日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

自衛艦の火災で明らかになった自衛隊有事対応のお粗末

2007-12-17 14:13:32 | Weblog
護衛艦「しらね」の火災を報じた日経1月15日夕刊の記事で感じたいくつかの疑問を15日のブログで述べたが、その後の様子が少し分かってきた。しかし同時に新たな疑問が出てきた。ここでは毎日新聞の記事「横須賀の護衛艦火災:「艦全体が釜状態」 複雑構造、鎮火まで8時間も /神奈川」(12月16日12時2分配信 毎日新聞)から引用する。

《火災の発生は14日午後10時20分ごろ。しかし横須賀市消防局は約1時間後、市民からの119番で初めて火災を知った。消防隊員が現場に到着したのは11時半ごろ。消防車16台、70人態勢で消火したが、火元にたどり着いたのは活動開始から3時間半後の15日午前3時だった。》

日経では自衛官が119番したかのように書かれていたが、この記事では横須賀市消防局が市民からの119番で始めて火災を知ったとのことである。しかしこれだけでは自衛官が119番したのかどうかが分からない。元『軍国少年』の私としては、火災を起こした自衛艦が地元の消防署に119番をするなんて、そんな間抜けなことをするとは思えないのであるが、消防局の記録ではどうなっているのだろう。

《消防隊員らによると、鉄板で囲まれた船体には煙や熱風の逃げ道が無いため熱がこもり「艦全体がお釜のような状態」になっていた。男性隊員(38)は「ドアや窓を目がけて放水したが、鉄板に当たって跳ね返ってくるのは100度近い熱湯。全く近づけなかった」と振り返った。》

自衛官が119番したのかどうなのかはともかく、消防車がすんなりと「しらね」に近づけたようである。この消防車が自爆テロの偽装車でないことを自衛隊は確認していると信じたいが実情はどうだったのだろう。

《艦内は戦闘時の延焼防止のため、小さな区画に区切って設計されている。8時間燃えても火元の戦闘指揮所(CIC)から隣の区画には延焼しなかったが、複雑な構造は消防隊を苦しめた。突入後も、電気が消えた真っ暗な艦内には熱気と煙と水蒸気が立ち込め、視界をさらに遮った
 市消防局の武藤正消防司令は「全く前が見えず、手探りで進むしかなかった。急な階段の上り下りが続き、酸素ボンベも通常より短い15分程度しか持たなかった。隊員の交代を繰り返して消火したが、出火元を探すのが非常に困難だった」と話す。》(強調は引用者)

消防隊員が「しらね」の艦内まで乗り込んでいたのである。しかし上の強調部分を読んで私はとんでもないことだ、と思った。日頃から自衛艦と地元の消防局が共同して自衛艦の消火訓練をしていたとは私には思えない。したがって消防隊員が護衛艦の構造を熟知している筈はなかろう。『軍事機密』の壁を考えれば当たり前のことである。その消防隊員が自衛隊員の先導もないのに複雑な構造の艦内に飛び込んだとしたらそれは無謀と言うものである。実際はどうだったのだろう。

「艦内は戦闘時の延焼防止のため、小さな区画に区切って設計されている」、なるほど、火災の発生した小区画を密閉してしまえばいずれは酸欠で鎮火するのだろう。とすると「しらね」乗組員が密閉作業をいちはやく完了していたのなら、後は待つだけなのではなかろうか。街の消防隊の出番が一体どこにあるのだろう。消防隊がまさか密閉したところをまた開いて酸素を供給したとは考えられないが、実際はどうだったのだろう。一番最初の引用の中に「火元にたどり着いたのは活動開始から3時間半後」とあるが、この火元とは一旦密閉した区画に入り込んで、と言う意味なのだろうか。もしそうだとすると密閉の意味がなくなるではないか。もっと状況の分かる記事を書いて欲しいものである。

《報道陣は基地内に入っての撮影を再三要請したが、基地正面入り口にいた警備の隊員は「戦時と同じ状況なので、立ち入りは認められない」と返答した。》

これは当然の処置として理解できる。と言うことは自衛隊がやはり消防車の立ち入りを許可したことになるが、私が自衛隊の指揮官なら消防車にはお帰りいただく。海上自衛隊の消防隊で対処すべきであるからだ。それにしてもこの報道で消火活動における「しらね」乗組員をはじめとする自衛隊員の行動がなぜか見えてこない。全員腰を抜かしていたわけでもあるまいに・・・。

自衛艦の火災に消防車?出動の怪

2007-12-15 23:04:05 | Weblog

日経今日の夕刊に出ていた記事である。自衛艦と言っても軍艦のようなものだから、戦闘中の砲撃やミサイル攻撃、さらには爆弾を落とされて火災が発生することもあるだろう。そういう意味では軍艦に火災はつきものなのである。今回は幸い戦闘ではく電気系統の火災であったようだが、火災には変わりない。火災が発生するのは仕方がないとして、その後が悪い。

