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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

海に来たれ

2011-01-09 04:39:31 | ヨーロッパ

 ”marinaresca”by La Moresca Antica

 とりあえず海のそばに住んでいるのであって。近くのコンビニに行って買い物を済ませ、レジ袋を持って店から出ると目の前に海の広がりがあり、なんだか幸せみたいな気分になる。まあ、それだけのことなんだが。

 イタリアに古くから伝わる海にちなんだ歌の数々を再生してみせたアルバムである。このバンド自体がその方面をテーマとして追いかけているようで、古楽で使う楽器や民族楽器など持ち出して、かなり精密にいにしえの歌世界を再現してみせている。舟漕ぎ人足の労働歌からシシリー島のマグロ釣りの歌まで。
 とはいえ、学術的に正しい事をしている人たちの音楽によくある退屈さは感じられず、地中海の陽光の元、のどかに海を行く古式ゆかしい帆掛け舟、みたいな悠揚迫らざるノリが微笑ましく、こちらの心の中までリラックスのおこぼれ頂戴的癒しがやって来る感じだ。

 さすがにこんな音楽はYou-Tubeにはあまり登って来なくて、下に貼ったものだけしか見つからなかったのだが、6曲目の凄く伸びやかな美しさを持つメロディの”La Biondina”あたり、貼りたかったなあ、皆に聞いて欲しかったなあ。解説には「もっとも有名なベネチア民謡」とかあったのになあ、誰か貼らんのか。
 シシリー島に始まり、北海を訪ねポルトガル沖に遊ぶ、”舟歌は時空を越えて”なんてイメージ豊かな舟歌メドレーにて締め。海はいいなあ



ロシアン・ロマンス

2011-01-07 01:22:43 | ヨーロッパ
  "Золотая коллекция романсов"by Наталия Москвина

 クソ寒いですね。地方によっては積雪などに悩まされている向きもおありでしょう。お見舞い申し上げます。
 というような本気の冬になってきたんで、このところ忘れ気味だったロシア音楽のCDを取り出しました。この寒気だってシベリア越えてきたんですからねえ、うん。

 自分でも読めもしないロシア文字を上に並べましたが、タイトルは発音も意味もほんとに分かりません。歌手名はこれで”ナターリア・マスクヴィナと読むようです。
 なにやら下着などちらりと見せまして、バルカン~東欧~ロシア方面で顕著に見られるエロ・ジャケの伝統を踏襲したジャケ写真となっていますが、内容は実に渋い作りとなっております。
 ジャンル名としては”ロシアン・ロマンス”と呼ばれるもののようです。シャンソンなんかにも影響を受けつつ形成された、ロシア特有の重く暗いバラードもの、とでも紹介したらいいんだろうか。

 暗闇の中に切れ込んで行くみたいなある種ブルージーな、ロシア特産の憂いの旋律の連発であります。聴いて行くと、ポツリポツリと聴き慣れたメロディが聴こえてきます。「黒い瞳」とか、「悲しき天使」とか。もちろんこれらは、こちらが元歌というか本家であるわけです。
 ナターリア嬢は、このアルバムではガットギター一本だけの伴奏で、52分に及ぶアルバム全曲を歌いきっています。エッチなジャケ写真には似つかわしくないしっかりとした基礎を感じさせる大人の歌声で。

 過度に激するでもなく、パワーで勝負するわけでもない。華麗なテクニックなど使うわけでもない。ただ、一つ一つの歌を噛み締めるように歌い込んで行く。
 聴いているうちに”踏みとどまる歌”ってあだ名を付けたくなります、ナターリア嬢の歌に。
 過酷なロシアの冬、吹きつける凍りつくような風に吹かれ、よろめきはする、だが倒れはしない。踏みとどまる。そしてまた歩き出す。暗闇の中を北風に向って。

 You-tubeにはないだろうなあ、とか思いつつ探してみたらありました、一曲だけだけどナターリア嬢の歌が。結構分厚い伴奏が入っているんで、音源はこのアルバムからではないようだけど。まあ、その歌声が聴けるだけマシとお考えください。




