”厚木I.C”by 小泉今日子
某誌の「小泉今日子特集号」を立ち読みしていて、取り上げられていた一枚のアルバムが妙に気になってしまった。2003年4月リリースの「厚木I.C」なるアルバム。
そのタイトルが喚起するザラッとした手触りと、雑誌の記事内に縮小されて載せられたものであるのに強力な印象を残すジャケ写真。青白い光がにじむ街角に佇む、歌手コイズミ。
私は昔から一貫して、キャンディーズ支持あたりから始まるグループ・アイドル好きであり、キョン2のようなソロ歌手に興味を持ったことはなかった。それゆえ、小泉今日子のアルバムを通して聴くのも、これが初めてだ。
早朝なのだろうか、それとも夕暮れなんだろうか。ジャケを飾る写真は妙に青白い光に満たされた街角を、吸いさしのタバコを持って漂流するコイズミのさまざまな姿を捉えている。
彼女がさまよう街は洗練されてはいるが、どこか埃っぽく地方都市っぽい、空っ風が吹き抜けるのが似合いの寂しさが染み付いているように見える。ここが厚木という街なのか。私は立ち寄ったことはない。と思うが。アル中の放浪者だった青春時代に足を踏み入れているのかもしれない。
アルバムの冒頭の曲の歌い出し、「私は信じない私を」と軽いラテンのリズムに乗って歌詞は歌い出される。まさにしょっぱなから歌手コイズミの存在は自ら根を断ち切り、宙を漂い始める。漂いつつ、咲く花や行く雲やサヨナラについてなどが物語られて行く。もうとうにアイドル歌手などと言ってはいられない年齢の歌手コイズミである。
たとえば、かっての同級生たちに連絡を取る必要に駆られ、住所録などひっくり返すと、人は消えてなくなってしまうものなのだなあ、などと唖然とさせられることがある。容赦のない時の流れと気まぐれな運命の風向きの狭間で。人は、まるで溶けるようにその足跡を消してしまう。何処へか。一人一人。刻々と。確実に。
だから人は、儚い灯火を掲げて暗闇を灯し、知り合えたはずの人の名を遠く呼んでみたりする。花に寄せる想いの歌が凛と響いたり、遥かな雲に失われた時の行方を追ってみたり。
それから、厚木基地のフェンスにもたれて、「よからぬことを考えている」と笑ってみせたりする。