このたび教壇に復帰することになった経済評論家の植草一秀氏は二年前、都内で女子高生のスカートの中をのぞこうと手鏡を差し出したとして現行犯逮捕された。氏は犯行を否認していたが、当時その職にあった早稲田大学大学院教授を解職された。
解職理由はその当時報道されたのだろうが私は覚えていない。常識的に想像すると早稲田大学の名誉を傷つけたとか、教授にあるまじき振る舞いがあったとか、そのようなことであろう。植草氏は大学の業務の一端として手鏡を弄んだのではない。単なる個人的行為である。しかし早稲田大学は解職という厳しい処分で臨んだ。
そこで大阪大学医学部論文捏造事件である。『捏造論文』といえば何となく厳めしいイメージがあるかも知れないが、これは国会でも今問題になっている『ガセネタ』そのものなのである。『ガセネタ』であることを認めたがゆえに一旦公表した論文を撤回したのである。
大阪大学が世界に向けて『ガセネタ』論文を発信した。これ以上に大学の社会的名誉を傷つけるような行為があるのだろうか。それも大学構成員の『個人的行為』ではなく、教育とともに大学に科せられた『研究遂行』という業務での大失態なのである。その大失態をどのような形で収めるのか、そこに当事者ならびに大阪大学の真摯さが現れる。ところがどうだ。
既に周知の事実になっているが、念のために問題の論文を無料の検索ツール「Entrez PubMed」で調べると撤回の記録と共に論文のタイトル、著者、抄録を見ることが出来る。
私が開いた口がふさがらないと述べた軽い軽い停職14日の処分を受けた下村伊一郎教授がまさしくこの論文のラスト・オーサーになっている。共著者として14名も名前を連ねているような論文では下村氏が最高責任者なのである。それが世界中のあらゆる学会(日本のある宗教団体は除く)の常識というもので、早い話がこの論文がノーベル賞ものであったとすると、ラスト・オーサーは間違いなく三人と限られた受賞者の一人となるからである。
大阪大学での調査結果にアクセス出来ないので、その下村氏がどう言い抜けをしているのか窺い知る由はない。読売新聞(2006年2月16日)によると医学研究科が下村伊一郎と竹田潤二の《両教授を停職停職3か月とする方針を固めた》のに対して《2人は処分とされるほどの責任はないと主張》したため、大学が不服審査委員会を設けて審査し、今回の処分になったとのことである。Sankei Webによると《学生に適切な指導をしなかった》のが両教授に対する処分理由だとか。もしこの通りだとすると大阪大学は稚拙ではあるが問題をすり替えている。「学生に適切な指導をしなかった」から学生が医師の国家試験に落ちて大学の評判が下がってしまった、というような問題にしてしまっているのだ。
しかし《処分とされるほどの責任はないと主張》したこと自体が両教授の品性を世間に周知させた意味は大きい。特に下村教授は上にも述べたように『捏造論文』の最高責任者である。その最高責任者がノーベル賞なら貰うけれどペナルティからは逃げ回ると公言したようなものだ。これではお天道様が許さない。そのお天道様が許さないことを大阪大学がまた唯々諾々と許してしまうのだからこれはまさに恥の上塗りである。
この問題についての大阪大学の総長見解を引用する(強調は筆者)。
《論文データねつ造などによる不正論文の作成、出版は大阪大学における研究の根幹を揺るがすものであり、大学としてあってはならないことで社会的責任を痛切に感じております。 研究における公正さの確保は科学の進展における大前提となることは言うまでもありません。特に科学の推進の重要な担い手としての社会的役割と責任を持つ大学における学問研究にみじんたりとも不正な行為があってはなりません。今回の事案は、これまでの大阪大学の教育研究に対する信頼を失墜させ、本学の名誉を著しく傷つけたものであり、誠に遺憾に思う次第です。 このような事案が再び起こることの無いように、研究者の研究倫理や良心の自覚のみならず、学生に対する倫理意識、社会規範等の教育指導に全学を上げて取り組み、本学に対する社会的信頼の回復に努めていく所存です。 平成18年2月15日 大阪大学総長 宮 原 秀 夫》
両教授に下された停職処分内容を知ると上記の強調部分が余りにも空しい。植草氏の手鏡問題は一般人にも分かりやすい。しかし大学の中で行われていること、特に研究は専門的であるが故に世間一般には理解不可能である。だからこそ自己を律するより厳しい戒律が大学に求められるのである。