北の小島の夢語り

2011-01-05 03:46:43 | ヨーロッパ
 ”Vid Og Vid”by Olof Arnalds

 マニアな音楽ファンの間で話題の、アイスランドの女性シンガー・ソングライター。2006年のデビュー作。

 ジャケに妙なものが映っているが、これは一つの胴体に二つの頭を持つ白鳥がいて、その二つの首がニュ~ッと伸びてグルグルグルグルと絡まりあっている様が描かれているのだ。どんな物語が秘められているのか、何しろジャケもほぼ全編、アイスランド語でしか書かれていないので、知りようもなし。
 ともかく、こんな不気味なイラストでデビューアルバムのジャケを飾りたい、などとは、常人はなかなか考えないものだ。一筋縄では行かない女性と覚悟を決めたほうが良い。

 とは言うけれど、中身を聴いてみると、アコースティックな音を前面に出した、もの静かな美しさに溢れた作品である。ゆったりとした弦楽器の爪弾きが主体の伴奏に乗り、Olof Arnalds女史の甲高い声が、そっと優美で幻想的なメロディを歌い上げる。
 いかにもヨーロッパの古い伝統に連なる美しさに溢れているが、そういえば中欧の古きローレライの川辺では、こんな具合の妖精の歌声に惑わされた船乗りたちが水に飲まれて帰らなかった故事があるではないか。

 ヨーロッパも北の果ての雪と氷に閉ざされた小島で、長い冬の夜を暖炉のそばで過ごす子供たちが、お婆ちゃんの話してくれた夜話の中に見た幻想の手触り、などというものを想起させる。ファンタジックな、ちょっぴりホラーの気配も匂う、不思議な薄明境通信である。 冬の夜は、北辺の小島に吹き付ける風の音などに想いを馳せながら、この幻想に酔っていたいと思う。
 それにしてもOlof Arnalds女史、あのビョークに「個性的な人だ」と言われたっていうのだから、なにやら笑えます。



五月の木の香のメロディ

2011-01-02 03:34:14 | ヨーロッパ


 ”Wishing Tree”by SHAUNA MULLIN

 年の瀬から何となく調子悪く。若干の寒気がして、クシャミや鼻水が出る。あきらかに風邪の初期症状で、ひどくなるかな、熱でも出そうだな、と思うが持ちこたえている。とはいえ、治るわけでもない。なんとか正月まで持ちこたえたのだから、このまま抜けてくれればと祈りつつ、が、体調はむしろ下り坂に感じられる。
 
 だったら早く寝たらいいものだが、体のだるさもあって、このまま起き上がって寝室へ行く気分にもなれず。時と健康を無駄にしているなあとちっぽけな焦燥を頭の隅に感じつつ、アイルランドのトラッド歌手、Shauna Mullinなる人のデビューアルバムを聴いている。
 ケルトの血筋のヒトだから、ということなんだろうか、この名前をなんと発音すればいいのか分からない。ジャケ写真を見る限りでは失礼ながら結構体格の良い女性みたいで、そのゆえか、なかなかに男前な低音の凛としたボーカルスタイルの人である。

 その凛とした低音が、大地を大きく踏みしめた感じのディープな歌心でゲール語の古謡を歌い上げる。こいつがベタベタした感傷を付着させがちなトラッド表現を、逆に清清しいものにしている。なにか5月の青葉が香る、みたいな爽やかな情感が伝わって来て、当方が今悩んでいる悪寒や鼻詰まりまでもスッと解消してくれるみたいな幻想があって、このCDを聴いているのだが、無論、そんな勝手な話が通るはずはなく、私はただ、本物の春の到来を待つしかないのである。



