどちらも同じことなのだが。
などとブツブツ言いながら聞いてみたこの盤、最初の感触は「お調子者の白人野郎が、エチオピア音楽にかこつけて悪乗りしやがって」というものだった。ディストーションのかかった楽器をかき鳴らし、ガサツなリズムを叩きつけてくるそのサウンドの手触りの第一印象は私の場合、そんなものだった。
とはいえ、盤を聴き進むうち、いや、そもそもエチオピア音楽自体が非常にえげつない存在なのであり、このがさつさもまた飲み込んで、この音楽は、その表現を拡大してゆくのではないか、なんて思いが浮かんで来た。そうだよ、これでいいんじゃないのか。
そして、気がついたらこのガサツ系エチオ・ファンクに、私はすっかり魅せられているのだった。
そうなってくると、たとえばセコい音であえて単純な和音を単調に叩きつけるキーボードの動き、なんてものもとてつもなく痛快に感じられて来る。ディストーションのかかったエチオピア竪琴動きのクソやかましいさも一つのファンキーとごく自然に受け止められる。
そして、もう一度頭からこの盤聞き返す頃には、すっかりTrio Kazanchis のファンと化した自分がいるのだった。
まあ、総じて言えばいい加減な話なんですが、わけのわからん音楽との付き合い、こんなもんですよ、結構。