火災が発生して自衛官が消火しようとしても火が収まらないので、賢明なのかどうか119番、すなわち消防署に電話をかけたというのだ。やって来たのが消防車か消防艇なのか分からないが、私はちょっと考え込んでしまった。燃料補給とかでインド洋に自衛艦が出動したいらしいが、もしインド洋上で火災が発生してもやっぱり119番をかけるのだろうか。

自衛艦は通常の船舶ではない。望むと望まざるに係わらず砲火を交えることを前提に艦が設計されているはずだ。当然火災発生時の消火システムも備えられていると素人でも思うではないか。戦闘中に119番をかけられても消防車はもちろん消防艇でも駆けつけるわけにはいかないではないか。自力消火すらできないのに自衛艦とはこれいかに、である。

それよりなにより、ミサイルや機関砲などの射撃管制を行う最重要区画の火災が、119番で消火の応援を求めたのに鎮火まで8時間もかかったと言うような情けないことを、マスメディアが全世界に発信するのを防衛省が阻止できなかったとは、いったいどういうことなんだ。重大な『軍事機密』の漏洩ではないか。護衛艦を麻痺させるのに焼夷弾か火炎瓶でも十分ということが全世界に知られてしまったではないか。

かって近くのある工場で火事が発生して消防車が駆けつけたことがある。ところが工場側が門を閉ざして消防車が構内に入るのを阻止して消防と激しくやり合っていたことがある。企業秘密があるので許可なしに消防車と雖も構内に入れることが出来ない、と工場側が頑張っていたことを思い出した。119番をかけた自衛官にこのような教育すら為されていなかったのだろう。

石波防衛大臣の出方を見守りたいと思う。

一弦琴「土佐の海」

2007-12-15 12:07:08 | 一弦琴
清虚洞一絃琴の曲は一通り習い終えたと言うことで、先月からお浚いに入った。そこで自分で選んだ曲のお浚いをみてくださるよう先生にお願いをした。最初に選んだのが「土佐の海」である。

          詞 真鍋豊平
          曲 真鍋豊平

  土佐の海 底の海石(いくり)に 生ひいづる
  珊瑚の玉の 玉なれや 赤き心の 貫之の
  大人(うし)の命(みこと)の 住みませし
  昔しのべば 今もなほ その名は高く 
  世にめづる 宇田の松原 うちよする
  波の音清く 見る目ゆたけし 土佐の海原

驚いたことに最初に教えていただいたときの記憶がほとんど残っていないのである。でも譜本にはその時の書き込みが残っているから、習ったことは間違いない。だからこそお浚いが大切なのだ、と自分に納得させる。

この曲を暗譜で弾ける程まで時間をかけてお浚いを重ねた。いろいろと疑問点が出て来るので、その箇所にしるしをつけておく。先生と向かい合って坐り、視野の片隅に先生の動作が入ってくるような姿勢で弾き唄う。譜を絶えず見ながらではこのようなことは出来ない。そして先生の動きを数十ミリ秒の遅れでなぞるようにする。

今朝のNHK連続ドラマ「ちりとてちん」で、草若師匠が弟子の四草に訓戒を垂れていた。「テープを聴いて練習するだけではあかんのや。身体の動きに間の取り方、それを学び取らなあかん」というようなことを言っている。私は大きく頷いてしまった。その通り、それなのにこれまではせっかく先生と相対していても、そこまで気を配るゆとりがなかったのである。

先生の身体の動きは無駄がない。右手と左手が慎み深くしかい優雅に琴の上で舞うとひとりでに琴の音が流れ出す。玄妙である。さあ、私も頑張りまっせ!

追記(12月19日)

演奏を差し替えた。

博士号汚職? その続き

2007-12-14 14:58:34 | 学問・教育・研究
昨日このブログで《学位の取得に伴うお金のやり取りに注がれる世間の目は厳しいかもしれないが、ここにどのような犯罪性があるのだろう。》と私が疑問を投げかける形をとったが、やや言葉不足のようなので説明を加えたいと思う。

今回は博士号の貰えることがどの時点で分かるのか、ということに焦点を当てて話を進めることにする。

博士号を目指すのであれば大学院に入るのが普通である。大学の修業年限が6年である医学部などから医学研究科に進学すると4年間で、修業年限が4年である理学部などから理学研究科に進むと前期後期合わせて5年間で一応博士号を貰えることになる。しかし年限が来たからと言って自動的に博士号が貰えるものではない(近い将来にそうなってもよいが・・・)。また自分の一存で博士論文を提出して博士号をすんなり貰えるものではない。指導教員に「そろそろ出しますか」と言われて始めて学位審査申請の手続きをすることになる。そして、指導教員に「そろそろ出しますか」と言われた時点で、まず博士号は確実に貰えると思ってよい。

各大学院ごとに学位審査に当たって予備審査とか本審査とか規則を定めているが、これはいわば事務手続きのようなものである。学位審査委員会が論文審査や最終試験などの結果を審議して学位申請者が学位授与に値するか否かを議決することで事は決する。学位審査を申請して審査が進められたにもかかわらず学位が認められなかったと言うのは、私の長い大学生活でほんの数例を見聞きしたに過ぎない。