私が求めるのは件の教授に対する厳しい処分そのものではない。その厳しい処分を当然とする大学の社会的責任を大阪大学が遅まきながらでも自覚することなのである。
解職理由はその当時報道されたのだろうが私は覚えていない。常識的に想像すると早稲田大学の名誉を傷つけたとか、教授にあるまじき振る舞いがあったとか、そのようなことであろう。植草氏は大学の業務の一端として手鏡を弄んだのではない。単なる個人的行為である。しかし早稲田大学は解職という厳しい処分で臨んだ。
そこで大阪大学医学部論文捏造事件である。『捏造論文』といえば何となく厳めしいイメージがあるかも知れないが、これは国会でも今問題になっている『ガセネタ』そのものなのである。『ガセネタ』であることを認めたがゆえに一旦公表した論文を撤回したのである。
大阪大学が世界に向けて『ガセネタ』論文を発信した。これ以上に大学の社会的名誉を傷つけるような行為があるのだろうか。それも大学構成員の『個人的行為』ではなく、教育とともに大学に科せられた『研究遂行』という業務での大失態なのである。その大失態をどのような形で収めるのか、そこに当事者ならびに大阪大学の真摯さが現れる。ところがどうだ。
既に周知の事実になっているが、念のために問題の論文を無料の検索ツール「Entrez PubMed」で調べると撤回の記録と共に論文のタイトル、著者、抄録を見ることが出来る。
私が開いた口がふさがらないと述べた軽い軽い停職14日の処分を受けた下村伊一郎教授がまさしくこの論文のラスト・オーサーになっている。共著者として14名も名前を連ねているような論文では下村氏が最高責任者なのである。それが世界中のあらゆる学会(日本のある宗教団体は除く)の常識というもので、早い話がこの論文がノーベル賞ものであったとすると、ラスト・オーサーは間違いなく三人と限られた受賞者の一人となるからである。
大阪大学での調査結果にアクセス出来ないので、その下村氏がどう言い抜けをしているのか窺い知る由はない。読売新聞(2006年2月16日)によると医学研究科が下村伊一郎と竹田潤二の《両教授を停職停職3か月とする方針を固めた》のに対して《2人は処分とされるほどの責任はないと主張》したため、大学が不服審査委員会を設けて審査し、今回の処分になったとのことである。Sankei Webによると《学生に適切な指導をしなかった》のが両教授に対する処分理由だとか。もしこの通りだとすると大阪大学は稚拙ではあるが問題をすり替えている。「学生に適切な指導をしなかった」から学生が医師の国家試験に落ちて大学の評判が下がってしまった、というような問題にしてしまっているのだ。
しかし《処分とされるほどの責任はないと主張》したこと自体が両教授の品性を世間に周知させた意味は大きい。特に下村教授は上にも述べたように『捏造論文』の最高責任者である。その最高責任者がノーベル賞なら貰うけれどペナルティからは逃げ回ると公言したようなものだ。これではお天道様が許さない。そのお天道様が許さないことを大阪大学がまた唯々諾々と許してしまうのだからこれはまさに恥の上塗りである。
この問題についての大阪大学の総長見解を引用する(強調は筆者)。
《論文データねつ造などによる不正論文の作成、出版は大阪大学における研究の根幹を揺るがすものであり、大学としてあってはならないことで社会的責任を痛切に感じております。 研究における公正さの確保は科学の進展における大前提となることは言うまでもありません。特に科学の推進の重要な担い手としての社会的役割と責任を持つ大学における学問研究にみじんたりとも不正な行為があってはなりません。今回の事案は、これまでの大阪大学の教育研究に対する信頼を失墜させ、本学の名誉を著しく傷つけたものであり、誠に遺憾に思う次第です。 このような事案が再び起こることの無いように、研究者の研究倫理や良心の自覚のみならず、学生に対する倫理意識、社会規範等の教育指導に全学を上げて取り組み、本学に対する社会的信頼の回復に努めていく所存です。 平成18年2月15日 大阪大学総長 宮 原 秀 夫》
両教授に下された停職処分内容を知ると上記の強調部分が余りにも空しい。植草氏の手鏡問題は一般人にも分かりやすい。しかし大学の中で行われていること、特に研究は専門的であるが故に世間一般には理解不可能である。だからこそ自己を律するより厳しい戒律が大学に求められるのである。
私が求めるのは件の教授に対する厳しい処分そのものではない。その厳しい処分を当然とする大学の社会的責任を大阪大学が遅まきながらでも自覚することなのである。