大晦日の朝日新聞一面に「おやすみなさい 名ホール」の見出しで、大阪・中之島のフェスティバルホールが建て替えのために一時閉鎖するので、30日に50年の歴史を締めくくる最後の公演が行われたとの記事が出ていた。新ホールは2013年に開館する予定とあったから、お目にかかれるのかどうか微妙なところである。このホールが出来たのはちょうど私が大学を卒業して大学院に進んだ年で、朝夕その横を通って通学していた。世界に自慢できる設計のホールだと大きな話題になっており、そのようなホールが身近にあることだけで誇らしげな気分になったものである。しかし貧乏学生にとってはそこでのコンサートなんて高嶺の花で、行けるようになったのははるか後年である。そのようなことを思い出していると、半世紀以上も前に出会った人物の記憶が蘇ってきた。
阪大理学部に入学して教養時代は豊中の待兼山キャンパスで過ごした。高校の先輩に声をかけられたのがきっかで、ある読書サークルに参加するようになった。メンバーは10人足らずの所属年齢が雑多な集まりで、科学史関連の本を読んでいたように思う。はっきりと記憶に残っているのは岩波新書の「科学と宗教の闘争」(ホワイト著、森島恒雄訳)で、侃々諤々の議論を大いに楽しんでいた。そのころ大学書林から出たばかりの「共産党宣言」の対訳本にも取り組んだように思うが、まあそのような性格のサークルでそのリーダーがHMさんだった。HMさんはすでに理学部を卒業していたのに文学部に入り直し、哲学を専攻していた。ひときわ年長であったのにわれわれの中に自然に溶け込み、それでいて一目置かれる存在であった。そのHMさんは音楽好きでもあり、音頭を取って立ち上げた大阪大学中央合唱団というたいそうな名前の合唱団に誘われたのである。
入った頃は「国際学連お歌」とか「若者よ」など勇ましい歌を歌ったものであるが、次の年だったろうか新入生を勧誘した結果団員が大幅に増えた。嬉しいことに女子学生が多く入ってきてまともな混声合唱が出来るようになったのである。その頃の写真が何枚か出てきたが、最初のは昭和29年の初夏であろう、みな良い表情をしている。

その秋だと思うが待兼山祭で「白鳥の湖」を演じた時の記念写真で、前列右にしゃがみ込んでいるのが私である。たまたまレコーダーを持っていたものだから、印度のコブラ使いにさせられたのである。

舞台となった講堂の様子は次のような有様で、戦前からの幕などがだらしなく垂れ下がったままであった。

この合唱団ではよく遊んだ。夏は合宿、春秋はピクニックに出かけるし、冬になるとクリスマス・パーティである。交渉術に長けた仲間が学生食堂に掛け合って調理場込みで食堂を使わして貰ったりした。規則で雁字搦めとなった現在では考えられない大らかさである。調理場ではまだおくどさんが幅をきかせていた。たまたま私がお釜の蓋を取ろうとした時の写真が残っていた。たぶんおぜんざいを炊いていたのだろう。お釜をそのまま持ち込むわけにはいかないので鍋に移したようである。パーティ会場にちゃんとその姿が見える。どうも私が司会していたようである。


合唱団の名前が表していたように、その後ピークに達した歌声運動のはしりのようなものであった。その頃よく歌った歌は今でも歌声喫茶に行けば定番になっているのであろう。かなり政治性の高い歌もあったが、メンバーが増えてくるとそのような歌を敬遠する動きも生まれてきて、その動向が選曲に反映されるようになった。そして私がある事情で教養部に残留することになった三年目に入り、合唱団の名前を大阪大学フロイントコールと改めたのである。残念ながら改名披露パーティの写真は見あたらなかった。この合唱団が今でも残っているとしたら50有余年の齢を重ねたことになろう。
合唱団の性格をめぐってよく議論を交わした仲間の一人にTTさんがいた。彼がその分野で名だたる音楽評論家になり本を何冊も出版するようになったが、それは後の話である。HMさんとTTさんとは卒業後も交友が続き、私の結婚披露にも出て寄せ書きを残してくださった。今見るとHMさんは「愛とは何か、60歳になった時に答えを聞きたい。それまでお互いに元気でいたいものだ」と、またTTさんは「時々城ヶ島の雨を唄ってください」とそれぞれ記してしてくださっている。「城ヶ島の雨」はその頃から私の持ち歌になっていたようである。
それはともかく、TTさんは音楽関係に進みそうな気配を漂わせていたが、意表を突かれたのがHMさんである。始まったばかりの「大阪国際フェスティバル」の事務局に入っていわゆる呼び屋の仕事を始めたのである。このような人だから中央合唱団を始めたものの、その後の若い勢力に押されて政治路線から芸術路線への転換をもあまり抵抗感もなく受容できたのではなかろうかと想像する。そのHMさんからフェスティバルホールのチケットをタダとは言わないが、割安で廻して貰えないだろうかと仲間で話し合った記憶がある。しかしそんな厚かましいことを、と自制が働きせっかくの名案も立ち消えになってしまった。
1980年代だと思うがフロイントコールの同窓会が一度あった。卒業後はぼ25年を経て創成期時代のメンバーが集まったことになるが、すでにみなさんは紳士淑女に変貌していた。それからさらに四半世紀、平成も二十一年となり昭和は遠く遠くになってしまったのである。