同じことが論文博士についても言える。指導教員が「申請手続きを始めなさい」と言えばその時点で決まりと思ってまず間違いはない。私が現役の頃は、論文博士と言っても論文だけを提出してそれで事が運ぶという時代ではすでになかった。研究生という身分で大学院よりも長い年数をかけて研究を行い、学位審査に先立って語学試験なども課せられていた。研究生として教室に受け入れられたとしても、すべてがすんなりと学位を取得できたわけではない。途中で去っていくものも多かった。それだけに「申請手続きを始めなさい」という指導教員の言葉には重みがあったのである。

ここで私の最初の問いかけ、「博士号の貰えることがいつ分かるか」の答えは、「指導教員が学位審査申請手続きを始めなさいと言った時点」であることを再確認していただこう。この前提があるから審査が始まってからの一連の流れはすべて『儀式』に過ぎないと私は言うのである。そこでこの前提に立って、指導教員と学位審査申請者との間で、いつ金銭のやり取りがあったかと言うことを問題にしよう。金銭のやりとりの『犯罪性』に係わるからである。

刑法197条はこのように書かれている。

《(収賄、受託収賄及び事前収賄)
第197条 公務員が、その職務に関し、賄賂を収受し、又はその要求若しくは約束をしたときは、5年以下の懲役に処する。この場合において、請託を受けたときは、7年以下の懲役に処する。
《改正》平15法138》

刑法197条にはその4まであるが、話を進めるにはこの引用部分で十分である。

公務員が「賄賂を収受」すればここに「収賄の罪」が成立することになる。従って指導教員と学位審査申請者との間で金品の授受があったとしても、それが「賄賂」に当たることの立証が必要になる。

学位審査申請者が指導教員にお中元、お歳暮を贈っていたとしよう。菓子箱の底に小判が敷き詰められていた、と言うようなこともなく、その内容が社会通念から逸脱しない限り、これが賄賂として認定されることはまずあるまい。

なかなか指導教員に「学位申請を出しなさい」と言って貰えない研究生が、「先生、ずいぶん長くご指導も受けましたので、そろそろ学位をどうかよろしくお願いします」とか何とか言って小判とか商品券入りの菓子箱を差し出す。それを受け取った指導教員が「そう言えばそうだね、ではぼちぼち準備を始めなさい」などと言えばこの菓子箱の賄賂性は極めて高いと私は思う。しかしそれほど露骨に事を運ぶ人がいるとは私には思えない。

ここで再びYOMIURI ONLINEの記事を引用する。
《伊藤容疑者は2004年度に博士号を取得した5人から、口頭試問の問題を事前に教えた見返りに、現金計百数十万円の謝礼を受け取ったとして逮捕された。》(2007年12月9日3時2分 読売新聞)

「口頭試問の問題を事前に教えた」とはどのようなことなのか。「念のためにこのことをしっかり勉強しておきなさい」ぐらいは私も口にだしそうだが、これでも問題を事前に教えたことになるのだろうか。それはともかく、口頭試問自体が私に言わせると『儀式』の一貫で、質問したもののはかばかしい答えが返ってこないと、質問者が気を遣って答えを引き出すような誘導質問を繰り返しては儀式を成り立たせるように努めたりするのである。指導教員が「申請手続きを始めなさい」と言った時点ですべてが決まっているのに、そのあとで「口頭試問の問題を事前に教えた」とはおよそ無意味な言説である。情報不足なのでこの問題にこれ以上立ち入らないが、一連の出来事の時系列でどの時点で金品の授受があったかが賄賂性判断の核心になると思う。

お中元とかお歳暮以外にややこしい金品の授受もなく、学位審査申請者が晴れて学位を授与された。そこで新博士が有難うございました、と指導教員に慣例として伝えられる金銭を贈ったとする。金額の多寡が気になるとは言え、これを賄賂と認定できるのだろうか。法律に素人の私ではあるが、これでは賄賂の立証ができないだろうと判断して、《学位の取得に伴うお金のやり取りに注がれる世間の目は厳しいかもしれないが、ここにどのような犯罪性があるのだろう。》と昨日のブログで述べたのである。

私は大学人には自らを律する高い社会規範があるべきだと思っている。自分の職務においていわれなき金品を受け取るのはもってのほかである。しかし法律と倫理規範の間には大きなギャップがあるのが通例である。このギャップを埋めるために大学によってはそれなりの「決まり事」を定めているようであるが、その内容は必然的に法律以上に厳しいものになるはずである。

ここで東大教官倫理綱領を取り上げてみる。教官の「点検すべき事項」として以下の項目が挙げられている。

《(3) 教官の専門性に基づくサービスの提供に関連して

 大学人が自らの研鑽によって身につけた専門的知見と能力をさまざまな形で社会に提供することは、社会に対する大学の貢献の一環である。だが、その際も無用の疑惑を生ぜしめないよう、自戒を怠ってはならない。