教会暦によるオルガンコラール集

2010-12-26 02:55:11 | ヨーロッパ

 ”J.Sバッハ 教会暦によるオルガン・コラール集”by ヘルムート・リリング

 さてクリスマスも終わって、もう年の終わりの覚悟をつけねばならない頃だ。というかさあ。もう秋口からクリスマスクリスマスと大騒ぎして延々と商戦を繰り広げてきたんだから、クリスマス以後、急に静かになるなよな、と世間に言いたい。
 私は恥ずかしながら十数年前のクリスマスの翌日、行きつけのデパートのエスカレーターの登り口から、それまでずっと飾られていたクリスマス・ツリー風の装飾が一気に撤去され、あたりがすっかりガランとしているのを見て、寂しさに思わず涙ぐみそうになった経験があるのだ。
 「何がクリスマスだ」とか聖夜商戦を横目で見て腹立たしく思っていた私だから、そんなもの基本的に恋しいわけはないが、いきなり祭りをやめるなよ。淋しいじゃないか、それなりに。

 という訳で、話の流れに関係あるかどうか怪しいが、クリスマスが終わって正月がやって来るまでの間、いつの頃からかこんなアルバムを聴くようになった。教会暦にある各祝祭日にちなんだバッハ作のオルガン曲を集めたものだ。修道僧のための雰囲気作りかね。
 まあ、何だか知らないけど、これを聴いていると、「どうあがこうと時は流れ過ぎて行くものだ。仕方がないじゃないか」なんて諦念がなんとなく湧いてくるのだった。

 しかし・・・年末はまあ、これで良いとしても、新年というのはどうしても来なければならないものなのかね?何にもおめでたいことなんかないのに「おめでとうございます」とか、形式上だけにしても挨拶せねばならないのは苦痛だし、せっかく12ヶ月で一年が終わったのに、また頭から巻き返しで一月、二月と丸ごとやり直さねばならないのかと思うと、もう今からうんざりする。
 なんでそんな円還構造を生きねばならんのだ?12月の次は13月だっていいじゃないか。13月の次は14月だ。その次は15月。冬は終わらず、一日はどんどん短くなり、ついには終日、太陽の顔を見ない日々がやって来る。そのうち、冬眠する人たちも出よう。終わりなき幽冥境の時間。ああ、なんて心安らぐことだろう。永遠に朝は来ないのだ。

 毎度の話だけど、このアルバムの音はYou-Tubeにはないようだ。しょうがないから、瀬尾千絵というオルガン奏者が、このアルバムに収められている曲の内の一つを弾いてる映像を下に貼る。代わりにってのもあんまりじゃないかって気もするが、せわしない年末のことなので大目に見ていただきたく思う、瀬尾女史には。




ウオッカ=マッコリ・システム

2010-12-17 03:53:31 | ヨーロッパ

 ”I VNOV’ LUBOV'”by NADEGDA KADUSHEVA

 ディスコ仕立てのロシア民謡集、みたいな作品であります。実際この歌手、ナジェージュダ・カディショヴァ姐さんは、ガチガチのロシア民謡のアルバムを出してもいるようなんで、これもその一種なのかも知れません。
 なにしろロシア語の壁とかもあって何がなにやら分かりません、のロシア大衆音楽の世界。それでも、その独特の哀愁やらうちに秘めた広大な孤独(変な言い方だが、他に表現の方法がない)やらを伝えてくる、ほの暗いメロディに惹かれて、ほら今日も、ジャケの文字が一つも読めないCDを買ってしまう・・・

 で、なにやら下町の気のおけない大衆酒場の口うるさいけど人は良いママ、なんてルックスの、そして歌声もそんな感じのカディショヴァ姐さんなんでありますが。検索をかけてみるとプーチン時代に人民芸術家の称号を得ている、なんて記述にもあるのであった。まあ、それがどれほどの重さを持つやら私は知りませんけど。
 もっとも、音の方はまったくの庶民派のカディショヴァ姉でありまして、ドッスンドッスンとみもフタも無く鳴り渡るディスコな打ち込みの音に調子よく乗り、屈託なく歌い上げる哀愁のロシアンメロディ。もう、明るいんだか暗いんだかよく分からない世界。若い頃、政治運動とのかかわりでロシア民謡に馴染んだご老人なんか、「なんと軽薄な!」と憤慨されるんではないかなあ。

