日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

海自ミサイル迎撃試験成功に水を差すが・・・

2007-12-19 15:44:14 | Weblog
海上自衛隊のイージス艦「こんごう」がハワイ・カウアイ島沖で、アメリカの実験的に発射したミサイルを海上配備型迎撃ミサイル・SM3で邀撃に成功したということで、「こんごう」の管制室であろうか、乗組員が大喜びしている光景をテレビで観た。それほど喜ぶべきことか、と私はその光景を冷ややかに眺めたのである。

海上自衛隊員はボタンを押しただけではないか、と思ったからである。邀撃ミサイルシステムのいったいどこに人力の関与することがあるというのだろう。どこからかわが国にミサイルが飛んでくる。それを探知すれば直ちに邀撃態勢が自動的にとられて、ボタンが押されて迎撃ミサイルが飛び出すのであろう。このボタンと言ってもたんにシステムを稼働させるためのものかも知れない。弾道計算に手回しの計算機や計算尺が幅をきかせていた時代ではないのである。人間のすることは何もないではないか。大喜びしている隊員、それに嬉しげなコメントを述べる政治家はバッカじゃなかろうか。

ミサイル攻撃に対抗するミサイル防衛(MD)システムと言ってもこれは全くのアメリカ製で、重要な機密が日本に明かされているはずがない。ブラックボックスだらけのものであろう。その意味では制御装置を触らせてもらったとしても、ゲーム機をいじくっている感覚と変わりはあるまい。ゲーム機と違うのはシステムの配備に膨大な費用がかかっていることである。私の推測では今回の迎撃ミサイルSM3一発が数十億円ほどになるだろう。高すぎるお遊びである。パチパチ手を叩いている場合か。

撃ち落としたのはアメリカの模擬ミサイルだそうである。あらかじめ発射される場所も、飛んでくるミサイルの種類も分かっている。不意をつかれたわけでもない。速度が圧倒的に遅いとか、落として貰いやすいように仕組まれた実験であるのかも知れない。同じ実験をするのなら、中国とかロシアに実戦配備のミサイルと飛ばして貰ってそれを撃ち落とすぐらいのことをしないと、実験の意味はない。

北朝鮮、中国がそれぞれ1000基以上の弾道ミサイルを持っているそうである。MDシステムが実戦配備されたとしても、飛んでくるすべてのミサイルを100%の確率で撃ち落とすことは到底不可能である。というより100%の確率で撃ち落とせるという科学的なデータがあるはずが無いではないか。MDシステムはそもそもアメリカ防衛のもの、アメリカに向かって飛んでいくミサイルを手を拱いて眺めているしか出来ない日本に、アメリカが本気で日本防衛に手を貸すと考えること自体が大間違いである。アメリカにミサイル発射の情報を抑えられ、肝腎の邀撃ミサイルの供給をストップされる可能性を考える政治家が1人ぐらいはいてよさそうなものである。

戦争回避のためには全力をつくす。しかし核弾頭がいざ飛んできたら座して死を待つのも一つの選択肢かなと思う。しかし日本防衛のためにどうしてもミサイル防御システムが必要と国民の総意でそうなるのなら、アメリカを含めて他国に依存しないわが国独自のシステムの開発をすべきなのである。強力なエネルギー光線で一瞬にミサイルを気化するとか、わが国全体をすっぽりと覆い被してミサイルの進入を絶対に許さない目に見えない障壁を開発するとか、それぐらいは出来るのではなかろうか、とその昔、山中峯太郎、海野十三や平田普策の熱血武侠小説に耽溺した元『軍国少年』は思うのである。

一弦琴「土佐の海」をもう一度

2007-12-19 11:51:34 | 一弦琴

「土佐の海」からまだまだ卒業できない。

          詞 真鍋豊平
          曲 真鍋豊平

  土佐の海 底の海石(いくり)に 生ひいづる
  珊瑚の玉の 玉なれや 赤き心の 貫之の
  大人(うし)の命(みこと)の 住みませし
  昔しのべば 今もなほ その名は高く 
  世にめづる 宇田の松原 うちよする
  波の音清く 見る目ゆたけし 土佐の海原

先生にお浚いをみていただいたあとの演奏を12月15日にアップロードしたが、17日には演奏をいったん差し替えた。唄い方に満足できないこともあるが、私なりに考えるところもあるだ。

私の用いている琴譜は徳弘太著「清虚洞一絃琴譜」に先生が手を加えたもので、原本とは必ずしもおなじではない。たとえば私は二行目は上の歌詞のように「珊瑚の玉の 玉なれや」と唄っているが、徳弘本では「さんごのたまの あかだまの」となっている。大西一叡著「一弦琴 一つ緒のみち」にある「土佐の海」でも、「さんごの玉の 赤玉の」となっているに、琴譜では「赤玉の → 玉なれや」になっているのである。なぜこのように変わったのか、まだ先生にお聞きしていない。私も「赤玉の」と唄ったりしたが、「さんごのたまの あかだまの」ではちょっと品がないように感じたので、あえて原本には従わなかった。

五行目の「(宇田の)松原」のところは

  まつゥばァらァァ (徳弘本、大西本)
  まつゥゥゥばァら (徳弘・松崎一水改訂本)

と本によって唄い方が違うので、12月17日は後者の唄い方をしたが、やっぱり前者の方が私の好みなので、唄い方を元に戻した。松崎一水さんは徳弘太の三女で清虚洞宗家三代目を名乗っておられる方であるが、何をもって新しい唄い方をよしとして改訂されたのか、私には分からない。

と言いながら、私も自分の演奏を何回も聴き直しては、新しい唄い方にしたり元に戻したりして、自分にしっくりくる演奏を探し求めている。人に教える立場にある人がお稽古のたびに唄い方を変えると、弟子は堪ったものではないが、幸い私は学ぶ身なので試行錯誤を大いに楽しめるのが嬉しい。