 (a) 附属病院における診療、大学院研究科におけるいわゆる論文博士の論文審査等、教官の当然の職務として行うものについて、個人的謝礼を受け取ってはいないか。 (強調は引用者)

 (b) 教官個人が、原稿料・印税・書籍等の編集費・講演料・講習会講師料・鑑定料・技術指導料等、通例の報酬を受け取る場合であっても、その額が、職務との関連で、社会の疑惑を招くものではないか。「顧問料」のような形の継続的なものがあるとすれば、兼業制限との関係でも問題となる。また、大学の教官の地位に対する信用に安易に寄りかかって常識を越えた報酬を受け取っていないか。

 (c) 上記(b)において、公務員の職務専念義務に悖ることはないか。》

強調部分は賄賂性の有無を問題にする刑法197条よりさらに厳しく、一切の個人的謝礼を受け取るべきではない、と規定しているのである。

あと百年もすればこのような倫理規範がすべての大学に行き渡るのだろうか。

博士号汚職?で逮捕の怪 論文博士廃止のきっかけになるか

2007-12-13 11:08:21 | 学問・教育・研究
asahi.comが《医学博士号を取得した名古屋市立大の研究員から現金を受け取っていたとして、愛知県警は5日、同大大学院医学研究科の元教授伊藤誠容疑者(68)=名古屋市瑞穂区春山町=を収賄容疑で逮捕した。調べに対し、伊藤元教授は金銭の授受は認める一方、「便宜を図っていない」と供述しているという。
 捜査2課の調べでは、伊藤元教授は同科教授だった05年3月下旬、博士号の論文審査の主査として、学位申請者の同科研究員5人から審査で有利な取り計らいをしたことの謝礼として、現金計百数十万円を自分の研究室で受け取った疑い。》(2007年12月5日(水)22:52 )と報じた。私は東京で遊びまわっていたので、この関連のニュースに気づいたのは二三日前のことである。他紙の関連記事にも目を通してみた。

この記事がどうも私にはしっくりこない。不手際なことをやらかす県警と私の頭にインプットされていたあの愛知県警がなぜ?とまず思った。博士号の学位記は確か大学が発行するのではなかったのか。私の学位記で確認すればいいのだが、どこかに雲隠れして見つからないので、発行者は博士号を授与した大学の総長・学長であるとの前提で話を進めるがまず間違いはなかろう。なぜこのことに拘るのかと云えば、今回のような医学博士号の授受を巡っての問題はまず大学内で処理するのが筋なのではなかろうか、と思うからである。

学位制度は教育基本法とその施行省令である学位規則に定められたものである。しかし学位の授与にいたる諸々の具体的な手続きは大学の各学部、さらには各学科によって決められているのが実情であろう。今は「大学」が「大学院」になっているが、要するに学位授与は今や死語かもしれないが「大学の自治」の範囲の行為なのである。「学部の自治」でもある。

YOMIURI ONLINEの伝えるところでは名古屋市立大学《大学院医学研究科では主査、副査への謝礼が慣例化》しており、また《関係者によると、博士号取得に対する謝礼の相場は、主査に対してが20万~30万円、副査が5万~10万円》(共に2007年12月9日3時2分 読売新聞)とのことである。学位の取得に伴うお金のやり取りに注がれる世間の目は厳しいかもしれないが、ここにどのような犯罪性があるのだろう。

2004年度に伊藤氏が主査として関与した18人の内訳は、論文博士が16人で課程博士が2人だったとのことである。論文博士が異常に多いのが目につくが、これは伊藤氏の定年退職と関係があるようで、いわば『滞貨一掃』なのであろう。そしてYOMIURI ONLINEの報じる《伊藤容疑者は2004年度に博士号を取得した5人から、口頭試問の問題を事前に教えた見返りに、現金計百数十万円の謝礼を受け取ったとして逮捕》というのも、この「論文博士」が絡んでいるのであろう。そこで焦点を「論文博士」に絞ることとする。

愛知県警が伊藤氏を逮捕したからには逮捕を妥当とする法律上の解釈がありえたのだろうが、権力はどんな理屈でもつけるもの、今のところその是非は論じない。しかし私にはこの問題のどこに警察の乗り出す犯罪性があるのかが分からないのである。確かに「口頭試問の問題を事前に教えた」のが事実であればフェアーではない。しかし「論文博士」の場合、口頭試問と云ってももともと儀式化しているのが実態であろう。その実態から離れて「口頭試問の問題を事前に教えた」と決まり文句のようなことをいいたてても事態の把握とはほど遠いものである。いずれにせよこれは警察の介入ではなくて学部内、もしくは大学内で対処すればよい問題である。