 それにしてもこのアルバム、ようするにポンチャクですな。韓国の軽薄なるディスコ演歌。考えてみれば、あれにかなり近いものがある。
 とにかくバシバシと機械が打ち込む、ほとんど記号のリズムに乗り、まるでメドレーみたいな運びで次々に、同じような分かりやすいノリの曲が放り出されてくる。いや、一曲一曲の間に切れ目は入ってるんだけど、次に始まる曲が同じリズムの似たような曲、それが延々と続くんで、聴いてるこちらはある種のトランス状態に置かれる感じなんです。
 そして、特に山場も谷間もないままに全収録曲21曲、時間にして70分近くがただ元気が良いだけの恐怖の一本調子で歌われるペラペラの音楽世界。これは、かの韓国の誇る世界一恥かしい大衆音楽、ポンチャクだよねえ。

 そう、中村とうよう先生は言われました。美は単調にあり、と。変に気取ったロマン主義のお高い芸術的演出なんか、目先の快楽のみを求めてドンチャン騒ぎで突き進むここには、入り込む余地はないのであります。
 ヨーロッパの一国のような顔をしているけど、広大な面積のアジアをそのうちに呑むロシア。知らないうちにアジアの宴会タマシイをその血の中に深く受け止めてしまっていないか。
 うん、いっそここで「大衆音楽ポンチャクの論理で行けば、ロシアは韓国の一部だ」とか思いつきで言って見るのも一興かも知れないな。まあ、言っても意味ないから言わないけどさ。




40年目のスワブリック

2010-12-07 00:08:37 | ヨーロッパ

 ”Raison D'etre”by Dave Swarbrick

 デイブ・スワブリックといえばイギリスのエレクトリック・トラッドの開祖、フェアポート・コンベンションの看板バイオリン弾きとして、いまさら説明の必要もない。
 60年代末、それまでトラッド歌手のマーティン・カーシーとコンビを組んで渋い英国民謡を演奏していたスワブリックが、トラッドの世界に旅立とうとしていたフェアポート・コンベンションから、アルバム”アンハーフブリッキング”製作のためのセッションに招かれた時のエピソードが面白い。

 「異種音楽とのセッションだって?それも相手がジャズバンドならまだしも、ロックバンドとは!”俺を誰だと思ってるんだ」と困惑をあらわにしつつ出かけて行ったスワブリックがその夜、相棒のカーシーにかけてきた電話は、「おい、信じられるかい!最高のセッションだったんだ」との内容だった。この話は大好きだ。

 そして、一日だけの付き合いのはずがスワブリックは、以後十年余の長きに渡ってフェアポート・コンベンションなる”ロックバンド”の看板スターとして活躍することとなる。
 フェアポートを抜けた後のスワブリックは自身のバンドを率いてみたり、フェアポート時代の同僚、サイモン・ニコルとデュオを組み、あるいは旧友マーティン・カーシーとのコンビを復活させたりと、それなりの活躍をしていたのだが、いつの間にか名前を聞く機会もなくなっていた。
 そういえばこの頃スワブリックの音沙汰がないな、と思い始めた90年代、かっての仲間が”スワブ・エイド”なる基金を組み、「苦境にあるスワブリックを救おう」などと呼びかけるようになる。

 何事かと思えば、スワブリックは重い肺気腫に侵され、明日をも知れぬ健康状態だったのだった。思い起こせばフェアポート時代、咥え煙草でバイオリンを奏でるスワブリックの勇姿は、まさにバンドの看板スターにふさわしいかっこよさだったのだが、その影で彼の肺はボロボロとなっていた。
 スワブ・エイドが立ち上がった頃スワブリックは、酸素吸入器が離せぬ車椅子暮らしで、ひとたび風邪でもひこうものならそれだけで命取りとなるような状態にあったようだ。一時はそんなところまで行ってしまったスワブリックだったのだ。

 その後、思い切って受けてみた肺の移植手術が成功し、どうにか社会生活に復帰できるようになったとの知らせが、「意外にも」なんてニュアンスもないではなくもたらされたのは、何年後だったろうか。
 ネット越しで届けられた、吸入器もなしに歩き語り、そしてバイオリンを奏でるスワブリックの映像は、まさに”地獄から生還を果たした者”のそれで、ひどく年齢を重ねた感じのその姿に、かってのひょうきん者のバイオリン弾きの面影を探すのは難しかった。

