ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

説教唄の消長

2009-01-17 04:53:34 | 音楽論など


 昨日、城南海ちゃんのデビュー曲の歌詞に関して、「歌詞のメッセージ調がウザイと感じられないでもない、と書きました。
 そしてこれを、民謡にたまにある”説教もの”の一種と想定すれば納得できないでもない」とも。(まあ、故意の誤解釈って奴ですが)
 そこで”説教もの”の一例として、沖縄の島唄である”てぃんさぐの花”をあげたのだが、それがどんな歌詞内容か、訳詞を掲げてみます。

”てぃんさぐの花の汁で指先に色をつける時のように
 親の教えを心に染めなさい。
 どんな宝も磨かねば錆びる。
 まして人間は朝に夕に心を磨いて
 人生をわたらねばならない。
 成せば成る 成さねばならぬ何ごとも
 成らぬは人の成さぬなりけり”

 という、大変にうっとうしい内容のようで。最後の一節、これは意訳じゃなくて、直訳でこうなるそうなんだからたまりません。ちなみにこの部分の原詞をあげてみますと。

 >なしば何事ん ないる事やしが
 >なさぬ故からど ならぬかなみ

 まあ、困ったことで。こちらは歌詞内容なんてはじめは分からず、メロディの美しさに惹かれて、いいかげんなウチナーグチで歌ってみたりしていたのだが、意味を知ってみれば、なんだこれは、だ。そんな事を言われたかあねえやなあ。

 まあ大衆文化の中で、洋の東西を問わず、説教ものってのがなんらかの存在意義を持っていたのは確かのようで、大衆音楽の古層を探ると、この種のものは宗教なんかをバックグラウンドに持ちつつ、かなりの頻度で存在していますな。
 もともとが仏教説話である河内音頭などには当然、生な形で出てくるし、アメリカのオールドタイム・ミュージックの歌詞の中にも教会から直送みたいな説教臭が漂っていたりする。
 遠くナイジェリアのジュジュ・ミュージックの大物、エベネザ・オベイなんて人の歌詞も相当なものだと聞きました。何しろ彼の芸名そのものが、”文句を言う前にまず目上の者に服従せよ”から来ているとかですからね。

 その種の唄を聴いて、「なーにを言いやがる、この野郎、偉そうに!」とか反応するのはインテリの近代人だけと、むしろ考えるべきなのかも知れないんですな。
 民衆の心の中に”説教されたいとの欲求”がある、と想定してみるべきではないか。
 このような歌詞は、たとえば支配する側の大衆コントロールの目的からとか、そんな事情で生み出されたり流布させられて来たってわけじゃないだろう。いや、最初はそのような都合から発生して来た説教唄かもしれないが、いつしかそれは無名の大衆一人一人から、むしろ好んで聴かれてきたと考えるべきではないか。

 そのココロは?と申しますに、寄る辺なき大衆は”偉い人”にハハーッと頭を下げてしまえば”価値観を巡る戦い”なんてややこしいものに関わらずに済む、という事情がある。
 「偉い旦那衆の言われる事、なんだかおかしいんじゃねえか?」なんて考え始めて階級闘争に目覚めちゃったりするより、「旦那方に逆らうなんて、恐ろしいこんだよ、オメエは何を言うだっ!」と互いをけん制しあい、揃って土下座しつつ年貢米を収めているほうが、そりゃ辛くとも面倒くさいことは考えずに済むのであって。

 そのように反応するように”躾けられて”来た大衆でもありますし、その結果得られる”奴隷の平安”の甘き泥沼の心地良さもありましょう。
 そいつから抜け出して寒風にさらされつつ自立を目指す、なんてしんどい思いはしたくないよ。ただでさえ日々の農作業も辛過ぎるというのに。

 などなど。毎度、まとまらない話で恐縮ですが。
 さて、本日の課題。”演歌・蟹工船”って歌をちょっと作ってみてください。