あえていうが、たかが「論文博士」を貰うかどうかの問題である。「論文博士」にいったいどんな値打ちがあるのだろう。(論文)医学博士号を欲しがるのは多分開業医とか勤務医、さらには官公庁の公務員なのであろう。しかし例えば開業医が医学博士号を得たとしても、病院・医院の看板に「医学博士 何のなにがし」と掲げることは認められていないはずである。「お上」からして医学博士号の値打ちを認めていないからである。となると論文博士号を欲しがるのは自己顕示欲のみと断じてもあながち的はずれではなかろう。論文博士号を貰う方も与える方もお金が動くことで双方とも満足する、どこにも被害者がいないではないか。そのどこが犯罪なんだろう(私に俗説上の田沼意次が乗り移ったようである)。

折に触れて医者への診療報酬外の謝礼が問題になる。お世話になった先生にいくら包んだらいいだろう、と頭を悩ませた人も多いはずである。大学病院で難しい手術を受けるときなんか、特に気を遣うのではなかろうか。この医師と患者との間での金銭のやり取りは論文博士号の授受に伴う金銭のやり取りと本質は変わらない。医師への謝礼をめぐって世間が騒ぎ出すと病院内に「謝礼お断り」の張り紙が出る。こういう事が過去何回も繰り返えされているうちに「謝礼お断り」が社会的にも次第に定着してきたとは思うが、その慣習が完全になくなったわけではなかろう。だから今回の出来事をきっかけに名古屋市立大学大学院医学研究科の教室や教授室の扉に「学位取得にともなう金品の贈与は一切お断りいたします」というような張り紙を貼り廻ればいいのではないか。仮にそれに従わない教員が出たとしても学内で処分すればよいのである。もっとも税法上の違法行為があればこれこそ法律的に処断されるべきなのである。

もちろん私は学位の売り買いとも受け取られかねない金銭のやり取りを支持しているのではない。一挙に警察の出動となったことに疑義を感じているだけのことである。しかし勇み足気味の愛知県警の介入を機に、「論文博士」を一挙に廃止する方向に世論が動けばよいと思っている。「論文博士」の出鱈目さかげんは知る人ぞ知るではないか。中央教育審議会はすでに「論文博士」を将来的に廃止する方向で検討すべし、との方針を打ち出している。博士号取得希望者へは現在の大学院制度の柔軟な運用によって応えればよいのである。

銀座 音楽ビアプラザライオンで

2007-12-11 13:06:40 | 旅行・ぶらぶら歩き
東京に出て来ると一度は銀座をぶらつく。銀ブラである。今回は着いた一日目の夜をつばめグリルで過ごし、そのあと銀座4丁目の方に歩いていると、道を距てて「ALFRED DUNHILL」のネオンが目に入った。どうもビル全体がダンヒルのものらしい、照明が皓々として大勢人だかりがしているのでカメラを向けた。後で知ったことだが、翌12月1日の開店を前に最後の仕上げをやっていたようである。



四日目の夜も銀座7丁目の音楽ビアプラザライオンで過ごした。行くところがないとつい足が向いてしまう。といっても以前来たのはいつか思い出せない。銀座ライオンの五階にあって午後6時半から4ステージの生音楽を楽しむことができる。かならず歌のあるのがいい。まだ時間が早かったので銀座のあちらこちらを歩き回り、そろそろ行こうかなと並木通からみゆき通に入り中央通の方へしばらく歩いていると、後から「もしもし」と男性に声をかけられた。振り返ってみると私より遙かに立派な身なりの紳士である。客引きであるまい、と心を許して「はい」と応えた。

松坂屋の並びで銀座7丁目のライオンという店に行きたいが、とのこと、偶然に驚きながら「私もそちらの方にまいりますから、ご一緒しましょう」と申し出た。道すがらこの紳士、「若い人に何人か声をかけたのですが、はかばかしい返事ではなかったので、私と同年配の方にお訪ねしようと思ったらあなたが目に入りましたので」と仰る。つづけて「私は70歳です。実はたった今ロンドンから帰ってきたところで、直接やって来ました」に始まり、会社を定年後ロンドンで仕事をしているとかなんとか、絶え間なく話をなさる。お蔭で私は余計なことを話せずに済んだが、ひょっとして日本語のウオーミングアップかな、と思ったりもした。中央通に出て銀座ライオンを指差すと、有難うございましたと云いつつ、紳士はそちらぬ向けて足を速めた。私は銀座ライオンの裏にまわり、エレベータを待っていると、その紳士がまたやって来た。会社のOB会に来たのですが会場は6階だと云われましたので、との事である。紳士らしく私をまずエレベーターに乗せ、私は挨拶を交わして5階で降りた。

音楽ビアプラザライオンでは舞台に近いテーブルがまだいくつか空いていて、私は前から二列目のテーブルに通された。それからは携帯でアップロードしたとおりで、結局第三ステージまで腰を落ち着けていた。結構常連さんも多いようで、合間に出演者げテーブルを廻ってきて親しげに話し合っていた。当日出演者のリクエストリストにあるように、演奏曲目はポピュラーなものばかり、知っている歌は隣の女性三人客に習って演奏を邪魔しない程度に声をあげてきた。