 そんなスワブリックから届けられたアルバム、これは彼の復活宣言・・・と言っていいのだろうか。
 ともかく聴いてみると、「ああ、ずいぶん音が細く硬くなってしまったなあ」と感じないでもなかった。が、そのバイオリンの節回しのクセは、昔と変わらぬスワブリックのそれである。トラッド曲あり自作曲あり。ダンス曲で弾み、メロディアスな曲で泣かせ。気ままにメロディをまさぐり、自身の世界を編み上げて行くスワブリックに、「まあ、生きてりゃいいじゃん」と頷いてみせたい気分になっていた。うん、ずいぶん長い付き合いだよなあ。

 スワブリックはすべての曲に自筆の解説文を寄せているのだが、最終曲、18世紀のアイルランドのハープ祭りに関する話が妙に心に残った。
 10人のアイリッシュ・ハープ弾き。そのうち6人が盲目で、皆、70歳を越えている。最高齢者は97歳。そこに音楽の記録のため、18歳のオルガン弾きの少年が呼ばれていた。
 そして今日、スワブリックは時空を越え、それらハープ弾きの音楽を我がものとする事が出来た・・・

 手術後のスワブリックを貼るところだろうけど、これがスワブリック初対面という人もおられるだろうし、スワブリックとフェアポートが一番生き生きとしていた1970年頃の映像を貼る。と言うか私も、久しぶりに若い彼らを見たくなった。



スコットランドの行路灯

2010-11-25 01:17:20 | ヨーロッパ

 ”Air Chall∼ Lost”by Rachel Walker

 スコットランドの民謡歌手の中では、もう伝説上の存在みたいな感もあるレイチェル・ウォーカー。これは彼女の4年ぶりの新譜。堂々の横綱相撲、みたいな落ち着いた出来上がりである。
 特別、熱唱をする訳でなく、むしろ淡々とケルトの民の残した言葉、ゲール語で古き伝承歌を歌い紡いで行く。もうベテランのはずの彼女の声がいつまでも瑞々しい響きで聴こえるのは、そのか細い美声のせいなんだろう。深い森に住む妖精の物語を歌うに、いかにもふさわしい。緑の森の息吹が、まさに彼女の歌声に乗ってこちらに伝わってくるのだ。
 一体何歳になるのか知らないが、いつまでも神秘の美少女のイメージがある人である。

 今回のアルバムも彼女らしい”凛”とした手触り。しっとりとした情感が終止流れていて、まさに深い森の緑に抱かれたような気持ちにさせられる。
 今回の盤、タイトルにも”Lost”の文字が見えるが、”喪失”がテーマとなっているととるべきなのだろうか。最後に置かれた、恋人を海で失った女性の嘆き歌がとりわけ印象的だ。他に、生まれたばかりの赤ん坊を抱きながら、水夫の夫の帰りを待つ妻の歌や妖精に恋した男の不思議な物語など。伝承曲7曲、自作曲4曲。

 途中、11曲収録中の6曲目だからアナログ盤だったらA面の最終曲になるのだろうか(申し訳ないが、いまだにこういう聴き方をしている。CDの曲順を見ながら、「これはB面の3曲目に相当するんだろうな」などと)そのあたりに置かれたアルバム中唯一の英語曲、”Home On My Mind”にもドキッとさせられる。
 そこでは、それまでゲール語で繰り広げられていたファンタジィの霧がひととき晴れ、生身の彼女が生きる、剥き出しの現実が顔を出している。深夜の都会の通りと孤独の物語。通り過ぎた雨が濡らしていった歩道が行路灯の明かりに光り、冷たい風が吹き抜け、彼女は夫と幼い子供たちが待つ家を想う。

 すべては過酷な現実の上に頼りなく浮ぶ泡のようなもので、そいつはふとした運命の気まぐれで一瞬にして失われてしまう。その儚さの中で人が最後に信じ、握り締めるものは何だろう。
 さて、彼女からの次の便りは何年後になるんだろうな。