阪大理学部に入学して教養時代は豊中の待兼山キャンパスで過ごした。高校の先輩に声をかけられたのがきっかで、ある読書サークルに参加するようになった。メンバーは10人足らずの所属年齢が雑多な集まりで、科学史関連の本を読んでいたように思う。はっきりと記憶に残っているのは岩波新書の「科学と宗教の闘争」(ホワイト著、森島恒雄訳)で、侃々諤々の議論を大いに楽しんでいた。そのころ大学書林から出たばかりの「共産党宣言」の対訳本にも取り組んだように思うが、まあそのような性格のサークルでそのリーダーがHMさんだった。HMさんはすでに理学部を卒業していたのに文学部に入り直し、哲学を専攻していた。ひときわ年長であったのにわれわれの中に自然に溶け込み、それでいて一目置かれる存在であった。そのHMさんは音楽好きでもあり、音頭を取って立ち上げた大阪大学中央合唱団というたいそうな名前の合唱団に誘われたのである。
入った頃は「国際学連お歌」とか「若者よ」など勇ましい歌を歌ったものであるが、次の年だったろうか新入生を勧誘した結果団員が大幅に増えた。嬉しいことに女子学生が多く入ってきてまともな混声合唱が出来るようになったのである。その頃の写真が何枚か出てきたが、最初のは昭和29年の初夏であろう、みな良い表情をしている。

その秋だと思うが待兼山祭で「白鳥の湖」を演じた時の記念写真で、前列右にしゃがみ込んでいるのが私である。たまたまレコーダーを持っていたものだから、印度のコブラ使いにさせられたのである。

舞台となった講堂の様子は次のような有様で、戦前からの幕などがだらしなく垂れ下がったままであった。

この合唱団ではよく遊んだ。夏は合宿、春秋はピクニックに出かけるし、冬になるとクリスマス・パーティである。交渉術に長けた仲間が学生食堂に掛け合って調理場込みで食堂を使わして貰ったりした。規則で雁字搦めとなった現在では考えられない大らかさである。調理場ではまだおくどさんが幅をきかせていた。たまたま私がお釜の蓋を取ろうとした時の写真が残っていた。たぶんおぜんざいを炊いていたのだろう。お釜をそのまま持ち込むわけにはいかないので鍋に移したようである。パーティ会場にちゃんとその姿が見える。どうも私が司会していたようである。


合唱団の名前が表していたように、その後ピークに達した歌声運動のはしりのようなものであった。その頃よく歌った歌は今でも歌声喫茶に行けば定番になっているのであろう。かなり政治性の高い歌もあったが、メンバーが増えてくるとそのような歌を敬遠する動きも生まれてきて、その動向が選曲に反映されるようになった。そして私がある事情で教養部に残留することになった三年目に入り、合唱団の名前を大阪大学フロイントコールと改めたのである。残念ながら改名披露パーティの写真は見あたらなかった。この合唱団が今でも残っているとしたら50有余年の齢を重ねたことになろう。
合唱団の性格をめぐってよく議論を交わした仲間の一人にTTさんがいた。彼がその分野で名だたる音楽評論家になり本を何冊も出版するようになったが、それは後の話である。HMさんとTTさんとは卒業後も交友が続き、私の結婚披露にも出て寄せ書きを残してくださった。今見るとHMさんは「愛とは何か、60歳になった時に答えを聞きたい。それまでお互いに元気でいたいものだ」と、またTTさんは「時々城ヶ島の雨を唄ってください」とそれぞれ記してしてくださっている。「城ヶ島の雨」はその頃から私の持ち歌になっていたようである。
それはともかく、TTさんは音楽関係に進みそうな気配を漂わせていたが、意表を突かれたのがHMさんである。始まったばかりの「大阪国際フェスティバル」の事務局に入っていわゆる呼び屋の仕事を始めたのである。このような人だから中央合唱団を始めたものの、その後の若い勢力に押されて政治路線から芸術路線への転換をもあまり抵抗感もなく受容できたのではなかろうかと想像する。そのHMさんからフェスティバルホールのチケットをタダとは言わないが、割安で廻して貰えないだろうかと仲間で話し合った記憶がある。しかしそんな厚かましいことを、と自制が働きせっかくの名案も立ち消えになってしまった。
1980年代だと思うがフロイントコールの同窓会が一度あった。卒業後はぼ25年を経て創成期時代のメンバーが集まったことになるが、すでにみなさんは紳士淑女に変貌していた。それからさらに四半世紀、平成も二十一年となり昭和は遠く遠くになってしまったのである。