音楽料は1050円であったが、これだけ払うと最後までビール一杯でもよいのだろう。また東京の人が羨ましくなってきた。


民営化郵便局になってもたもた

2007-12-10 19:56:49 | Weblog
国立国会図書館から送られてきた徳弘時聾(太)著「清虚洞一絃琴譜」の複写物に、郵便振替払込書が同封されていたので払込みに出かけた。近所の郵便局で一人先客がいたがいつものように4番窓口に並んだ。しばらく待っていると局員が「番号札を取ってお待ちください」という。なるほどプラスチックスの箱に葉書大の番号札が入っているので5番を取った。それにしてもいつもと様子が違う。はたと思い出した。民営化されて郵便局に来るのは今回が初めてなのである。

まず気づいたのは愛想のよいガードマンの服装をしたおじさんがいなくなったことである。それと局員が2人しかいなかった。そのせいかどうか、仕事がなかなかはかどらない。そして「お知らせ」が目に入った。「民営化に伴い、お取り扱いの種類によっては、お一人にかかるお時間が30分~1時間以上になる事もありますので、ご了承下さいますようお願いいたします。 神戸○○○郵便局長」書かれている。冗談じゃない、振込みするだけで下手すると30分以上もかかるなんてとんでもない、と思った。しかしこの「お知らせ」をノートに書き写してもまだ順番は来ないし、窓口①小包、②郵便・小包、③貯金・為替・振替、④保険・年金・恩給と書き写してもまだ呼び出しがない。来てから15分は経っていた。

後からお客が入ってくる。自分で番号札を取る人もおれば、人にいわれて取る人もいる。ようやく1人片付いて番号札2番の人が呼ばれた。いつの間にか10番の番号札が次の客を待っている。20分をまわるころまでにすでに3人が出て行った。待ちきれなかったのだろう。それ以外にもドアを開けただけで客の多いのに嫌気がさしたのか廻れ右をする人が2人はいた。

番号札と順番待ちの客の数がどうも合わない。よく見ると「郵便以外は番号札を引いてお待ち下さい」との掲示が出ている。切手を買ったり速達を出したりする人が番号札を取らずに待っているのであろう。その郵便業務を1人でこなしているからそれ以外の業務をもう1人の局員が受け持っていることになる。まだ次の番号が呼ばれない。

25分は過ぎただろうか、奥から女性局員が1人出て来て計3名となった。②番の窓口に坐って郵便客を1人相手にした。それが終わったかと思うと、「払込だけの方はおいで下さい」と声を張り上げた。すると私の後から来た若い男性が窓口に進んだので私も立ち上がった。

「私も払込だけだけれど、この方よりは先に来ているはずですよ」といった。その通りなので若い男性客は順番を私に譲ってくれた。それにしても何のための番号札をなんだろうと思い、女性局員に「なぜ番号を呼ばないんですか、客の方は誰が何番の札を持っているのか、分からないじゃないですか」と問いただした。ところが女性局員はまったく無言、返事をしない。不手際を詫びることすらしない。私が何か通じないことでもいったのかと思ったので、さらに言いつのることなく、手続きだけを済ませた。振込手続きが終わったのが局に入ってちょうど30分だったが、その間に番号を呼ばれたのはただの1人だった。

確かにこの番号札はまったく用を足していない。箱に番号札を入れているだけで客は順番に札を取っていっても、局員は何番の客が窓口にいるのか、最初は2人、あとでは3人の局員の間で連絡を取り合っていないから分かるはずがない。だから自分の客が終わって次に何番と呼びようがないのである。では何のために番号札を出すのかといえば、私が想像するところ、客同士がお互いの番号を確認して「今度はあなた、次はわたし」と客同士の調整を期待しているようである。番号札発行装置があれば何の問題もないのに、この郵便局はそれすら置いていなかった。

ところで振込は郵便業務なのかそれ以外なのか、窓口の分類では郵便には含まれていないようであるが、現に郵便の窓口で振込を扱ったのであるから、郵便・振込とすればいいではないか。本人の身元確認とか余計なことをする必要もないから手続きに手間取りはしないだろう。

「お知らせ」に書かれていることは民営化に伴う過渡期現象なのだろうか、それとも恒久的なものだろうか。とにかく民営化後始めて郵便局を訪れてこのもたもたに振り回されてしまった。かってのテキパキしたあの働き者の郵便局員はどこに行ってしまったのだろう。郵便局員は改めて郵便局会社の社員となってこれまでと同じ仕事をするはずであるが、いわば郵便事業会社、郵便貯金銀行、郵便保険会社の下請けのようなもので、どう考えても志気が上がらないのかもしれない。いずれにせよ二度と郵便局で払込はしないときめた。

東京の人はいいな 東京藝術大学にて

2007-12-10 13:50:11 | 音楽・美術
時間の経つのがとにかく早い。そして、東京を歩き回っていたのは一週間前のことなのに、細かいことをもう思い出せなくなっている。メモをマメに取る習慣がないからなおさらのこと、それなのに昔のどうでもいいことは覚えている。