カルパチア盆地征服千周年記念

2010-11-14 04:19:00 | ヨーロッパ

 ”VILAGFA”by LOVASZ IREN / HORTOBAGYI LASZLO

 ハンガリーを代表する女性民謡歌手の新作。「カルパチア盆地征服千周年記念盤」という趣旨が凄い。
 カルパチア盆地というのはバルカンの根っこに広がる広野。9世紀の終わり頃、マジャール人たちがそのあたりに侵入、征服してハンガリーを建国した。その千周年記念の催しがハンガリー国立博物館で行なわれ、そのために吹き込まれたのが、このアルバムというわけだ。会場でBGM的に流されたのか、あるいは記念コンサートのタグイでも行なわれたのだろうか。

 ハンガリーの民族楽器や電子楽器のタグイをバックにして、あるいは無伴奏で、LOVASZ 女史は女史は、そんな建国の頃を初めとして、歴史の折々に歌われてきた古い民謡を生き生きと歌い上げる。これまで聴いた彼女の歌の中で、これがベストと言いたくなるほど気持ちの良い歌を聴かせてくれている。
 いかにもバルカンの地らしく、東方の色彩の感じられる曲、西欧の風の吹く曲。その歌唱によって彼女の想いがメロディに乗り過去の出来事をカラフルに照らし出すみたいに感じられて。

 そいつはさながら生きたハンガリーの庶民史の風情。また素敵なアルバムを作ってくれたなあ、トベタな感想でも言っておこうか。
 (このアルバムの音は、残念ながらまだYou-tubeには上がっていないようだ。しょうがないから LOVASZ IREN女史の歌を適当に見繕って貼っておきます)



タランテッラの夜

2010-11-13 01:09:30 | ヨーロッパ

 ”Taranta Power”by Eugenio Bennato

 NCCPやムジカノヴァといった南イタリアの民謡復興グループの結成にもかかわり、その分野での大物としての貫禄をつけている Eugenio Bennatoである。これは、その彼が近年入れ込んでいるタランタパワーなるプロジェクトの音楽を収めたアルバム。
 そもそもタランタパワーとはなんじゃいな?と言うことになるが、 Eugenio が長年身を置いてきた南イタリア民謡の現場で伝統的に踊られているタランテッラなる舞踊、この地中海を越えて北アフリカまでも版図を広げている狂騒的ダンスをさらに世界に広めようという趣向のようだ。何かこの事に思想的意義付けでもあるような気もするのだが、いや、気がするだけで、そう推察する確たる根拠はない。

 演者が「全世界にタランタパワーを!」と入れ込むだけあり、南イタリアの民謡を聴き慣れた者にはお馴染みの、あの焼け付くようなリズムがさらに現代化されてソリッドに切り込む、相当に血が騒ぐ出来上がりとなっている。土ほこりと血の匂いと焼け付く南国の日差しと。
 打ち鳴らされる南イタリア独特の巨大タンバリンとバックの女性コーラスが煽り立て、ややイスラムの香り漂う官能的メロディがうねりながら地を這う。

 首謀者の Eugenio だが、その深い知性を感じさせるボーカルは彼の誠実な性格を良く伝えはするのだが、パワーや狂気と言ったものとは縁がなく、この辺、誠実なインテリの限界などチラッと感じさせるところ。何しろ演じようとしているのが狂騒的民族ダンス音楽なんだから。やや物足りなさを感じてしまうのは致し方ないところだろう。
 後ろに控えるアフリカ人を含む女性コーラス隊などがメインボーカルに廻るとバンド全体の孕む熱がグンと上がるのだから、歌のほうは彼女らに任せてしまい、御大はバンド全体を締める役割に徹したらと思うのだが、 Eugenio ご本人は「俺が歌えないなら何のためのバンドだ」くらいに思い込んでいるのやも知れないのよなあ。

 と言うわけで、今夜も地中海は妖しいステップに揺籃され、良い具合に煮あがって行く・・・