9月9日 彰義隊をご存じでしょうか? 澁澤平九郎は1968年、戊辰戦争に際し、幕臣として、彰義隊から振武軍の副隊長として戦い、最後は埼玉県・越生(おごせ)の黒山で新政府軍に追い詰められ、20歳の若さで自刃し果てました。今年は没後150年になります。
彼は明治の実業家・澁澤栄一の従弟で、かつ養子であり、私の曽祖父の従弟であり、振武軍の隊長・澁澤成一郎(喜作)の従弟でもあります。
彼の唯一残る写真がこれです。この美丈夫ぶりから「幕末のイケメン」などといわれ、近頃、“歴女”の間では人気なんですって。今日は郷土史研究家の町田尚夫氏のイニシアティブで、澁澤一族の人々や関係者の方々と、平九郎ゆかりの地をめぐる追悼ミニ・ツアーです。私の妹夫婦も、澁澤喜作の曾孫の尚子さんも、澁澤栄一の孫の鮫島純子さんと、その令息ご夫妻も参加します。
がんばって6時起きして、八王子で妹夫婦と待ち合わせ、八高線に乗って埼玉県の越生へ行きました。10時ごろ全員そろって、車2台で出発。まず平九郎自刃の地・黒山へ。150年前は険しい山道だったのでしょうが、いまはきれいな舗装道路です。
20歳の若者は、追い詰められ、もはやこれまでと、この石の上にすわり、自刃し果てたのです。戦いの中で、味方とはぐれ、ひとり追い詰められ、さぞや無念だったことでしょう。赤いカーネーションを捧げました。
平九郎自刃の地の記念碑と澁澤一族。左から3人目が私。右端は澁澤栄一の孫・鮫島純子さん。96歳にして心身ともに、きわめてお健やか。
次は平九郎のお墓のあるお寺、全洞院へ。堂内に平九郎や喜作の写真が飾ってありました。遺体を見て憐れんだ人々が埋葬したときは、おそらく敗走してきた幕府側の武士だろうというだけで、何者かわからなかったそうです。
お寺の裏山にあるお墓には、お花やお酒が供えてありました。お参りに来る方があるのでしょうか。実は自刃した後、首を打たれて、ここに埋葬されたのは、からだだけでした。自害した者の首を打つのはルール違反ですよ。
身元のわからなかった者をていねいに埋葬してくださったお寺に感謝。みなでお参りしました。
最後は「埋首の碑」のある法恩寺へ。
「澁澤平九郎埋首の碑」にもカーネーションを捧げました。ひとりはぐれることがなかったらと思うと、その哀れと痛ましさに、150年前のこととはいえ涙を禁じえません。振武軍の隊長だった喜作の曾孫の尚子さんは、お墓に向かって「ごめんなさいね。はぐれさせちゃって」と言っていました。大政奉還、明治の代になり、欧州から帰国した澁澤栄一は養子・平九郎の非業の死を嘆き悲しみ、首と体を掘り出し、谷中の墓地に埋葬しました。
午後は、越生町の中央公民館で「生涯学習のつどい」。「澁澤平九郎ー幕末維新、二十歳の決断ー」と題した講演や、説教節「飯能の嵐 澁澤平九郎自刃の段」などがあります。お昼は越生町お心づくしのお弁当をいただきました。
「澁澤平九郎没後150年講演」について、読売新聞のさいたま版に出たこともあって、会場は補助椅子を出しても入りきれないほどの大入り。越生では平九郎さん、スターなんですね。飛鳥山の澁澤史料館副館長・桑原功一氏の講演の後・・・
三代目 若松若太夫の説教節「平九郎自刃の段」。説教節って、三味線を弾きながら語る浪曲みたいなものです。その後、人形浄瑠璃も。
お土産にいただいた平九郎うちわ。帰りはみんなで越生駅までぶらぶら歩きました。
越生町には江戸時代を想わせるこんな古い家も残っています。
越生町の名物は梅。梅ようかん買いました。右は同じく名物のユズ・ドリンク「ゆず之介」。
没後150年 戊辰戦争150年 収蔵品展
澁澤平九郎
- 幕末維新。二十歳の決断 -
7月12日~12月9日(日)
場所は東京都北区の飛鳥山にある「渋沢史料館」TEL;03-3910-0005
平九郎さんにご興味のある方、のぞいてみてください。
平九郎が黒山にひとり敗走し、自刃する直前に立ち寄り、大太刀を預けたという茶屋が、顔振峠に残っているそうです。今回のツアーでは訪ねなかったので、今度、ぜひ訪れてみたいと思います。
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