東京二日目(12月1日)に歩き回った上野界隈のことで私がまず思い出すのは、戦後まもないころ、時の警視総監が歳末警備の視察とかで夜の上野公園を巡回中、男娼に殴られたとかいうどうでもよい話である。しかし警察には大層な出来事だったようで、その後長期間、上野公園が夜間立ち入り禁止になったとかである。それが今は国立博物館、国立西洋美術館、東京都美術館、上野の森美術館に加えて東京藝術大学などが作りあげる一大芸術センターへとイメージが変わってしまっている。

国立博物館で「大徳川展」をしていたが、私が前を通りかかった頃は、土曜日ということもあってか「待ち時間80分」の掲示が出ていたので敬遠し、本来の目的であった旧東京音楽学校奏楽堂を目指した。明治23年(1890)に東京音楽学校(東京藝術大学の前身)の本館として洋風の建物が建造されたが、その2階にある日本最古の音楽ホールなのである。滝廉太郎や山田耕筰もその舞台に立ったというまさに歴史的な場所である。

私がかって「埴生の宿」を共演?した三浦環さんは1900年に東京音楽学校に入ったというから、当然この舞台を踏んでいるはずである。土曜日はこのホールが公開されているはずなので、舞台の上で二人が並んで歌っている姿を陶然と思い浮かべるべく旧東京音楽学校奏楽堂に急いだのである。ところが哀れや哀れ、「本日はホールを使用していますので、公開していません CLOSED」と掲示が出ていて、門は閉ざされていた。



そして横の掲示板を見てさらに大ショック、そこには「 畑中良輔がご案内する日本の歌100年の旅」とあって、12月1日と12月22日の二回に亘って、私の大好きな日本歌曲が演奏されることになっていたのである。それも涎が出そうな曲ばかり(インターネットで詳しい内容を知ることが出来る)。それなのに「チケットは完売いたしました。当日券はございません」と断り書きが貼り出されている。ホールを見られないし、またとない演奏会も聴けないという二重のショックを受けてしまった。帰って調べたらこの奏楽堂ではかずかずのコンサートが催されているようである。洋楽のみならず邦楽もある。次回は必ずまえもって調べておくこととする。



ショックはこれだけではなかった。藝大の構内に入ると次のような掲示があった。



「東京藝術大学大学院オペラ科平成19年度第II期 オペラ・ハイライト ”イタリア・フランスオペラの粋を集めて”」が昨日の11月30日の午後2時から催されていたのである。Donizettiの「ランメルモールのルチア」、「愛の妙薬」に「アンナ・ボレーナ」、Bizetの「カルメン」、Gounodの「ファウスト」に「ロメオとジュリエット」からアリアに重唱のかずかず。この催しのあることを知っていたら国会図書館に行く代わりに絶対聴きに来ていたこととまた残念に思った。

それにしても東京の人はいいなと思う。このような催しが多分目白押しにあるのだろう。ほどほどの入場料を払うかもしくは無料で芸術を味わえるなんてほんと恵まれている。東京藝術大学芸術資料館の平櫛田中記念館がたまたま公開されていたので、「洟垂れ小僧」気分でちょっぴりお零れを味わってきた。


国立国会図書館にて

2007-12-07 23:12:29 | 一弦琴

国立国会図書館で徳弘時聾(太)著「清虚洞一絃琴譜」を目にするのが、東京行きの目的の一つでった。そのために前もって国立国会図書館の登録利用者カードをインターネットで申込み入手していた。カードには英数字の利用者IDが印字されているが、パスワードは別紙に記されていた。

東京に着いた午後、大手町から半蔵門線に乗り永田町で下車し、少し歩くと国会図書館だった。入り口の器械に登録利用者カードを挿入し、パスワードを入力するとプラスチック製の入館カードが出て来る。館内IDが記されており、以後すべての作業に入館カードを使うことになる。まずこのカードでゲートを通り抜けて入館した。

パソコンの操作にも入館カードがキーになる。借り出したい書籍を検索して書誌情報を印刷し、窓口に提出する。しばらく待っていると書籍が受け渡しカウンターに届き、大型液晶スクリーンに館内IDが表示されるので、それを見て書籍を受け取る。2、30分待てばいいのでなかなか効率的だと思う。ただ私はまだ操作に不慣れだったので、2冊借りるのに1冊ずつ申込書を作ってしまい、同時に2枚提出したのに2冊目がなかなか出てこず、かなり時間を無駄にした。1枚の用紙で2冊分申し込んでいたら、時間はかなり節約できたかも知れない。

待望の「清虚洞一絃琴譜」を手にした。帙に和綴じ本が1冊納まっていた。表紙の裏には「寄贈 松崎一水 殿」と受入日であろうか「63.7.22」の二つのスタンプが捺されてあった。松崎一水とは著者徳弘時聾(太)の三女で清虚洞一絃琴家元三代目であり、私の師匠が師事された方でもある。この寄贈があってこそ私たち後進が貴重な文化財に接することができるのであるから、なんとも有難いことである。



私はこれまでも万が一にも「清虚洞一絃琴譜」が見つかればと思い、大阪、京都の古本屋を探し歩いたが、僥倖に巡り合うことはなかった。その本が目の前にある。これをなんとかして丸ごとコピーしたいのである。書籍の著作者が死後五十年経っておれば、著作権は消滅するので丸ごとコピーに支障はない。「清虚洞一絃琴譜」は出版が明治32年(1899)6月30日なので、すでに100年以上経っている。著作権は消えていることを私は知っていたが、まずは館員の指示に従い著作権の有無を調べて貰うことにした。専用のカウンターで係員に著作権のデータベースであろうか検索して貰ったが「清虚洞一絃琴譜」が出てこない。私が徳弘太の没年ならインターネットで調べられますよ、と口を挟み、係員が「徳弘太」を検索して没年が1921年(大正10年)であることを確認した。ここで私の書いたブログが大いに役だってくれたのである。これで「清虚洞一絃琴譜」の著作権が切れていることのお墨付きを貰ったことになった。

複写の申込もパソコンで行う。資料のどの部分を複写したいのか、申込用紙に書き込むのであるが、和綴じ本の場合はページが印字されていないからページでは指定できない。栞を挟んでその箇所を示すことになる。複写はインターネットでも申し込みできるが、このような作業は現物がないと出来ないので、どうしても国会図書館に出向かざるをえない。「清虚洞一絃琴譜」の丸ごとのコピーを私は申し込んだが、和綴じ本のコピーにはいくつかの問題があった。

和綴じ本とは印刷した和紙を二つ折れにして一冊にまとめ、右側を糸で綴じた本をいう。私が目にして一番問題だと思ったのは、和紙が薄いために反対側の文字が透けて見えることなのである。ひどいところでは裏表の区別がつかないぐらいなのである。これをコピーしてもほとんど判読が出来ないだろうと思うぐらいである。そこで二つ折れにした和紙の間にやや厚めの紙を挿入して、裏の文字写りのない状態でコピーしてほしいと申し出た。ところがそれでは手間がかかりすぎるし、また折り目を破るようなことがあってはいけないので、そういうことは出来ないという。自分でやるから、と申し出ても駄目だとのこと。複写の際のコントラストを調節して、文字写りを最小限に抑えるのがせいぜい出来ることだという。ではそのようにして複写した見本を見せて欲しいとお願いすると、館員も快く引き受けてくれてお試しコピーを作ってくれた。その出来上がりを下に示すが、これなら解読に苦労することはない鮮明な出来上がりである。そこで複写を申込み、出来上がりを自宅送りの手続きをしたところ、早くも5日後には宅急便で届いた。



こう書いてしまうと話はトントン拍子に進んだように見えるが、実は複写手続きなどについては、複数の館員とのやり取りにかなりの時間がかかったのである。ところがどの館員も、私の納得のいく説明を手際よくしてくれたし、利用者の立場に立っててきぱきと仕事を進める姿に、公僕という古ぼけた言葉が私の頭を横切ったのである。予定の用事を片付け、国会議事堂のまわりを半周してから地下鉄で銀座に出た。

鼠小僧次郎吉のご利益

2007-12-06 20:00:50 | 旅行・ぶらぶら歩き
両国の江戸東京博物館を見物したついでに回向院に向かった。天明元年(1781)に境内で行われた勧進相撲が国技館大相撲の前身ということなので、以前にも朝青龍のことでブログで触れたこともあり、とにかく見てやろうと思ったのである。勧進相撲の場としての面影は消え失せていたが、思いがけなくも有名人のお墓に出会った。鼠小僧次郎吉なのである。

回向院は明暦三年(1657)の江戸大火(振袖火事)の死者を埋葬した無縁塚が起こりであるが、万治年間(1658-61)に刑死者を弔うために三仏堂が建てられ、さらに寛文七年(1667)には小塚原刑場に別院の常行庵が建てられたと言うから、この刑場で処刑された鼠小僧次郎吉のお墓があるというのも辻褄が合う。



もともと鳶人足であった次郎吉が身をもちくずし武家屋敷などに侵入して盗みをはたらき、一旦捕まえられて入れ墨・追放となった。しかしその後も盗みを重ね、天保三年(1832)、最後に大名屋敷に忍び込んだところで捕まり、江戸市中引き回しの上、小塚原で磔、獄門となったのである。

武家屋敷での盗みが多かったので当時から義賊との評判が高く、盗んだ金品を貧乏人に分かち与えたとの話が芝居や講談などで語り継がれて広まった。この次郎吉の墓碑の前に「お前立ち」という石塊が置かれていて、見ていると参詣人が小さな堅い石片でこの「お前立ち」を削っていた。立て札にそうするように書かれているのである。

削り取った粉をどうするのかと思って尋ねてみると、この粉包みをお財布に入れておくとお金が増えてくるとのことなのである。義賊の施しということだろうか。私も石塊を削り粉を集め硬貨入れに入れて持ち帰った。しかし今では札入れに収まっている。次はこのお札で宝くじを買ってみようかと思う。